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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『檻室の不協和音』 ~section3:模倣と、疑似の観察眼~

 コンクリートの冷気が、制服のズボン越しに僕の体温を容赦なく奪い続けている。

 高電圧のスタンガンによる背中の痛みと痺れは、時間が経つにつれて鋭い熱から鈍い鉛のような重さへと変わってきていた。口の中に残る鉄の味を、僕は一度だけ強く飲み込んだ。


 真っ暗な視界。外界から完全に遮断された、無機質な機械室。

 頼みの綱であったスマートフォンとタブレットは奪われ、僕に残されたのは、ひしゃげた『和盆堂』の菓子箱と、自分の着ている衣服だけだ。


『…………ピチョン……』


 部屋の奥の配管から落ちる、三秒に一滴の水音。

 その規則正しいリズムに呼吸を合わせることで、僕は先ほどまでの発狂しそうなパニック状態から、かろうじて理性の岸辺へと這い上がることができていた。

 パニックが収まると、次に押し寄せてきたのは、圧倒的な『静寂』と『孤独』だった。


 普通の高校生なら、ここで膝を抱えて泣き喚くか、鉄の扉を拳が血まみれになるまで叩いて助けを呼ぶだろう。それが当たり前の反応だ。

 少し前までの僕なら、間違いなくそうしていた。


 しかし、今の僕の脳裏には、ある一人の少女の姿が鮮明に焼き付いていた。


 漆黒の髪。アメジストの瞳。純白の手袋。

 如月瑠璃。

 この世のあらゆる事象を論理の刃で解体し、モノのルーツを底の底まで暴き出す、孤高の天才令嬢。


『思考を止めるな、サクタロウ。絶望などという非論理的な感情は、無能な人間の逃げ道に過ぎん』


 暗闇の中で、彼女のそんな冷徹な声が幻聴となって耳の奥に響いた気がした。

 そうだ。如月さんなら、こんな状況で決して泣き喚いたりしない。彼女はどんな理不尽な状況に置かれようとも、必ず自身の『物理的観察眼』を用いて周囲の環境を分析し、脱出のための、あるいは敵を論理で追い詰めるための情報をかき集めるはずだ。


「……僕にだって、できるはずだ」


 僕は乾燥した唇を舐め、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女が持つような、超人的な視覚や巨大な知識データベースはない。他者の感情を読み取る『情動の視座』の欠片すら、ただの凡人である僕には備わっていない。僕は、彼女の下僕として、彼女の圧倒的な推理を一番近くで見学させてもらってきただけの、ただのガジェットオタクだ。


 だが、彼女の『思考プロセス』の型だけは、嫌というほど僕の脳裏に刻み込まれている。

 『ただ見る』のではない。『観察』し、『分析』し、『論理的な推論』を構築するのだ。

 僕は、如月瑠璃の振る舞いを脳内で完全にトレースし始めた。


 僕はまず、部屋全体のマクロな環境分析から開始した。

 薄暗い月明かりと、目が暗闇に順応したことによって、部屋の輪郭は先ほどよりもはっきりと認識できるようになっている。


 視線を、自分の足元のコンクリート床へと落とす。

 床の表面には、まるで灰色の雪のように、分厚い埃の層が堆積していた。

 僕はしゃがみ込み、人差し指でその埃の層をそっとなぞってみた。指先に伝わる、サラサラとした乾燥した感触。床の地肌が見えるまで指を沈めると、その厚みは優に数ミリに達していた。


「……五ミリ、いや、それ以上か」


 密閉された屋内空間において、空気の流動がない状態で埃が堆積するスピードは、環境にもよるが一年間で一ミリにも満たないと言われている。ましてや、ここは人が生活して衣服の繊維を落とすような場所ではない。純粋な塵や土砂、建材の劣化による粉塵だけでこの厚みの層を形成するには、少なくとも十年、あるいは二十年近い歳月が必要なはずだ。


 僕は立ち上がり、床全体の埃の模様を俯瞰した。

 埃の層が乱れているのは、重厚な鉄扉から、僕が倒れていた部屋の中央までの『一直線の引きずり痕』と、僕がパニックになって這い回った跡だけだ。

 つまり、この部屋には長きにわたって誰も足を踏み入れておらず、犯人も僕を運び込んだ今日この日以外、ここを日常的に使用してはいなかったということになる。


 次に、僕は壁面へと近づいた。

 手のひらをコンクリートの壁に押し当てる。ひどく冷たく、そして微かに「湿って」いた。

 鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、酸化した機械油の臭いの奥に、カビと、そして「泥」のような匂いが混じっている。

 壁の一部には、白い粉を吹いたような染みが広がっていた。白華現象(エフロレッセンス)。コンクリート内部の石灰分が、浸透してきた水分とともに表面に染み出し、結晶化したものだ。


「これだけ白華が進んでるってことは、壁のすぐ向こう側は土壌で、しかも地下水位がかなり高い……」


 月見坂市の新市街は、徹底した区画整理とインフラ整備によって、地下の共同溝に至るまで完璧な防水と除湿管理がなされている。このような劣悪な地下環境が新市街の中心部に放置されているとは考えにくい。

