ケダモノ
だいぶ長いこと集中していたので、首の周りが凝り固まってしまった。
僕は残り十分程となった授業風景を一瞥してから、視線をある一点に移した。
前方、椅子に座ってノートをとる少女がいる。
疲労した脳みそをそのままに、僕はぼんやりと彼女の後ろ姿を見ていた。
短く切り揃えられた髪、首から背中にかけて映るのはしなやかなシャツ。
授業が終わるまで、僕はその姿をじっと見つめていた。
起立、という日直の声に一拍遅れて立ち上がる。
すっかり見とれてしまっていた。
すうっと、立ち上がった彼女も周りに合わせてお辞儀を一つ。
瞬間、見れた横顔は可憐としか言いようがない。
整った鼻筋と線の細い眉尻、淵の紅いメガネと、その周辺に点々とあるそばかすは野暮ったいと認識されがちだが。却って僕には彼女の愛くるしさと純朴さを強調する一つの要因にしか見えない。授業が終わって一段楽というこの時まで口元が引き締まって見えるのは隠しきれない彼女が放つ知性のせいだろう。
彼女の名前は逢沢茜と言う。綺麗ですらりと背筋の伸びたその立ち姿にもよく似合った名前だと思う。
彼女が学食へ行こうとするのを、さながら鳥が飛びたつような俊敏さで後を追う。
誰にも言ったことが無い事実だが、僕は彼女に対して恋心を抱いていた。
中学時代から高校二年のこの時まで、足掛け五年の間。ずっと胸に秘めた思いだ。
「しかし、忘れてはなりませんよ」
僕の耳元で、神様がそっと呟いた。分かっていますと、心の中で応える。
物心ついた頃には、神様が僕の傍にいた。神様は他の人には見えない。声も聞こえない。だけど僕にだけはその姿が見えるし、声も聞こえる。
「人間には分相応ってものがあるのですからね」
神様がアドバイスをしてくれるお蔭で、いつだって僕は理性的に行動し、周りからはよく人間が出来ている。などといった賞賛を貰った。本当は神様の言うことを聞いていただけなのだけど。
彼女に思い人がいるようだという噂を聞いたのはいつのことだろうか。
意外にもその噂を耳にした時、自分の心が揺るがなかったことに驚きつつ、さもありなん、とも考えていた。
告白もせず、何年も燻ってるくらいだものな。と、心の中で自嘲する。
もっと取り乱すなり、悲観にくれるなりしてくれよとは思ったが、本当にあっさりと理性的に受け止められたのは、現実に目を向けていたからであろうか。
「嫉妬は見苦しいですからね。あなたのそんな賢明な部分、私は好きです」
いつものように神様から褒められた。
今日も学校には、無数の人間がいる。
個人の塊が集合なら、逆も然り。
無秩序に見えながらも日々のルーチンワークは狂うことなく続いている。
廊下を歩く者達の笑顔は機械のような白々しいものの中に子供特有の憂いを潜ませていた。
前方を行く彼女を追う理由は、僕自身が理解している。
しかし、相手に対し具体的な行動が伴わないのには僕なりの理由がある。
片思いの相手とは、絵画から登場人物が飛び出してきたようだと思う。
想像を刺激し、それでいて実体を持つ。しかし、僕が触るには高価過ぎる代物。だから僕は彼女と一線を引くのだ。
そんな理由をこじつけるくらいには、僕も人として成長してしまったというわけである。
無個性な生徒達の中に紛れようとする彼女を見失うまいと、反射的に僕はつま先立ちになった。
日直の仕事というのは本当に面倒なものである。朝早くから登校して、放課後には教室の施錠までもしなくてはならないのだから。
十分くらいで戻ると告げた女子生徒はまだ帰ってこない。
鍵だけ置いて先に帰ってしまおうかと、そんな思考が脳裏に過るが。ここまで待ってしまったものはしょうがない。むしろこの状態から帰宅するのも据わりの悪く、義理の欠けた話ではないか。
「帰っても、あなたは暇ですしね」
神様の言葉ももっともだが、一切の部活動をしてこなかった僕にとっては、夕暮れの教室に一人ぽつねんと取り残されるのも悪くない気分である。
僕は一度、窓から下界を見下ろし、校庭で練習に励む野球部員たちを見た。
きらきらとまばゆい光は西日が生んだものだろう。校庭をゆっくりと包み込むように影が色を濃くする中、青少年たちの声が飛ぶ。
謎の疎外感にかられて窓から頭を引っ込める。ああいうものになれはしないと気が付いたのはいつの頃だっただろうか。
運動は嫌いだ。勉学も得意ではない。
汚れた部分が目に入り、退屈しのぎに黒板消しを手にして反対側の廊下へ出た。
