003
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色とりどりの赤で象眼された仮面が、紫紺の外套に一度だけ弾んだ。
その縁に結ばれた革紐は、空を仰ぐように晒された首筋に掛かっている。
奏羽は身じろぎも出来ず、ただ盛んに瞬きを繰り返す。
(「重たないし、別に痛ないけど! どうなってるん!?」)
小さな欠伸のような息を吹きかけられ、奏羽は背筋を震わせた。
唇の隙間を這って塞いだのは、白く小さな腕。
柔らかく穏やかに。
それは奏羽の顔に手を掛け、その首の関節を微妙な角度で極めていた。
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目隠しをされたまま、騎獣に乗って空を飛ぶこと三十分。
降りた先で引き渡され、そのまま森の中を歩くこと一時間。
何も不安を感じていないかのように、奏羽は黙って従っていた。
(「あの笑いは気になるけど、安心って言葉に嘘はないみたいやし。それに何より、安全にちょっと遠出が出来そうな手、逃すのはどうかと思うんよ」)
大規模戦闘をソロでクリアしようと言うのは、誰が言っても冗談にすらならない。そんな無茶は、明らかなネタでも噂に上るのは非常に稀なことだ。
それでも『直接身に危険の及ばない〈大規模戦闘〉』は確かに存在していた。
大業な分類に当てはめるなら、それは〈情報系隠密シナリオ〉の亜種だった。
例えば未開の山野や通い慣れた迷宮で行われる、体力知略の限界に挑んむ〈鬼ごっこ〉や〈かくれんぼ〉。
連携次第で状況の逆転が可能な〈缶蹴り〉や〈警泥〉。
少し特殊なところでは役割を演じ議論を戦わせる〈人狼〉。
最初に子供の遊びと侮ったプレイヤーほど、はまるというのが定説らしい。
その最たる理由は、練度と難易度。慣れ親しんでいたはずの遊びとは、姿勢も態度も、歴戦のゲーマーに掛かれば何もかもの質が違う。
ギルドの枠を越えた情報収集や分析は当たり前で、諜報合戦を繰り広げ、それが思わぬ方向に迷走する。
だがそれこそが醍醐味と、期間中はパソコンに張り付く熱心なプレイヤーも少なくない。
奏羽が知っていたのは、それくらいだった。
大規模戦闘と銘打っても正規のクエストではなく、賞賛こそあれ、有用なアイテムが手に入る訳ではない。
普通に狩りに出て上納するか、攻略組の物資調達に徹した方が貢献できる。
奏羽の周りは誰もがその結論に達していたし、それを覆すような問題は今まで起きていない。
「まあ、わざわざ〈円卓会議〉が持ち込んだ依頼を、断るわけにはいかないやん? それに〈園〉っていうくらいや、ハーブくらい期待しても罰はあたらんやろし」
思わずこぼれた独り言に、手を引く相手がわずかに反応した。
奏羽はそのまましばらく歩き続け、突然ぎこちなく体を強ばらせた。
(「さっきまでうち、前の人のローブ、握っとったよね? なんで逆に引かれとって、それも人差し指握られてるん? それに……」)
ぽたりと垂れた水滴が、そう高くも広くもない通路だと告げていた。
随分前から踏み固められた道を歩いていて、固く平らな敷石に代わり、奏羽の足音は若干籠もるように響いていた。
なのにいくら耳を澄ましても、それ以外の足音はおろか、衣擦れも息遣いも聞こえてこない。
奥から流れる風は冷たいまま、ただ頬を撫でて通り抜ける。
(「人じゃなかったらどないしよ、とか。……うん、ちょっと本気で怖なってきた」)
奏羽を引いていた手が唐突に止まった。
指を引かれ、向かい合う形で立ち止まった。
「目隠しを取って」
低く平坦で、甘くもなければ明るくもない。わずかに苦みさえ混じっていながら、それは少女の声だった。
奏羽が目隠しの結びを解くと、飾り気のない黒装束がじっと低い位置から奏羽を見上げていた。
「案内はここまで。ここから先は行きも帰りも一本道。私は入り口で待機してるから」
「……迷うような場所って、命の危険があるっていうんやないの? うち、やっぱり騙されとる?」
奏羽の呟きを、少女は全く気に留めなかった。何の感慨も見せず唐突に視線を切ると、襟元を引き上げ口元を覆い、そのまま闇に溶け始めた。
恐らく少女は、奏羽にもこの先の園にも興味がない。そんな相手が、いつまでも留まっている訳がなかった。
「いやいや、ちょお待って! 恩人に文句を言いたかった訳やないんよ、お礼くらいさせたって! えーと…… お姉さん!」
「……私は主君の命に従っただけだ。別に礼はいらない」
既に影は遠ざかり掛けていたが、何故か途中で足を止めて振り返った。
「じゃあ正直な感想をひとつ。さっきな? 実はお姉さんが〈夜の精霊〉やないかって疑ってしもたんよ。〈無音移動〉にも程がある、うちが知っとる〈隠行術〉と全然違うし…… あれ?」