 僕が襲われたのは、新市街の中にある『地下水脈を迂回するために残された迷路のような旧区画』だった。

 犯人は僕を気絶させた後、わざわざ監視カメラの網の目と人目を掻い潜って、月見坂市の外れにある遠方の廃墟まで僕を車で運んだのだろうか。


「いや、違う……」


 僕は首を振った。

 夕方という帰宅ラッシュの時間帯。いかに周到な犯人とはいえ、意識のない男子高校生(体重はそれなりにある)を抱えて長距離を移動するのはリスクが高すぎる。スマートシティの交通網には、車両のナンバーを自動で読み取るシステムや、AIによる不審車両の検知アルゴリズムが網の目のように張り巡らされているのだ。

 犯人が最も安全に僕を隠す方法は、『拉致した場所のすぐ近くにある、システムの死角』に運び込むことだ。


 あの迷路のような路地裏。地下水脈。

 そして、この湿度が高く、何十年も放置された地下の機械室。

 点と点が、僕の凡庸な頭脳の中で少しずつ繋がり始めていた。


 僕は部屋の片隅に鎮座している、赤茶けた錆に覆われた巨大な機械へと歩み寄った。

 大人が三人手を繋いでも抱えきれないほどの巨大な円筒形のタンクと、そこから伸びる無数の太い配管。

 僕はスマートフォンのライトが使えないため、換気口から漏れる微かな光を頼りに、タンクの側面にリベットで打ち付けられた金属製の銘板を探した。

 埃と油汚れにまみれたそのプレートを、制服の袖でゴシゴシと力強く擦り落とす。


 目を凝らすと、そこにはかすれた刻印が残っていた。


『月見坂市水道局 第七加圧ポンプ場(旧規格)』

『製造年:昭和六十二年』


「加圧ポンプ場……」


 僕は息を呑んだ。

 間違いない。ここは、月見坂市がスマートシティ化される遥か昔、旧市街と新市街の境界エリアに水を供給するために作られた、古い地下インフラの成れの果てだ。

 地下水脈の迂回のために残されたあの迷路区画の真下には、とうの昔に役目を終え、図面からも抹消されたような、昭和時代の巨大な地下施設がそのまま埋殺しにされていたのだ。

 犯人は、その忘れ去られた都市の(はらわた)へと通じる隠し扉か何かを見つけ出し、そこを自身の絶対的なアジト、あるいは僕を監禁するための檻として利用した。


「場所は、絞り込めた……」


 僕の心臓が、恐怖とは違う、ある種の興奮によって微かに早鐘を打った。

 如月さんの『物理的観察眼』の、足元にも及ばない拙い模倣。それでも、ただ怯えて泣いていた凡人の僕が、自らの知恵と観察だけで、現在位置の特定という大きなパズルのピースを一つ、論理的に自力で嵌め込んだのだ。


 しかし、場所がわかったところで、この分厚い鉄扉とコンクリートの壁を素手で破壊できるわけではない。

 外部との通信手段はない。助けを呼ぶこともできない。

 僕には、さらに環境を分析し、脱出の糸口、あるいは犯人の『生活痕』から弱点を見つけ出す必要があった。


 僕はコンクリートの床にうつ伏せになり、冷たい地面に直接右耳を押し当てた。

 目を閉じ、視覚情報を完全に遮断して、聴覚の感度を極限まで引き上げる。

 僕がガジェットオタクとしてオーディオ機器の周波数特性やノイズキャンセリングの仕組みを調べ尽くしてきた知識が、ここで意外な形で役立つことになった。


 空気中を伝わる音は、分厚い壁に遮られる。しかし、重低音や強烈な物理的振動は、コンクリートの躯体を伝わってより遠くまで届く性質がある。


『…………ピチョン……』


 相変わらず、三秒に一滴の水音が室内に響いている。

 僕はその水音の周波数を脳内でフィルタリングし、より深く、より遠くの「地鳴り」に意識のピントを合わせた。


 一分、二分、三分。

 静寂の中、床の冷たさで耳の感覚が麻痺しそうになった頃。


 ゴゴゴゴゴゴゴ……。


 微かな、本当に微かな重低音の振動が、耳の奥の蝸牛(かぎゅう)を震わせた。

 それは約十秒ほどかけて徐々に大きくなり、ピークを迎えた後、再び十秒ほどかけて遠ざかり、完全に消え去った。

 僕は頭の中でストップウォッチを起動し、次の振動が来るまでの時間を計測した。


 およそ七分後。

 再び、同じような重低音の振動が床を伝わってきた。今度は先ほどとは逆の方向から近づき、そして遠ざかっていく。


「……鉄道の振動だ」


 僕は確信を持って目を開けた。

 月見坂市の新市街を走る最新の地下鉄は、リニアモーターによる磁気浮上式を採用しており、走行音や振動は極限まで抑えられている。こんな重厚な物理的摩擦による地鳴りを発生させることはない。