中庭を見下ろせる窓から身を乗り出すと、植樹された木々と校舎の影の影響でそこは校庭よりも夜に近づいていた。
一度、挙動不審にあたりを見渡してから、僕は再び身を乗り出し、黒板消しを二度三度打つ。
粉っぽさに顔をしかめていると、不意にあるものが視界に映った。
用がない限り誰も近づかない場所である中庭に、男女一対の人影が見えたのだ。
あまりにもいきなりだったので、野生動物さながら僕に見つからぬように、息を潜めていたのかと思ったが。どうやら違うらしいことが見守っている内に理解できた。
不動の様子を見せていた男が、握りこんだ拳を振り上げ、一拍の後に女の顔面に打ちつけた。
鼻っ柱を抑えた女が顔を隠すように下を向こうとするが、男がそれを許せまいと髪をひっつかみ強引に正面を向かせると、今度は頬を打つ。
男の影に隠れていた女が倒れることで、やっとその顔を拝めた。
知っている顔であることは一瞬の判断で知れた。次に来るのは何故、このような理不尽にどうして耐えられるのかというものだ。
トレードマークの眼鏡が吹き飛んでしまった。逢沢茜が、眼鏡を拾うのを男が止める。
不明瞭な男の面相は、覚えがない。上級生だろうと、見下ろしながら思う。
野球部の声が聞こえる。奇妙なことに中庭の男女は先ほどから一言も声を発していない。
暗い中庭に目を凝らし、彼女の顔と鼻に流血を認める。
彼女は先ほどからずっと、虫のように地面を転がりながら男から浴びせられる暴力を受け入れていた。
思わず生唾を飲み込んだ時、ちょうど彼女と目があった気がした。
「──」
相手に聞こえるはずもないのに、僕は何か言い訳めいたことを口にするつもりだったのだろう。
だが、背後から自分の名を呼ぶ声と共に衝撃が走る。
振り向くと、そこにはさっきから消えていた女子生徒の姿があった。
もう用が済んだらしい。
僕は黙って床に落ちた鍵を拾う。
施錠を済まし、再び中庭を見たときにはもう。そこには誰も居なかった。
完全に日の落ちた中庭に、あの場面の残滓が残っているようで、僕は一つため息を吐いてから階段を下りた。
その夜、僕は先ほど見た光景にどんな理由があったのだろうかと想像してみた。しかし、どれも根拠として弱く。何より、憶測よりも厳然たる事実が僕の心を強く束縛していたのだ。
あの光景を思い出すと、現実よりも鮮明に映し出される。聞こえなかったはずの肉を打つ音、彼女が散らす鼻血、苦悶の声。
僕だけが見ていた彼女の姿。
あれは良くないものであった。本当だったら、すぐにも職員室にでも飛び込むなりすべきだった。
なのに、それなのに。あの光景を何度も吟味し、解釈を付け加えようとしている自分の存在に驚かされた。
暗鬱な気持ち、夜の闇が末端から心臓を蝕む。
いつの間にか布団を強く握っていたことに気が付き、手を離す。
心が乱れてる。さっきからずっと。
神様の声が、こんな時に限って聞こえない。どこへ行ってしまったのだろう。
怒り? 嫉妬? これは何だ?
僕の握った拳が彼女の鼻っ柱に炸裂する。
生きている実感を得ると同時に、僕の抱いた感情を知る。
恍惚と、喜びだ。
夕方、覆いかぶさるような闇の中。倒れた彼女は美しかった。
抵抗する素振りすら見せぬ、我を完全に抑えこんだその姿は。
誰よりも気高く高潔であった。
酸素を吸うのを忘れていた僕は慌てて大口を開ける。いても立ってもいられなくなって、机に置いたあるものを取り出す。あの後、中庭で回収したものだ。
月の光に照らされて鈍く光るメガネ、あの美しい少女が置いていったもの。
どうしようもない気分の僕は、ただそれをかざして見ることで夜の暗闇を凌ぐことにした。
しかし、僕はついに夜明けを見ることが出来なかった。
翌日、朝を迎えた僕は一握りの勇気と正義感を盾に彼女に声をかけた。
緊張で吃りながらも用があるからと放課後の屋上へ呼び出すことに成功し、早速昨日の出来事について問い詰めた。
首を傾げた彼女の顔には大きなガーゼ。眼鏡も昨日と違う黒縁のものだ。
しらを切るつもりなのだろうか。
どうしてあんなことをされても黙ってるんだと、もっと直接的に詰問すると、ふっと、彼女は弛緩したように頬を緩める。
僕は慄いた。
「だって、色んな人がいる中、本当に私を見てくれているのはあの人だけだもの」
独白のようなものだった。視線も合わせてくれない。
彼女はどこか知らない楽園を見ているようであった。
