第二章 幸福の灯〜トラジェクにて〜(3)
赤子はエルディアラと名付けられた。セレーディラの希望により、北方神話の全能の神の娘の名から取られた。
「この子が将来エルディアラの様に、総てを捨ててでも愛する人と幸せになれます様に。今のわたくしのように....」
夢見る様な表情でセレーディラは囁いた。
「父を裏切ってでもか?」
ラドキースは忍びやかな低い声で笑った。小さなエルディアラは、俄造りの干し草の寝床ですやすやと眠っている。ラドキースとセレーディラは小さな寝台に身を寄せ合い、獣脂の蝋燭のささやかな灯りの中、傍らの小さな寝床で安らかに眠る娘の顔を眺めていた。やがてセレーディラが眠りに落ちても、ラドキースは暫くの間、妻の甘く静かな寝息を聴いていた。
「エルや、これを見ろ〜、ベロベロバァ〜」
ナスカの腕の中でむずかる赤子を、バレンが戯けた顔を作ってあやしていた。
「馬鹿だねえ、お前さん。まだ目なんか見えやしないよぅ」
「あ、そうか...。弱るのう、エルがご機嫌ななめだと...。腹が減ってるんじゃないか?」
「そんな事はないさね。さっきお乳をたんと飲んだばかりだよ。ねえ、エルや。お腹がくちくなって眠いのさねえ?」
ナスカの予想通り、間も無くして小さなエルは小さな寝息を立て始めた。
「手慣れた物だな。泣き声で分かるものなのか?」
ラドキースもセレーディラも感心の眼差しをナスカへと向けていた。
「赤ん坊ってのはね、口がきけない代わりに泣いて物事を訴えるんだよ。大丈夫、セリー。お前さんにはすぐに分かる様になるよ」
「そうでしょうか.....」
「そうさね。母親なんだから。自身をお持ち」
寝台で半身を起こしていたセレーディラが、その傍らに腰掛けていたラドキースに目を向けると、彼は微笑み妻の肩を抱いた。
「ところでお前さん方は、何処から来たんだい? 見たとこ、トラジェクのもんじゃ無いんだろう? 言葉は達者だけど」
「北から来た」
ラドキースは短く答える。無論偽りであったが、気の良い初老の夫婦は何の疑いも持たずにすんなりと信じる。
「ああ、そうか。そんでエルの名前を北方神話から取ったのか」
バレンが大仰に納得した。
「旅の途中なのかい?」
「ああ」
「セリーが身重だったってのに、急ぎだったのかい? 一体何処へ行く途中なんだい?」
ナスカが顔をしかめて尋ねた。
「...急ぎと言えば急いではいたが.....。目的があったわけでは無いのだ」
「何だそりゃぁ?」
バレンが分けが分からんといった顔をすれば、ナスカが 「ああ〜!」 っと声を上げて対照的なしたり顔を見せる。
「お前さん達、駆け落ちでもして来たんだろう?」
ラドキースとセレーディラは目を見交わし、少し哀し気にも見える笑みを浮かべた。
「おや? 当たりかい? やれやれ....。急いでたって事は、家族に追われてでもいたのかい?」
「ああ」
「どっちの家族にだい? お前さん達、両方の家族からかい?」
ナスカが気の毒そうな表情を浮かべて更に尋ねる。
「.......セリーのだ」
「そうかい...。そんで北からこんなトラジェクくんだりまで逃げて来たのかい」
バレンとナスカが二人そろって物憂気な溜息を吐いた。
「あんたラディ、大方いいとこのお嬢さんだったセリーを、その顔で誑し込んで、言いくるめて連れ出して来ちまったんだろう?」
ナスカの言葉にラドキースは唖然とし、咄嗟に返す言葉も出て来なかった。
「それともあれかい? 美しいお嬢様を垣間見て惚れ込んじまって、攫い出して来ちまったとか?」
「何やら、私は悪人の様だな......」
セレーディラがくすりっと笑い声を立ててラドキースの困惑顔を見上げる。
「じゃあ、こうだ。ラディはセリーの家に仕える騎士様で、箱入り娘のセリーは、男前の騎士様に一目惚れして..」
「お前は想像力豊かだなあ、全く」
バレンが呆れてナスカの話を遮ると、セレーディラはとうとう声を上げて笑い出した。その横でラドキースも苦笑を見せている。
「まあ、そういう事情ならゆっくりしていったらいい。好きなだけここにいたらいいさ。なぁ、母ちゃん?」
「そうだよ。あばら屋が嫌じゃなかったら、ずっといてもいいんだよ。こんな赤ん坊を連れて旅するなんざ、大変だよ」
大陸中原に位置するトラジェク。ほんの十日程前まで二人が滞在していたウォーデンの、その北東に隣接する王国であった。ウォーデン王国よりも広い国土を有するトラジェクの、ここは王都から大分離れた片田舎の森の中である。人目はそう多くは無いであろう。確かに乳飲み子を連れての旅が楽ではない事は容易に知れた。
二人は、バレンとナスカの親身な言葉に、暫くの間甘える事にしたのであった。
バレンは樵であった。この森で斧を揮って木を切り倒し、週に幾度か町へと売りに行き生活をしていた。
「あんた、細く見えるがいい肩しとるなぁ、ラディ。さすが騎士様だな」
ラディ____ラドキースが初めてバレンの仕事を手伝った時、バレンは感心して言った。ラドキースはこの樵の夫婦に、自分は騎士であるなどとは一言も言っていないのだが、彼等はラドキースの腰の長剣を見て勝手にそう思い込んでいるらしかった。
「わしにゃ息子が二人いたんだがなぁ、一人はガキの頃に死んじまったし、もう一人も嫁さん貰う前にやっぱり死んじまった。娘は二人いるんだが、よその町に嫁いじまってな、もう何年も会ってねえや。女は嫁に行くと自由が無くなるからなあ。しょうがねえなぁ......」
森の中で弁当を使いながら、バレンが少し淋し気に語った。
「あの家で子が生まれたのは、一番下の娘が生まれて以来だ。カカアのあの嬉しそうな顔ったら無かったなぁ」
そう言って笑うバレンの隣で、ラドキースも自然と口元に笑みを浮かべる。
「お前さん、親兄弟は?」
「両親は死んだ。兄も私が生まれる前に死んだ。腹違いの弟達がいたが、それらも皆死んだ。腹違いの妹が二人いるが、あまり顔を合わせた事の無い縁の薄い妹達であったから、今頃はどうしているのか.....」
「そうだったのか....、気の毒になあ......」
思えば本当に縁の薄い弟妹達であった。ラドキースは思い起こす。実の父でさえ縁が濃かったとは言い難い。父子らしい事をした記憶も無ければ、父子らしい会話を交わした記憶も無い。実の母は、ほんの子供の頃に暗殺されたし、自分に一番近しい者といったら乳兄弟のファランギス以外にはいない。ファランギスの両親には随分と可愛がられたが、父親は対ハーグシュの五年戦争で戦死を遂げ、乳母も病でとうに身罷っていた。ファランギスは無事であろうか.....。ラドキースにとっての兄弟は、やはりあの飄々として自分に言いたい事を言いたい放題言い放つファランギス以外にありえない。