第二章 幸福の灯〜トラジェクにて〜(2)
断末魔かと思い紛う程の苦し気に尾を引く叫びが、もうどれ程の間ひっきりなしに続いていた事であろうか....。
セレーディラのあまりの苦しみ様に、ラドキースは気が気では無かった。
「彼女は誠に大事無いのか? こんなに苦しんでいるというのに」
セレーディラの手を握り締めるラドキース手の甲には、彼女の爪が食い込み血が滲んでいる。
「女はね、男より強いんだよ。男共に耐えられない痛みも、女には耐えられるんだ。何せ子を産む様に出来てるからね」
ナスカは、ラドキースを安心させる様に笑顔を見せた。
「ほら、もう頭が見えてるよ、セリー! もう一息だよっ!」
セレーディラの肌着の中を覗き込み、ナスカが励ましの声を上げる。
汗と涙に塗れたセレーディラの苦悶の表情に、ラドキースは唯、励ましの声をかけ続ける事しか出来ず、それが如何ともし難い程に腹立たしく且つ情け無く思えた。これ程の遣る瀬ない思いは初めての事であった。セレーディラの苦しむ姿を見るくらいなら、己の胸を抉られた方がまだましであろうにとラドキースは思う。
「せめてその痛み、私が代わってやれたなら...セリー...」
ラドキースは思わず呻いていた。
バレンはというと、隣室から聞こえて来る苦し気な叫び声にいたたまれず、そわそわ、うろうろと歩き回っていた。時折、思い出した様にテーブルの上の錫の杯を掴んで酒を煽る。もうどれ程の間、そうして広くも無い部屋の中をうろうろと歩き回っていた事か....。窓の外に目を馳せてみれば、とっぷりと暗い闇が辺りを包んでいる。季節は初夏。一年で一番、太陽の神が長らく輝く時期であった為に日没も遅い。その日没からどれ程の刻が過ぎたのか......。森の木々も重た気に葉を茂らせている為、月の娘の麗しい姿も拝めはしない。しかし優に夜半は過ぎていただろう。いつものバレンならば、とっくに夢の中の住人になっている頃合いであったが、昂奮の為に目は冴えに冴えてしまっていた。
「まだか〜? 何だか、かかあの初産よりも時間がかかっとらんかぁ〜?」
バレンは、いらいらと落ち着き無く歩き回り続ける。
「う〜っ、まだか〜??」
バレンが痺れを切らしたその時、寝間から元気な赤子の泣き声が聞こえて来た。
「やったかぁーっ!!」
バレンが大声で叫べば、打てば響く様に 「やったよーっ!!」 というナスカの声が返って来た。
「どっちだっ!?」
バレンは扉にへばりついて尋ねる。
「器量良しの女の子だよ!」
ナスカは、セレーディラの後産の世話をしてやりながら夫に大声で答えてやった。バレンは大声で笑い出した。
ラドキースはナスカに命じられて、生まれ落ちたばかりの我が子に恐々と湯を使わせていた。壊れ物でも扱うかのような手付きで綺麗に洗ってやると、ナスカに指示された通りに清潔な布に包んでそっと抱き上げ、ぐったりと半ば意識の無いかの様な体のセレーディラの傍らにそっと寝かせた。
赤子の泣き声に、セレーディラは薄らと目を開いて微笑んだ。ラドキースはその髪を優しく撫で、口付けを落とした。
「良く耐えてくれたな、セリー。元気な子だ」
嬉しそうに破顔するセレーディラの額に、ラドキースは再度口付けを落とした。
「ラディの言う通りだ。本当に良く頑張ったねぇ、セリー。偉いよ、一人前の女だよ、お前さんは」
ナスカも優しく声をかける。
「いい子じゃないか。この泣き方を見て御覧よ、元気一杯だ」
ラドキースの横からナスカも赤子の泣き顔を覗き込んだ。
「何やら、猿のようだな.....」
ラドキースの正直な感想に、ナスカが大笑いする。
「お前さんだって、生まれたての時はこんなだった筈さ。安心おし。こりゃぁ大層な器量良しだよ。このナスカが断言してやるとも!」
セレーディラは幸福そうな微笑みを受かべて、赤子をじっと見詰め、そっと頭を撫でたり、頬を撫でたりしている。子を産んだばかりの女は美しいと、そう耳にした事があったが、確かに美しいとラドキースは思う。あれ程に苦しんだ後だというのに....、何故それ程までに美しく見えるのか......。
「さてラディ、お前さんはちょっと外に出といで。内の人が痺れを切らしてるだろうから、ちょいと父親になった感想でも述べてやっとくれ。セリーは、ちょいと起き上がれるかい? この子に乳をやらないとね。それに着替えもしなきゃね。汗だくだろう?」
ナスカは辺りをてきぱきと片付けながら、ついでにラドキースを寝間から追い出した。
追い出されたラドキースを、今度はバレンの豪快な笑い声が迎えた。
「やったなあっ! やったなあっ!!」
上機嫌なバレンがラドキースの両腕を己が手でバンバンと叩くと、ラドキースは、彼にしては珍しくも照れた笑みを見せた。
「ほれっ」
いきなり突き出された錫製の質素な杯をラドキースが受け取ると、バレンは上機嫌で酒を注いだ。
「祝杯だ」
言うやバレンは、ラドキースの杯に己の杯を勢い良くぶつけて煽る。ラドキースも笑いながらそれに倣った。
「誠、忝い。誠に助かった。最悪、私が子を取り上げる覚悟だったが、子の取り上げ方など知らなかったし....」
「わっはっはっはっ! そりゃ、そうだろ。良かったなあ、無事に生まれて。本当に良かったなあ。時間がかかるからやきもきしたが、元気な泣き声じゃないか。あんたのかみさん、細っこいから時間かかっちまったんだな、きっと。かみさんに感謝しろよ。大変な思いして産んでくれたんだからなあ。女っちゅうんは、本当にすごいよ。男にゃ、逆立ちしても出来ん事をしてくれるんだ」
「誠だ....」
ラドキースはしみじみと頷いた。
「はははっ。良く飲んでるねぇ」
「はい....。何だか不思議な気分です。」
「そうかい?」
「心がとても安らぐ様な...、何だか上手く言えませんが...」
セレーディラは、ナスカの指示を受けながら、赤子に初めての乳を与えていた。一所懸命に乳に吸い付く赤子が、言葉に出来ない程に愛しく思えた。
「これで.....、大切なものが二つになりました」
「一つはこの子で、一つは、あの男前の旦那さんかい?」
セレーディラは少し頬を染めて頷いた。
「お前さん、良い顔してるよ、セリー。幸せそうだ」
ナスカは目を細めて言った。