Scene2 家路
耳障りだった姉の声が途切れ、穏やかなクラシックの旋律が流れ出す。
逃げるように顔を埋めていた本から身を起こすと、窓からは赤々とした夕日が射し込んでいた。
血のような赤に染まる窓の外の風景に目が眩む。
すっかり見慣れた、いや、見飽きた光景と言うべきか。
閉館時間になったことを知らせるその演出に、忌々しげに眉をゆがめながらのろのろと受付へ向かう。
読みかけの本はソファの上に開きっぱなしで置いてきた。
明日もそこへ戻って読み直そうというわけじゃない。
とりあえず没頭できれば良かった程度の本に、思い入れなんて微塵もないし。
どうせ、閉館時の清掃作業で司書アンドロイドが棚へと戻してしまうだろう。
「……ご利用、ありがとうございました」
無言で差し出した利用者証を読み取った司書アンドロイドが、気味が悪いほど流暢な発音とともに通学鞄を差し出す。
思わずたじろいでしまったのをごまかすように乱暴なしぐさでその鞄を受け取り、足早に館外へと歩を進める。
ホールから外へ出ると、そこは館内を赤々と照らしていた夕焼けの名残すら見えない灰色の町。
窓外に見えていたはずの木々は姿かたちもなく、どれも変わり映えしないコンクリの建物が、愛想のない顔をして立ち並ぶ。
視界は建物の向うにそびえる灰色の壁に遮られ、見上げた先にはやはり同じ、すすけた灰色の天井が空を隠している。
これが、智子の暮らす「町」の本当の姿。
「空」も「木」も、智子は実物を見たことがない。
図書館の「窓」は、それが移築される前に移していた風景を機械的に繰り返すだけの、映像パネルだ。
今となってはホールに飾られた数葉の写真だけが、その名残を収める遠い過去の幻影。
襟元に口を隠すようにして小さくため息をつくと、錆とカビのにおいのこもる独特の湿気た空気が喉を突く。
「やあ、智子ちゃん、今帰りかい?」
数メートル先の都市照明から、ため息の元が気さくに手を上げながら近寄ってくる。
年のころは二十を過ぎたあたりだろうか、取り立てて目立つところのない顔立ちで、地味な服装に身を包んでいる。
人通りの多いところ――そもそもそんな場所がほとんどないのだが――にでもまぎれれば、すぐにも見失ってしまいそうな、特徴のない男。
だが、智子には今やうんざりするほど見飽きた顔だった。
「……ワタナベさん」
精一杯うんざりした口調で名を呼んでやったが、男――ワタナベにひるんだ様子はない。
「いい加減僕のことも『お兄さん』って呼んでほしいなあ。これでも君のお姉さんの元婚約者なんだからさ」
照れたように頭をかく彼の様子には屈託がなく、だからこそ余計に嫌味で腹立たしい。
「すぐに婚約解消なさったでしょ……新しい婚約者さんはお元気ですか?」
「元気なんじゃないかな。まだ保育器の中だけど」
義兄の逃亡で適合率の優先順位が上がって姉の婚約者になり、そして姉よりも適合率の高い相手が生まれたらあっさり婚約解消した男。
生まれた間際の「婚約者」はまだ保育器からも出られない赤ん坊だ。
「知ってますか、そういうの、『ロリコン』って言ったらしいですよ?」
「また本の話かい?智子ちゃんは読書家だね」
嫌がらせのつもりの言葉もさらりと流される。
智子の眉間に深いしわが刻まれる。
「……今日はどんな本を読んだのかな?」
さすがに険悪な空気を感じたらしいワタナベが話の接ぎ穂を探すが、智子の不機嫌は治らない。
「どうせもうご存じなんでしょ」
取り付く島もない冷たい視線に、軽く肩をすくめる。
「ま、我々優生保護局としては簡単に調べがつく案件だけど」
優生保護局――
より優れた子供を残すため、遺伝子適合情報に基づいた結婚・出産を推進するという目的で施行された優生保護法、その遵守を監視するために設立された機関。
都市の存続のために個人の生命を管理するという名目で強大な権力を与えられたその機関は、市民の正義の味方であるとともに、智子の姉のように保護法に従わない者には蛇蝎のごとく忌み嫌われ、恐れられていた。
「……私も思想犯として捕まえますか?」
保護局の権力をもってすれば彼女の閲覧履歴は容易に調べられる。そして、閲覧履歴の傾向は――それが半ばランダムな検索によるものであっても――対象となった個人の思想背景を丸裸にしてしまう。
智子自身、自分の思想が罪とされるほどの形を成しているかには確証がない。
だが、予備検束さえ黙認される保護局の力を使えば、人一人を「思想犯」にしてしまうことなど赤子の手をひねるよりたやすい。
まして、保護局の捜査官の一人であるワタナベに反抗的な態度をとる少女程度……
「安心したまえ、君たち姉妹の扱いには慎重を期すべしというのが上の指示だよ」
苦笑する男の冷たい眼光を見れば、その言葉に反して不安ばかりが募る。
「それは、私たちが『姉妹』だから?」
苦笑に困惑の色が混じる。それが何より雄弁な答え。
出生率が低下し、夫婦間の平均出産数が1を大きく割り込んでいる現状では、智子たちのように「姉妹」という存在は非常に珍しい。
人口減少の原因が今もって不明な中では、その「例外」は貴重なサンプルとなる。
姉が結婚を拒否しながらもいまだ罪に問われないのは、そのおかげだろうか。
