第二章 幸福の灯〜トラジェクにて〜(5)
その日、バレンは町の材木商に木材を卸しに出掛けた。
仕事を終えて後、材木商に馬車を預け、ナスカからの頼まれ物を買い求めるべく市場へと出向く。片田舎の町とはいえ、庶民の生活の場にはやはり活気がある。バレンは顔見知り達と世間話などを交わしながら買い物を終えると、折角なので一杯やってから家路につこうと考え、行きつけの酒場へと足を向ける。その道すがら、庁舎前の広場に人垣が出来ている事に気付いた。
「はて、何だろなあ?」
気になり、バレンの足は自然とそちらへ向かう。
「どうしたんだね? なんかあったんかね?」
近くにいた若者を捕まえて尋ねてみる。
「何か、西の国のお役人が人探しをしてるんだとよ」
「人探し?」
「ああ。あそこに尋ね人の特徴が書かれてるよ。情報を領主様んとこに持ってけば報酬が出るらしい」
「ほう」
バレンは若者の指差す先の小さな立て札に目を向ける。
「何でも一人は黒目黒髪の長身のユトレア人の男で、歳は二十六。もう一人は金褐色の髪に空色の瞳のハーグシュ人の女。歳は二十三だってさ」
若者の話を聞いたバレンの脳裡に、ラディとセリーの姿が過る。バレンは若者に礼を言うと、踵を返して足早に馬車へと戻った。
バレンが馬車を急がせて戻った時、ラドキースは家の傍らで鋸を引いて木を切り分けていた。バレンの緊張した面持ちに気付いても、ラドキースは平静だった。ただ、来るべき時が来たのだろうかと、漠然とそう思ったのみであった。
西の国の役人が、黒目黒髪のユトレア人の男と金褐色に空色の瞳のハーグシュ人の女を捜索しており、賞金までかけられているという。ラドキースは悲し気なセレーディラの肩を抱き寄せると、バレンとナスカに向き直った。
「それは私達の事だ」
「やっぱり...、そうか....」
バレンは力無く呟いた。
「北から来たなどと嘘を言って悪かった」
「そんな事は、いいんだよ」
「この上は暇を告げねばなるまい、バレン、ナスカ」
目元を押さえるセレーディラを抱き抱えながら、ラドキースが表情を変える事無く別れを告げた。樵の夫婦は、その一瞬の内に表情を悲痛に変えた。
「ここに隠れ住んでりゃいいじゃないか!? こんな森の中だよ! そうそう尋ねて来る人もいないよ!」
ナスカの親身な言葉に、だがラドキースは静かな笑みと共に首を横に振る。
「万が一見付かった時、二人に迷惑がかかろう」
「迷惑なんて思うもんかっ! なあ母ちゃん」
「そうだよ、何言ってんだい!」
「二人の命にかかわるやもしれない事だ。だから、もうこれ以上厄介になるわけにはゆかない」
「ラディ...、セリー.....」
初老の夫婦は淋し気な表情で、それ以上の言葉も無く肩を落として項垂れた。
「ほとぼりが冷めたら、又戻っておいで」
大急ぎで旅支度をした赤子連れの若い夫婦を前にして、ナスカは目に涙を浮かべながら言った。バレンがラドキースの馬を引っ張って来た。
「これ、もう少しで出来上がるところだったのですが....。せめてものお礼に...」
セレーディラは見事な刺繍のされた布をナスカに差し出した。それは森の中の田舎屋を背景に四人の男女が草むらに座っている図であった。女の一人は手に赤子を抱いていた。その絵柄を眺めるナスカの瞳から涙が零れた。
「ありがとよ....、ありがとよ....」
ナスカは泣きながらセレーディラを抱き締め、小さなエルの額に口付けし、そして伸び上がってラドキースを抱き締めた。
「気を付けて行くんだぞ、二人とも」
バレンも鼻を赤くしてこの若夫婦を抱き締め、実の孫とも思っていたエルの頬をそっと撫でた。
「この恩は生涯忘れない。二人とも達者で」
ラドキースは馬に跨がり、エルを抱えているセレーディラに手を貸し抱き上げる様にして前に乗せると、バレンとナスカに頭を下げてそう言った。
「幸せにおなり、分かったね!」
ナスカの言葉に、セレーディラも泣きながら頷いた。遠ざかって行く樵の夫婦を、幾度も幾度も身を乗り出しては涙を流しながら振り返った。
バレンとナスカも又、いつまでも手を振った。森の木々が彼等の姿を隠しても尚、肩を落としたまま長い事その場に佇んでいた。
翌々日、朝早くに樵の家の扉を叩く者があった。二人きりで寂しく朝食を摂っていた初老の夫婦は、まさかラディとセリーが戻って来たのではと、一片の期待を抱いた。しかしそれもナスカが扉を開くまでの事であった。扉の外には数名の見知らぬ男達が立っていた。騎士団のお仕着せを身に着けた騎士が三名と、その他に二人のよそ者と思しき男達がいた。その男達も腰に長剣を下げているところを見れば、騎士か何かなのであろう。
「こちらのご仁方がお前達に暫し物を尋ねたいそうだ。神妙にお答えする様に」
お仕着せ姿の騎士が唐突に切り出した。バレンは俄に緊張しながら席を立って、扉口のナスカの傍らに立った。
