004
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小さな打帆がおっかなびっくり、通路を歩いている。
抜き足差し足は全然様になっておらず、片っ端から枯れ枝を折り、落ち葉を蹴飛ばしている有様だった。
それでも森の道の曲がり角まで到達すると、そっと奥を覗いて、一瞬で首を引っ込める。
あとは一直線に、奏羽の元まで走ってくるだけだった。
身体全体から「誉めて誉めてオーラ」をあふれさせ、満面の笑みで抱きつき、身体をすり寄せ、背中に上って首根っこにぶら下がる。
奏羽が頭を撫でさえすれば静かになるが、その後上目遣いで見せる顔は照れで真っ赤になっていて、見ている方が恥ずかしくなる初々しさだった。
「無理ゲーだ。これだけでもうちには難易度高いのに、一体どうしろと……」
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〈喜びの園〉は、由緒の正しい〈迷宮〉であるらしい。
一辺が100メートルの正方形。外周は通路になっていて、そこから深い森越しに、内側の泉や館、庭園の類を覗くことが出来る。
祈りを捧げるために通る〈迷宮〉は、人を惑わせる〈迷路〉とは違って分岐のない一本道で、その目的からして迷うようには出来ていない。
だから安全かというと、かの有名なクレタの迷宮は化け物どころか毛糸がないと脱出できないとさえ言われているのだから、そこは推して知るべし、である。
ここ〈喜びの園〉は、外周を七周することで、出発地点に戻るという作りになっていた。正方形の四辺は、しかしどういう訳か別物としてカウントされているらしく、100メートル×6メートルという変則的なフィールドが曲がり角を介して、28個の数珠繋ぎに並んでいる。
小さな打帆がどうしても止めない偵察を先行させ、微妙に異なる構造物の配置を控え、一通りのマップを作ったところで、ようやく奏羽は勘違いを把握した。
「特殊な地形、奇襲に適した茂みはランダムなようで射線まで考慮されとる。構造物が目立つ上に少ないのも、敢えて勘違いを誘うため、それも情報操作が可能な辺りを考慮しとるんやろ。これ、完全にパーティ同士の戦闘が目的の施設や」
奏羽は当初、『そもそも戦闘行為の発生しないイベント』という認識だった。だが実際は、『戦闘行為が発生しても、対象となるプレイヤーが一人しか居なければ戦闘は発生しない』という発想を逆転させた采配だったのだろう。七つ滝城塞から戦力を割きたくなかったという、公然の理由とも符合する。
「戦闘狂が聞きつけたら、デスペナ上等でクエスト放り出してくるやろうしな。……ポータルまで目隠しされたのも護衛が付いたのも、同じ理由なんやろな」
〈PVP〉はパーティ単位が基本とはいえ、〈情報系隠密シナリオ〉はもちろん、他の〈大規模戦闘〉にも引けを取らないほど、難易度が高い。
〈喜びの園〉では正面から戦えるのは一パーティ限られるとしても、伏兵や奇襲、前後からの挟み撃ちなど戦術の幅は数限りない。
しかも相手は、定義されたシナリオではなく、キャラクターを通しただけの生身の人間が相手になる。
コンピュータには依然として真似できない行動を含め、その予測できない多数のプレイヤーの意思がぶつかり合い、予期せぬ流れを作り出し、錯綜の末に決着が付く。
まれにそれを最後まで制御してしまう変態がいることは否定出来ないが、そういう指揮の元に戦うことも、それはそれで得難く自慢できる経験なのは確かだった。
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「で。どうすればクリアかって、条件が全く分からんのが問題な訳ですが。……だってなぁ、『敵対勢力殲滅が条件』って言われても、そんなんおらんもん」
小さい打帆は、どうやらNPCという扱いで、精霊という属性がついているらしい。
