第二章 幸福の灯〜トラジェクにて〜(1)
* 神の娘エルディアラは、人間の青年に恋をして、父を裏切り総てを捨てた。
北方神話「神の娘」より
季節は夏の始め、森の木々はどれも葉を重たそうに繁らせている。陽は既に翳っている。夕暮れ時の事であった。
腕に女を横抱きに抱えた男が森の中を急いでいた。その後ろからは、一頭の馬が従順に付いて来る。女は身重であり、吐く息が荒い。どうやらこの森の中で産気づいてしまったのであろう。
「地面に轍の跡がある。民家があるやもしれぬ。いざとなれば私が赤子を取り上げてやる故、しっかりしろセレーディラ」
黒髪の青年ーーーラドキースは、産気づき苦し気なセレーディラを励ましながら足早に進んでいた。
つい十日程前まで、二人は大陸中原のウォーデン王国のルト州の州都であるルトの町に暮らしていた。一年半前にユトレアから脱出してより二人は各地を転々とし、ひょんな事からルトの領主に拾われ、ラドキースは領主ルモンド・フェビアンに使える事となったのであった。
ルモンド卿はラドキースの才智と剣の腕を甚く気に入り、ルトの騎士団に雇い入れ、随分と彼を重用した。それ故小さなルトの町中に二人は居を構え、領主の加護の許、ひっそりとささやかな生活を送る事が出来たのだ。
ルトに落ち着いた当初のセレーディラは随分と苦労をしたものであった。何せそれまで、食事を作った事はおろか、洗濯も掃除も市場で買い物をした事すらも無かったわけである。食事の仕度にしても、初めは竈にどうやって火を起こして良いかも分からず、刃物を持てば野菜の代わりに己の指を切ってはラドキースをはらはらさせる始末であった。
その点、ラドキースの方は従軍経験があったせいか、一通りの事はこなせた。落ち込むセレーディラに、ラドキースは笑いながら言ったものであった。
「少しずつ学んで行けば良いではないか。共に学んで行こう」
そうしてラドキースは優しくセレーディラを抱き締めてやった。
やがてセレーディラは、ラドキースの手付きを見ながら刃物の使い方を覚え、火を起こす事を覚え、味は別としても食事らしい物を作れる様になった。どんなに酷い物でも、ラドキースはセレーディラの作った物を嬉しそうに食べた。
「全然美味しく無いのに.....、ラディったら.....」
セレーディラはちょくちょくラドキースに申し訳なく思いながら、少しずつ料理を覚えていった。洗濯などは、井戸端の女達の手付きをこっそり盗み見ながら覚えた。食事の仕度も洗濯も、何と大変な仕事だろうとセレーディラは思ったが、それがラドキースの為だと思うと楽しくなった。
又ある時、ラドキースはセレーディラの荒れた指先に気付き心を痛め、翌日手荒れに効くという軟膏を買い求めて帰って来た。セレーディラは無邪気に喜び、ラドキースを幸せな気分にさせたものであった。又ある日、ラドキースが刺繍の道具を買ってやると、セレーディラは大喜びで刺繍を刺した。出来上がった物を市場へ持って行ったら中々の額で売れたので、セレーディラもラドキースも目を見開いて驚いたものであった。
そして、そんなささやかな幸福の中、やがてセレーディラは身籠ったのであった。
ウォーデン王国のルトの領主ルモンド・フェビアン卿は、“ラディ”のその理知的な物言いと、ひょんな時に垣間見える教養、そして剣の腕とその身に纏う雰囲気から、この自分の息子程の歳の青年は、かつては一角の人物であったのではと考えた。
歳を尋ねれば、まだ随分と若い。それにも拘らず、物事に動じない老成した落ち着きを持っていた。又、そうした己の美点を鼻にかけないあたりは、何やら総てのものを超越している様にさえ見えた。ルモンド卿は、この青年を雇ってから程無くして騎士小隊を任せてみる様団長に口添えをした。
「あの青年は素人じゃありませんね、ルモンド卿」