奏羽が口籠もると、辺りも静寂に包まれる。
対する少女から返ってきたのは、硬いけれども何かがずれた、不機嫌を一周回ったように聞こえる声だった。
「あなたは主君の代わりを引き受けてくれた。そこは感謝する。……御武運を」
「お姉さんも、忙しいとこありがとさん」
かすかに、固い靴音が一つ鳴った。
奏羽はしばらく待ったが、影は訳も理由も残さず、今度こそ闇に溶けて込んでしまった。
「あれ。話は聞いてくれたし、激励もしてくれたと思ったんやけど。……何か気に障ること、言ってしもた?」
会ったらとにかく謝ろうと一人誓ったところで。
相手の名前すら聞けなかったことを思い出して、思わず壁に手を突きうなだれた。
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通路の行き止まりで待ちかまえていたのは、半円の泉だった。膝上ほどの高さに石が組まれていて、奥の壁には一人がどうにか潜れるほどの裂け目が口を開けている。
「一本道って。あれも道の内で、だから真っ直ぐ進め、ってことやろなぁ」
泉は縁まで水を湛えていて、その水は呆れるほどに澄んでいた。あまりに深くまで視線が通るので、逆にその深さが実感できない。
だが水面をつつくと、波紋が出来るが指は水に濡れも潜りもしなかった。
奏羽はおっかなびっくり水面を歩いて渡り、そのまま壁に出来た隙間に潜り込む。
その中には曇った夜空のような、暗闇が広がっていた。
星ほどの光も、草木を揺らす風もないが、しめやかな夜気に満ちている。
「これ、どこまで広いか全然分からへん。待っとったら出て来てくれるんやろか」
足下は固く平らだったが、左右も前後も天井すら、呟いた声が返ってくる気配がない。
だが不意に羽音のような、耳鳴りのような、軽く鈍く震える音が近付き、そして遠ざかった。
ふわりと滞空して動きを止めて、落ちる。あるかなきなの音を立てて床で宙へと反転する。音だけなのに、その動きはとても分かりやすい。
「『良く弾む風車』なんて、心当たりないんやけど……」
ついに視界の端を掠めたのは、鮮やかな赤や黄色の軌跡だった。
辺りをしばらく跳ね回り、だがあっさりと奏羽の目の前に留まるとその場で回り続け、そして時折ぴたりと止まる。
それは大きな宝石を組み上げたような、赤を基調とした獣の面だった。
円らな瞳は透ける鋼がはめられている。鼻面は短いが、かたかたと動く口には牙が生え揃っていた。
これで赤一色か、あるいは極彩色の化粧なら、アジア由来の神獣が由来ということで間違いない。
「話が通じんって、どんだけハードル上げれば気が済むのかと…… って、追加報酬の条件にそんなんあったような! うん、それならさっさと済ませて、お疲れ様会開かんとな!」
完全に迷いの吹っ切れた様子で、奏羽はくるくる回る仮面を手を掛けた。
足下から光があふれ、それは奏羽と獣面を包み込み、そしてあっさりと弾けて消えた。
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随分と深い森で、それにしては広い道が真っ直ぐに伸びていた。
所々に落ち葉がたまり、舗装や装飾は一切無いが、道は丁寧に均されている。
幅も高さもおよそ6メートル。三人の前衛が壁を作るに支障がない、否が応でもパーティ向けの遺跡を思い起こさせるサイズだった。
「あのまま暗闇で対面もぞっとするけど…… これもきっついわぁ」
口から魂を吐き出しそうな勢いで、深く沈んだ息をつきながらしゃがみ込んだ。
そこには、見知った顔の、あり得ない姿があった。
「あれ、うっちゃん? ……え、何でここにおるん?」
つり気味の目に、お団子に結い上げた長い黒髪。
真っ赤な旗袍は目にも鮮やかで、肩から掛けた薄手のショールも、鈴の付いた簡素な櫛も、天秤祭初日に勝ち取った一点物。
それは打帆と最後に会った時の格好、そのままだった。
けれども、まずその縮尺がおかしい。
打帆の方が10センチは背が低かったが、今は精々その1/3、50センチほどしかない。
無邪気な目つきも、いつもならもっと無関心で無造作に向けられていたはずで、一言も喋らないと言うのも、独特に間延びした毒舌と違って耳にも心に優しい。
「どう考えても偽物なんやけど…… ちょっと本気で癒されるかも。あれ、何で目に汗がたまるんや」
小さな打帆はきらきらと輝くような笑みを振りまきながら、奏羽の手を盛んに引っ張っていた。
目頭を押さえた奏羽がしゃがみ込むと、紐を通した獣面を奏羽の首に掛け、そのまま自身ものどを絞るかのような勢いで抱きついた。