「我らは人探しをしておるのだが、この男に似た男がお宅にいると聞いて出向いて参った」
よそ者の男は、懐から巻物を出しながら異国語訛のあるトラジェク語で口を切った。恐らくは材木商の親爺辺りが告げ口したのだろう。ほんの数回ではあったが、バレンは材木商へ木材を卸しに行くのにラディを伴った事があったのだ。
「この姿絵の人物に見覚えは?」
男は巻物を開いて見せた。開かれた羊皮紙に描かれていた胸元までの男女の姿絵は、見紛う事無きラディとセリーであった。実に良く描かれたものであった。二人とも、まるで王侯貴族の様な服装をしている。ラディは額に宝石の付いた細い冠をつけ、セリーも結い上げた髪に無数の飾りを付けていた。
「はて.....? どっかの王子さんとお姫さんか何かですかいな?」
「お前のところにいるという男は、この人物か?」
「はあ? うちにゃあ、わしとかみさんしかいないですがなあ」
「嘘は身の為にならんぞ」
「嘘じゃあないですよ、旦那。まあ、前にちょっとの間だけ旅人を泊めてやっとった事はあったがなあ。でも、こんな人じゃあなかったですよ。ちょっと似とるかもしれんが顔が違う。こんなに良い顔じゃあなかったよなぁ、母ちゃん?」
「そうだねえ、違うねえ、お前さん」
バレンに合わせてナスカもシラを切る。男は難しい表情で樵の夫婦を見据えていたが、やがて、傍らの連れの男にちらと目配せを送った。
「念の為屋内を調べさせてもらう」
「はあ、どうぞ」
五人の男達が小さな屋内を調べ始めた。
「これは何だ?」
「へ?」
「お前達に赤子がいるとも思えぬが?」
エルを寝かせていたゆりかごを指差して男が樵の夫婦を詰問した。
「それは娘夫婦が時たま孫をつれて来るんでね、そん時に使うんでさあ」
「ふむ」
男は、その答えに納得したらしい。
「その男だが、髪は何色であった?」
「髪? 焦げ茶でしたよ」
「材木屋の主人は黒髪の男だったと言っていたが?」
「黒ねえ....。真っ黒じゃあなかったよねえ、お前さん」
「そうだよなあ。」
「泊めたのは男一人だけか? それとも他にもいたのか?」
「男一人でしたよ、旦那」
「で、その男はいつ出て行ったのだ?」
「もう一月近く前になりますなあ。南へ行くとか言っとったかなあ.....。」
騎士達と、もう一人のよそ者の男が戻って来た。よそ者の男達が何やらバレンとナスカの知らない言葉でやり取りをする。恐らくは何の証拠も見付けられなかったのだろう。ラディとセリーが去った後、ラディの指示通り、二人の滞在を匂わす物は総て片しておいた。うっかりエルのゆりかごのみを隠し忘れたが、難無くごまかせた様であった。
よそ者の男は溜息を吐いた。落胆している様子であった。
「すまなかったな、お前達」
「いやあ、かまいませんて。お役に立てなかったようで申し訳ないですな、旦那」
「いや、期待はしていなかった故、気にするな」
「そのお二方は誰なんですかい?」
「ハーグシュの姫君、我らが主君であられるセレーディラ様と、亡国ユトレアの元皇太子、ラドキース殿下だ。黒将軍だよ」
「黒将軍?」
「何だ、知らんのか?」
バレンとナスカが首を横に振ると、よそ者の男は少し呆れ顔をした。
「何と、西の諸国じゃ黒将軍の名など、三つの幼子でも知っておるというのに...」
「すまんな、無知で....。で、その将軍さんとお姫さんは何だって行方不明なんですかい? 駆け落ちでもしなさったんですかい?」
バレンの素朴な問いに、ハーグシュの騎士は短いうなり声を立てた。
「真相は不明だ。邪魔をしたな」
それ以上を語る事無く、ハーグシュの騎士は背を向けた。
「厄介な事だ」
樵夫婦の粗末な家を後にしてのち、騎士は傍らに従う従者に自国語で呟いた。
「主君が駆け落ちなどと.....」
「黒将軍が無理に連れ去ったのやもしれません」
「本気でそう思うのか?」
「......」
従者は口ごもる。
「あのお二人が子を成す前に見つけ出さねば。ハーグシュ、ユトレア両王家直系の子など、万が一ユトレアの残党などに押さえられてみよ、新たな厄介事の種になろうぞ」
ハーグシュの騎士は苦々し気に眉間に皺を寄せたまま、後は口を閉ざした。
不意の客人が去った後、バレンとナスカは無言のまま席に着いた。
「あの二人は大層な人達だったんだねえ、お前さん」
ナスカが放心した様に呟くと、バレンも「たまげたなぁ」と、相槌を打った。
「ラディが、あの黒将軍だったなんてなぁ....」
「何だい、お前さん? 黒将軍なんて知らないって言ったくせに、知ってたのかい?」
「当たり前だ。わしだって、黒将軍の名前位は知っとったさ。しかしたまげたなぁ....」
「無事に、逃げてくれるといいんだけどねえ....」
バレンとナスカには、ただ祈る事しか出来はしなかった。
第二章 終