騎士団の団長がルモンドに耳打ちした。成る程、命令しなれた様子に隊を扱い慣れた様子は確かに素人では無い。その後団長がルモンドに、ラディに大隊を任せたいと伺いを立てて来た。既にラディの実直さに信頼を置いていたルモンドは、それに異を唱えはしなかった。
そもそもの出会いは、ルモンドが公務で王都に出向いたその帰り道、盗賊に襲われた処を、このラディに助けられたのだ。
ルモンドはラディの剣さばきに目を見張った。しかも一瞬の内に倒された盗賊達は、足を斬り下げられたか、もしくは平打ちされて気を失ったかのどちらかで、驚く事に彼は一人として殺しはしなかったのである。これ程の腕を持つ者は王都にさえいないのでは無いかと、ルモンドは感心したものであった。
青年は美しい娘を伴っており、旅の途中らしく宿は定まっていないと言うので、ルモンドは二人をルトの領主館へと連れて来たのであった。青年はラディと名乗り、連れの娘はセリーと名乗った。身の上を語りたがらない様子であったが、ラディが短く語った処によれば、結婚を反対されたので故郷を出て来たのだと言う。要は駆け落ちか.......と、ルモンドは納得した。
青年が時折娘を気遣う様子が微笑ましかった。品の良さからして騎士階級では無く、貴族の子息と子女かもしれないとルモンドは考えた。そして親心を隠せずに、ルモンドはこのルトに留まる様二人に薦めたのであった。
そして二人は、このルトに居を構え、セリーには子も出来た。ルモンドは己の息子がとんだ放蕩者で家に殆ど寄り付かなかった事もあってか、出会ってから間も無くして既に、この二人に親心に近い感情を持つに至った。そして二人の子が生まれる日を、指折り数えて楽しみにしていたのである。
だが臨月に入った頃、突然西のハーグシュ王国からの使者だという者が訪れた。その使者の用向きに、ルモンドは内心衝撃を受けたが顔には出さず、にこやかにその使者の要請に頷いた。そして使者が去った後、領主館の敷地内にある練兵場にいたラディを呼び寄せた。
「お前は、西のユトレアの皇太子とハーグシュ王女が逃亡しているという話を知っておるか?」
「ちらと耳にした事はありますが....」
ラディは顔色も変えずに答えた。
「そうか...。いや何、先程、ハーグシュの捜索人がここを訪れたのでな.....。まあ、そんな事はどうでも良いのだが。お前に渡しておきたい物があるのだ、ラディ」
そう言って、ルモンドはラディが姿を見せる前に認めておいた書類を差し出した。
「これは?」
ラディは折り畳まれた二部の書類を受け取りながら尋ねた。
「ウォーデンと近隣諸国で通用する通行手形だ。お前の分とお前の妻の分と...。ひょっとしてあると便利かもしれないと思ってな。必要無いかも知れないが、まあ、持っておいても損はせんだろう」
ラディは手形を開いて目を通すと、ルモンドへ目を向けた。
「忝く、頂戴致します、ルモンド卿」
ルモンドは頷いた。
「セリーによしなにな。臨月であろう? 体を労る様、伝えてくれ」
そしてそれがルモンドの、ラディの姿を見た最後となった。
「成る程、あれが.....、名高きユトレアの黒将軍であったか.....」
ラディとセリーが人知れずルトを去った後、ルモンドは独りごちた。死なせるには、あまりにも惜しい。無事に逃げおおせれば良いが.....。ルモンドは人知れず、そう願ったのである。
「セリー、民家だ」
ラドキースの心做しか弾んだ声に、その腕の中で苦し気な息をしていたセレーディラは、顔を上げ前方に一軒の田舎家を認めると、ほっとした様に微かに微笑んだ。
家の前まで来ると、ラドキースは横抱きに抱えていたセレーディラを下ろして扉を叩いた。ほどなくして扉が開き、髪に随分と白い物の混じった、老年に差し掛かろうかというがたいの良い男が顔を出した。そしてラドキースが物を言うより先に、膨らんだ腹部を押さえて苦し気に喘いでいるセレーディラの姿を見るや、家の奥へ向かって吠える様に叫んだ。