確かに行動パターンは〈クリーピングコイン〉にそっくりで、その辺りは意外と説得力がある。なにせ悪魔系召喚の触媒以外に使い道がない癖に、健気で愛らしいと人気が高い。ただの金貨の分際でそれなのだから、言わずもがな、である。
「敵を作るって…… 精霊召喚してパーティから外すとか? 友好度下がるし、それに本当に行動パターンが一緒なら、小さいうっちゃん、突っ込んで自爆するやろしな」
外周一周を調べるのに、大体一~二時間。大半が打帆の偵察(?)とご機嫌取りなのだが、一応丁寧な地図作製も作っていた。
そろそろ丸一日は経とうとしていて、十分に休憩を挟んでいても、先が見えない状況というのは中々に堪える。
「やっぱり無理にでもヒヨリを巻き込んでた方が、って。そんな事しとったら、二人でガチ戦闘になってたやん? ……うん、まだ今の状況の方が救いがある」
あったかもしれない悲劇に身を震わせながらも、奏羽は辺りが静かなことに気付いた。小さな打帆も肩に乗ったままで、いつもなら目隠しをしたり耳を引っ張ったりと、ろくに考え事も出来ないのが普通だった。
「うっちゃん、どうした?」
上を向いた奏羽と、額に乗り出した小さな打帆の目が合った。
今までにないほど静かな笑みを浮かべ、唇が声を出さずに『ありがとう』と動いた。
最後に額に口付けし、そのまま前に飛び降りる。小さい打帆は奏羽の首に掛かっていた獣面に溶け込み、奏羽の顔ににゅるんと巻き付いた。
奏羽の視界が暗転し、直後に視界の中を盛大に火花が飛び散った。
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「で、気付いたら壁の隙間に居てて、出口も戻ってたから一本道帰ってきて、今に至るってとこやね」
「まあ額のたんこぶくらいなら、結果的に危険はなかったってことだな、うん」
「そうは言うけど、精神的には色々来る物があったんよ?」
総括にけちを付けながらも、奏羽は茶碗片手に鰺の開きをつつくのを止めない。
だがヒヨリの方も負けず劣らず、悪戯めいた笑顔を浮かべていた。
「なあ。それより教えろよ、結局誰に会ったんだ? どうせ報告書にして〈円卓会議〉にも提出するんだ、聞かせろよ」
「誰って、うっちゃんやったよ? こんくらいにちっこい、なんや無邪気っていうか、かわいかわいしたなるっていうか」
満更でもなさそうにその大きさ愛らしさを手で示す奏羽に対して、ヒヨリは明らかにがっかりと背もたれに寄りかかった。
「いやいやいや。あれはいつもの、うちに無関心なうっちゃんちゃうかったんよ。ヒヨリでもぐっと来たはずや」
「やっぱり詰まらん。知った顔しか出てこないって言っても、もっと他にいてもいいだろ。打帆が旅に出たのって、高々一ヶ月くらいの事だろ?」
「ちょ…… ヒヨリ、今なんて言った?」
満足そうに箸を置いて手を合わせた奏羽が、そこで動きを止めた。
「打帆が出て行ってから、一ヶ月しか経ってない」
「違う、その前! 今自分、『会ったことがある人』って言った?」
急須に茶葉を入れたヒヨリが、薬缶から湯を注ぎながら、何でもないことのように答えた。
「ああ、言ったとも。〈真夏の夢〉は姿を持たないって話だろ? だからその姿は〈夢にまで見る人〉を映すんだってさ。もっとこう、女子力の高い妄想を聞けると思って期待してたんだけどな?」
からからと笑うヒヨリが急須に手を伸ばす。
息も忘れて絶句する奏羽の口が、小さく動いた。
「……え、ならもしかして? あの方が、あのうっちゃんみたいに無邪気に戯れてくれたかもしれへんの?」
「何だ、今更後悔か?」
「チェンジでっ!!!」
奏羽はいい気味だと笑うヒヨリすら呆気に取られるほどの、大きいだけではない、必死の形相で絶叫すると。
テーブルを叩いた拍子に倒れた湯呑み、その舌が焼けるほど熱いほうじ茶を被ったことにも気づかず。
真っ青な顔をして、研究棟を飛び出した。