第三章 泡沫(3)
ラドキースが外へ出ると、子供達の姿が見えなかった。数歩歩いて地面を見れば、つたない文字で綴られた単語が沢山書き連ねてあった。あちらこちらに小さな掌の跡もある。ラドキースはそれらに目を止め思わず微笑む。それにしても子供達は...? と思い、辺りを見渡すと、向こうの茂みの方に踞っている小さな姿が二つ見えた。
「どうしたのだ? 二人とも」
「あ、とうさま」
ラドキースが大股に近付くと、子供達は二人揃って立ち上がった。シュナが何やら両手に抱えていた。
「せんせい、うさぎがけがしてるんだ」
「ちがでてるの、どうしよう...」
幼い子供達は、まるで自分たちが怪我を負ったかの様な顔でラドキースに訴えた。見ればシュナは灰色の仔兎を大事そうに抱えている。その足は裂け、赤い血で染まっている。
「ふむ、狐にでも襲われたのだろう」
ラドキースは仔兎の傷を見ながら言った。
「骨も折れているな...。手当てしてやろう」
添え木になる様な木切れを拾うと、ラドキースは子供達を促した。
「どうぶつにも、いじわるなやつはいるんだね、ラディせんせい」
ラドキースが手当をする仔兎が動かない様に押さえながらシュナは尋ねた。
「意地悪というのとは違うかもしれないな.....。動物が他の動物を襲うのは本能的なものだからな」
ラドキースは兎の足に傷薬を付け布を巻くと、添え木に括り付けた。
「ほんのーてきって、なあに?」
エルが首を傾げた。
「生まれながらにそういう風に出来ているって事だ。生きる為にな。強い者は弱い者を喰らい、弱い者はより弱い者を喰らい、そしてさらに弱い者は植物を喰らう。そして動物達は死ぬとその屍を地に返し、植物はその養分を摂って育つ。自然は回っているんだ。動物が他の動物を襲い殺すのは、仕方の無い事だ。だが人間は違う。強い者が弱い者を傷付けるのは許される事ではない。剣は力無い者を守る為にある。分かるな? 二人とも」
「「はいっ!」」
幼い二人は声を揃えて返事を返した。
その日二人は、ラドキースから “うさぎ” と “きつね” の文字を習った。明日は、仔兎の餌になる草を沢山摘んでエルの家へ行こう。シュナは帰り道、そんな事を考えた。
シュナが仔兎にやろうと、タンポポやハコベラの葉を摘みながらやって来ると、家の前にエルがしょんぼりと座っていた。いつもの丸太にちょこんと座り足をぶらつかせているエルの前には、籠の中で大人しく草を食んでいる仔兎がいる。まだ足に添え木を当てているが、あれから随分と元気そうになった。
「どうしたの? エル?」
シュナが隣に座ってもエルは俯いたままである。
「いまね、おいしゃさまがきてるの」
エルは泣きそうな声で言った。
エルの家には、時々医者がやって来る事をシュナは知っていた。そして医者が来るとエルは決まって泣きそうな顔をする。そんな時シュナは、エルの頭を何度も撫でてやる。一年と少ししか歳は離れていなかったが、それでもシュナには自分の方がエルよりも年上だという気負いがあるのだ。
「セリーおばちゃんのびょうきは、きっとなおるよ、エル」
そう言って慰めると、シュナは握っていたタンポポとハコベラの葉をエルに持たせた。エルが泣きそうな顔のまま葉を仔兎の口元に翳すと、兎はしゃくしゃくと小さな口を動かした。
「ねえ、エル。セリーおばちゃんがげんきになったらやりたいことをかんがえようよ」
「かあさまがげんきになったらやりたいこと?」
シュナの務めて明るい声にエルが興味を示して顔を上げた。
「そうだよ。いちばんさいしょにするのは、やっぱりおいわいだよね」
エルは途端ににっこりと笑って頷いた。
「こーんな、おっきいおかしをつくるの!」
エルは無邪気に両手を一杯一杯に広げて見せた。
「きのみがいっぱいのったやつがいいね」
「うんっ! ごちそうもいっぱいつくるの」
「うちのかあちゃんがつくってくれるよっ!」
「それからねえ、かあさまととうさまと、シュナとおばちゃんと、おさんぽにいってみずうみのとこでおべんとをたべるの」
「みずうみって、どこにあんのさ?」
「ん〜? わかんない」
「かわじゃダメなの? かわならちかくにあるよ」
「じゃあ、かわでもいいよ。あとねぇ、まちにもいって、あとかあさまにししゅーをならうの」
「ししゅーってなんだ?」
「ん〜と、ぬのにきれいないとでえをつくるやつ」
「ああっ、あれか。ずっとまえに、おばちゃんがうちのかあちゃんにくれたやつだろ?」
「うん、それっ」
「あれ、かあちゃん、すっげぇだいじにしてんだよ。ぼくがさわるとおこるんだ」
シュナが顔を顰めると、それが可笑しかったのかエルはきゃっきゃと笑い始めた。そこに家の扉が開いて、大きな革鞄を下げた初老の医者とラドキースが出て来た。二言三言言葉を交わすと、ラドキースは頭を下げた。
医者が去るとエルは駆けて行き、父親の足にしがみついた。
「せんせい、セリーおばちゃんだいじょうぶ?」
シュナの声も心細気であった。
「ああ、大丈夫だ。少し熱を出しただけだ」
「ほんとうに? とうさま?」
エルの顔は、また泣き出しそうになっていた。
「ああ、本当だ」
ラドキースはいつもの様に微笑んでいる。父の笑顔を見て安心したのか、エルもほっとしたように身体の力を抜いて笑った。
「今日は剣のけいこは休みだ。二人とも遊んでおいで」
「「はあいっ!」」
二人は、返事と共に仔兎へと駆け戻った。その様子を暫し眺めると、ラドキースは家の中へと消えた。
セレーディラは眠っている、そのセレーディラの手を握りながら、ラドキースは彼女の透ける様な蒼白い顔を悲し気な瞳で見守っていた。
九年前、ユトレアで彼女が鏡の欠片で手首を切った時も、やはりこんな気持ちで彼女の眠る顔を見詰めた事が脳裏に甦った。セレーディラ無しで生きて行く自身など無いと思った。彼女のいない人生など、ラドキースには考えられなかった。
「神よ....。私から彼女を奪わないでくれ......」
知らぬうちに呟いていた。何かが頬を伝った。手で触れると濡れていた。いつの間にか涙が零れていた。暫くの間、己の濡れた指先に驚き呆然とする。自分は泣かぬ人間だと思っていた。涙など無いのだと思っていた。子供の頃に実母が暗殺された時でさえ涙など出なかった。涙の零れる感触などとっくに忘れていた。それなのに.........。