「ナスカっ! おいっ! ナスカっ!!」
「何ですよっ! 怒鳴らなくったって聞こえるよっ」
威勢良く言い返しながら、妻らしき女が戸口から顔を覗かせると、これ又叫んだ。
「何だいっ!? 産気づいてるのかいっ!? 早くお入りっ!!」
ナスカと呼ばれた初老の女は、セレーディラの細腕を取って支えながら中へと入れた。
「お前さん、湯を沸かしな! 沢山だよっ!」
「うおっ!」っと叫んで、男は湯を沸かしに走った。
「忝い」
ラドキースが礼を言いながらセレーディラを抱え上げようとすると、ナスカがそれを止めた。
「いいんだよ。少し歩かせた方が、いいんだ。この森ん中で産気づいちまったのかい? 心細い思いをしただろうさね。もう大丈夫だよ。あたしが立派に子を取り上げてやるからね。気をしっかりお持ちよ」
ナスカはセレーディラに優しい言葉をかけながら、その身を支え寝台のある奥の部屋まで連れて行った。
「お前さんは、この娘の旦那だろう?」
「ああ」
「服を脱がしておやり。下着だけにしてやんな」
ナスカはラドキースにそんな言いつけをしつつ、戸棚から敷布を引っ張り出して、てきぱきと寝台の上に重ねて敷き始めた。面食らったのはラドキースである。
「ちょっと! なぁ〜に恥ずかしがってんだい? いい若いもんが。生まれて来る子は待っちゃくれないんだよ! 早く脱がしてやんなっ!」
ナスカの容赦無い叱咤に内心戸惑いながらもラドキースは、セレーディラが衣服を脱ぐのを手伝ってやる。
「ちょっとバレンっ! 洗濯桶を煮え湯で洗って持って来とくれ! あと清潔な布だよ! 何でもいいから持って来なっ!!」
ナスカは腕まくりしながら怒鳴る。
「ほれっ、布だ!」
男が部屋に入って来ると、ナスカが叱り飛ばした。
「お前さんは入っちゃ駄目だろうが! 何考えてんだい!」
ナスカは布を引ったくると、夫を追い出し戸を勢い良く閉めた。そして白の木綿の下着姿になったセレーディラに手を貸して寝台に座らせた。
「ほら、あんたもさっさとマントを脱いで。あんたも手伝うんだよ、この娘の旦那ならね」
「私もか...?」
「当たり前だろう。あたし一人じゃ無理だよ」
「それもそうだな」
男子が産屋に入り、子の出産に立ち会う事などありえない事であったが、ラドキースは即座に腹を決めマントを脱ぎ捨てた。そもそも一度は己が子を取り出そうと腹を括ったくらいである。産屋が一般的に男子禁制であろうと、そんな事にかまってはいられなかった。
「名前は何てんだい?」
ナスカが丸っこい身体を屈めて、物入れをがちゃがちゃとかき回しながら唐突に尋ねた。
「彼女はセリー、私はラディだ」
ラドキースは息の荒いセレーディラの肩を抱き抱えながら答えた。
「そうかい。あたしはナスカだ。亭主はバレンていうんだ。ああ、あった、あった!」
ナスカは大振りの鋏を手にしていた。
「ありゃりゃ、駄目だこりゃ。見事に錆びてるよ。あんた、ラディ、切れる短剣か何か持ってるかい?」
「ああ」
ラドキースは腰から短剣を鞘ごと抜いてナスカに差し出した。
「こりゃいいや。借りるよ」
「おーい! 桶と湯だぞぅ!」
バレンが戸の向こう側で叫ぶと、ナスカは戸口へ駆け寄り、湯を沸かし続ける様に夫に言いつけながら、たくましい腕でそれらを受け取り床に置いた。そして両手を打ち鳴らすとセレーディラに向き直った。
「さあ、セリー。準備はいいよ。いつでも産んでいいからね!」
荒い息を吐きながら、セレーディラは頷いた。
「私は、何をすれば良いのだ?」
馬の出産ならまだしも女の出産の事など、いかなラドキースといえど知る筈も無い。
「セリーの背を支えて、手を握って、汗を拭いて、励ましてやりゃあいいんだよ」
ナスカは豪快に笑いながら、ラドキースにそう教えた。