中庭でのことを思い出しているのだろうか、少なくとも僕はそうであった。
しばらくの間、僕らはうっとりとその楽園に目を向けていた。
先に我に返ったのは彼女の方であった。痛々しい傷を残す彼女は無邪気な顔でにっこり笑い。階段を下りていく。
とっさに手を伸ばしたが、届かない。
後に残ったのは行き場のない感情だけだ。
また苦い。
心に陰りを感じた。嫉妬だ。
あの男だけが持っている。あの男だけが彼女に触れられる、彼女の心に住める。いくら蹂躙しようとも、彼女はあいつから離れることはないだろう。
神様は、居ない。いつから居なかったのだろう。
いつから僕は、神様なんてものと一緒に居たのだろう。
「ぐ」
うぅぅううううぅぅぅう……。
思わず声が出るが意味を持った言葉にならない。
ふらふらとした足取りで彼女の後を追うが、足が思うように動かない。
階段を下る。
もはや周りの景色など視界に入らない。名も知らぬ生徒たちは雑踏に意味を転じた。
どうにかしてあの男に罰を与えたくなった。写真を残してやれば良いのか。それとも理性的に彼女を説き伏せるべきか。
中庭に出る。体に衝撃が走る。
「痛えな、どこ見てんだ」
「あ」
僕が見上げると、そこには逢沢茜の彼氏。
すみません、と謝る。その場を去ろうとするも今度はユニフォームを着た野球部員。
避ける。相手がこちらを見下す視線を向けてくる。
「うう……」
悔しい。
否。
羨ましい。
僕も彼女に触れたい。何よりも、心に。マイナスな思考が生まれていく。僕は自分の感情の最奥を覗いた。
闇の中にあったものは、一人孤独に恋い焦がれる僕の姿だ。
上履きのままで走り出す。中庭を出て、校舎を抜けて正門前まで。
走る。本気で走ったのは、どれくらいぶりだろうか。
「──あぁ! そうだ!」
僕が声を発したのは、どれくらいぶりだろうか。
愛していたのだ。何年も前からずっと! 知っていたのに! どうして僕はここにいる? どうして彼女を殴っていない? 抱きしめていない?
理由が必要だったんだ。きっかけが、ありとあらゆる偶然や必然が僕を導いてくれると盲目的に信じていたのだ。
だけど、今更だ。僕に出来ることはない。彼女を心変わりさせることなど。他人から彼女を奪うことなど。
あの男の暴力には相手の同意があり。それはつまり、その他大勢の黙認となる。
きっと何か奇跡が起こり、彼女を奪還せしめたとしても、その後の人生に深い影を落とすことになることは確実だ。
罪悪感を持って生きることになるだろう。もう何も見えない。うずくまって、目を閉じた。もう駄目だ。
このまま黙って……死ぬのか? 死ぬのだろうか、僕は。
一生、逢沢茜のことを諦め続ける? 死ぬまで?
嫌だ。
「大丈夫ですよ」
神様。
いや違う。
「自分が良くなろうと思う心に失敗はあっても、間違いはありませんから」
自分の気持ちに、やっと出会えた今なら分かる。
我慢だとか、そんなことする必要がないのだ。今からでも彼女に触れられるはずだ。相手の合意など必要ない。僕が彼女を愛すことは自由だ。
彼女が僕のことをどう思っているかなど、関係ないのだ。
振られた後、僕の社会的な地位の低下に怯える心配もないのだ。噂話にあがることを怯える必要もないのだ。
本来ならばそうだ。だけど僕はそういうのを恐れる臆病な人間だから。
頭を真っ白にする。僕の心の中には彼女がいる。
そのことを脳みそより早く理解する。後先のことを考えない。
簡単だったんだ。理屈をつけて彼女に告白するのを避けていたから、この現状なのだ。
僕は彼女を愛したい。彼女は僕のことを愛していない。
だからどうした。僕は僕の感情に従う。
動物のように愚直であれ。
そうすることでやっと、僕は素直になれる。
僕は今日、ケダモノになる。理性的な人間から、気の迷いで。
キチガイになってしまったのかも。
だって、昨日までとはまるで違うほど。狂おしいほどに君を愛しているのだから。
「僕は君を……」
やめた。
きれいな言葉で取り繕うのはもう、やめにしよう。
「僕を、愛してくれ」
やっと言えたよ。ケダモノになってようやく。どこまでも自己中心的だが、過不足なく、完璧に。
ケダモノらしく二足歩行で歩く。獲物はもう決まっている。
最初はまず、簡単なことから始めよう。とりあえずは彼女の名前を呼ぶところから。
ただ一言尊敬する君に、ケダモノと言って欲しくて。
そのとき初めて君と会う僕が全きものでありますように。
了