裏を返せばそれは、彼女が「姉妹」でなければ婚約者ともどもどんな目に遭わされたかわかったものではないということ。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないか。強制執行権を使わなかっただけ感謝してほしいくらいなんだけど」
にこやかな発言にぞっと身を震わせる。
結婚を拒む相手に婚約者が強制執行で結婚・出産を迫る。法や社会によるレイプ。
姉がそんな目にあわされたらと思うと嫌悪感で吐き気がする。
ワタナベがそんな手段に出なかったのは確かにありがたいのだが。
「新しい婚約者は保護局の幹部の娘さんだそうですね」
「……利害の一致と言ってほしいなあ」
結局のところ、結婚を出世の足掛かりにしようという私欲に都合がよかった、それだけのこと。
そんな醜い事情すらあっけらかんと語るこの男が、智子には不気味で仕方ない。
「だいたい、君のお姉さんのわがままにつき合わされたおかげでこうしてペナルティも受けちゃってるわけだしさ。少しは同情してくれてもいいと思うんだけど」
「それがお仕事でしょう」
にべもない智子の態度に、ワタナベが困ったように顎をかく。
「そう思うなら協力してくれないかなあ。『彼』がどこにいるのか、お姉さんから何か聞いてないのかい?」
彼が受けたペナルティ――姉妹に張り付き、逃亡犯である「彼」の居場所を聞き出すこと。表向きは閑職に追いやってはいるものの、保護局の人間でありながら婚約者の抵抗に賛同した者として、降格もされないのは甘すぎる処置だろう。
「もう二年も保護局が行方を把握できてないのでしたら、もう死んだのでは?」
智子は彼の行方など知らない。毎日精神的に苦痛でしかない読み上げの仕事をこなしながら、それでも気丈な態度を崩さない姉は何かを察しているようだが、わざわざこの男のためだけに聞き出してやろうとも思わない。
「死んでれば、お姉さんがああしているはずがないとは思わない?」
何度も繰り返した問答とはいえ、この男の察しの良さには胃がむかつく。
そもそも一介の学生でしかない自分なんかよりも、絶大な権力と捜査能力を持つ保護局の局員の方が容易に真相にたどり着けるに違いない。
つまるところ、この男が「彼」の行方を姉妹に問うのは、およそ儀礼的な挨拶にすぎなかった。
「……ここまで見つからないとなると、後は『外』に行ったか、だけど」
「『外』ですか」
ワタナベの軽い口調とは裏腹に、智子の表情は暗く落ち込む。
町を覆う強化コンクリートと複合素材の殻の「外」。
「彼」にフィールドワークの手みやげとして見せられたその映像は、確かに今まで見たことのない「空」を彼女に見せてくれたけれど。
何もない岩だらけの荒野、「木」とは名ばかりのごつごつと節くれ立った奇怪な植物。
およそそこは人の住む世界には見えず、閉塞感の裏返しとして彼女が抱いていた「外」へのあこがれを無惨に打ち砕いてくれた。
「あんな学者崩れの『彼』が、『外』で二年も生きながらえているとは思えませんけど」
未知のウィルスや有害紫外線などを防ぐ防護服をがちがちに着込んでせいぜい三日、それが公式に知られる「外」での活動時間の限界。
反逆者として逃亡した男が防護服や補給の恩恵を受けられるはずもなく、そこに住む生命でさえ生きるのもやっとの過酷な環境で命をつなげたとは思いがたい。
「それが、どうも『外』の人間に頼ったみたいなんだよねえ」
「『外』の人間……ですか?」
背筋を冷たい汗が流れる。
遠い、歴史の彼方の過去で、彼女たちの先祖が「大災厄」と呼ばれる恐ろしい出来事を避けて町を殻で覆った後、「外」に取り残されてしまった人間達の子孫。
気味の悪い赤黒い肌をした彼らは、かつて見捨てられた恨みから、町の人間を見れば問答無用で殺そうとするという。
学校の「授業」でそうした資料をいくつも見せられた智子にしてみれば、そんな人喰いの化け物と協力どころかまともな会話すらできるとは思えなかった。
「それこそ、接触を試みた時点で殺されているでしょう」
奇怪な「外」の住民の原始的な武器でたたき殺される「彼」の姿が脳裏に浮かぶ。吐き気はそろそろ押さえきれないほどにこみあがってきている。
「とはいえほかに見当もつかなくてね。……どうだい、そう言われて何か心当たりは?」
彼女の否定もありありと浮かんだ嫌悪の表情も一切気にとめない無遠慮な男が、それまでと変わらぬ軽い調子で訊ねてくる。
「知りません。そもそも知っていて、教えたとして、あなたはそこまで探しに行くんですか?」
「ご冗談!僕みたいに神経の細い人間が『外』なんかに行ったら、それこそ二日と生きていけないよ」
芝居がかった仕草で自分のからだを抱きしめて身を震わせる男に、「外」へのおびえは感じられない。
この男の神経の図太さなら、二日と言わず二年でも容易に「外」で暮らせるのではないか、などと、口にすれば目の前の男がさらに必死で否定しそうなことを考える。
「行けばいいのに」
「僕に死ねって言うのかい?ひどいな、智子ちゃん」
微塵もひどいとは思っていない様子で肩をすくめる。
「じゃ、何かわかったらまた教えてよ」
「……できれば二度とお会いしたくないんですけど」
所詮は、そう、ただの儀礼的な挨拶。
男との会話に一方的に気分を害されたのは智子の方で、いかに拒否しようともずかずかと踏み込んでくる男は特に悪びれもせずに、背を向けて歩きだした智子にひらひらと手を振る。