 この鉄と鉄が擦れ合うような重く鈍い振動は、車輪を用いた旧式の鉄道車両のものだ。

 月見坂市で現在も稼働している旧式の鉄道路線は、旧市街と隣接する工業地帯を結ぶ、貨物線と一部のローカル線だけだ。


 僕が拉致された新市街の特異点の地下深く。

 そこから固体振動で旧式鉄道の走行音が伝わってくる距離。

 僕の脳内に、月見坂市の地下鉄路線図と、旧市街の鉄道マップがオーバーラップする。

 あの迷路区画の南端は、旧市街へと抜ける貨物線の地下トンネルと数十メートルの距離まで最接近しているポイントがある。


「現在地は、新市街の南端。第三水脈区画の真下にある、旧水道局の地下ポンプ場……!」


 完璧だ。もし仮に今、手元にスマートフォンがあれば、GPSが使えなくとも、自分の現在位置の座標をピンポイントで警察や如月さんに送信できるほどの確度だ。

 だが、そのスマートフォンは無い。


 僕は床から身を起こし、深く溜息をついた。

 情報が集まれば集まるほど、自分が置かれている状況の『絶望的なまでの隔絶感』が浮き彫りになっていく。

 犯人は、この場所の特性を完全に理解している。

 スマートシティの監視網から外れた物理的な死角。外部に音も漏れず、電波も届かない。そして、扉には外側から強固な鍵がかかっている。

 犯人が手足を縛らなかった理由は明白だ。縛るまでもなく、ここから人間が素手で逃げ出すことは物理的に一〇〇パーセント不可能だからだ。


「……犯人は、どんな奴なんだ」


 僕は壁に背中を預け、見えない敵のプロファイリングを試みた。

 犯人は、監視カメラの死角を完璧に把握し、僕の背後から無音で忍び寄った。

 そして、スタンガンという極めて現実的で、かつ対象を確実に無力化できる暴力的な手段を用いた。

 如月さんがいつも旧校舎の図書室で解き明かしているような、過去の遺物に秘められた静かな謎解きや、歴史のロマンなどとは根本的に質が違う。これは、もっと生々しい悪意を持った、直接的で暴力的な犯罪だ。


 しかし、目的がわからない。如月コンツェルンへの身代金目的なら、僕のようなただのクラスメイトを浚うのは効率が悪すぎる。身代金目的なら、如月さんの姉である翡翠さんや、もっと血縁に近い人間を狙うはずだ。

 なぜ、僕なのか。

 犯人は、僕と如月さんの関係性をどう捉え、何を期待して僕をこんな地下の奥底に閉じ込めたのか。


 思考が堂々巡りに陥りかけたその時だった。


 僕は、無意識に室内を巡らせていた視線を、不意に一点で固定した。

 先ほど確認した、天井付近を這い回る巨大な配管の束。その配管と配管が交差する、最も暗い影が落ちている隙間の部分。


「なんだ、あれ」


 僕は目を凝らした。

 暗順応した視界の限界ギリギリの場所。

 分厚い埃に覆われた古い配管の表面に、黒く細い『線』のようなものが這っているのが見えた。

 それは、旧規格のポンプ場の設備には絶対に使われない、現代的な素材だった。


 僕はゆっくりと立ち上がり、足音を立てないように配管の真下へと移動した。

 背伸びをして、暗がりを凝視する。

 黒い線の正体は、耐被覆ケーブルだった。結束バンドで配管の裏側に丁寧に固定され、それは部屋の隅の暗がりへと伸びている。

 そして、そのケーブルの先。


 配管とコンクリートの天井の間の、ほんの数センチの隙間。

 そこに、豆粒ほどの極小のレンズを持つ、黒いプラスチックの塊が設置されていた。

 レンズの脇には、一見するとただの闇にしか見えないが、一定の間隔で極めて微弱に、ぼんやりと赤く明滅する光の点があった。


「……隠しカメラ」


 僕の口から、掠れた声が漏れた。

 間違いない。ガジェットオタクの僕には一目でわかる。あれは、850nm帯の赤外線LEDを搭載した、暗視対応の小型IPカメラだ。

 赤外線照射機能によって、この真っ暗な部屋の中でも、僕の行動はモノクロの鮮明な映像として捉えられている。

 ケーブルの先は、おそらく壁の亀裂か配管の隙間を通って外部の無線送信機(トランスミッター)に接続されているのだろう。僕のスマートフォンを奪っておきながら、犯人自身は独立したネットワークを構築し、この密室を外から監視しているのだ。


 ゾクリと、背筋に悪寒が走った。

 あの小さな赤い光の向こう側で、犯人が今この瞬間も、僕の一挙手一投足を観察している。

 僕がパニックになって泣き喚く姿を。絶望して床に這いつくばる姿を。まるで虫かごの中のアリを観察するように、安全な場所から見下ろして嗤っているのだ。


 普通なら、ここで『見られている』という圧倒的な恐怖と羞恥に心が折れ、カメラに向かって命乞いをするだろう。助けてくれ、と。何でもするから出してくれ、と。


 しかし。

 僕の胸の奥底から湧き上がってきたのは、恐怖でも絶望でもなかった。

 それは、僕自身でも驚くほど冷たく、そして激しい『怒り』だった。


 僕の命綱であるガジェットを奪い、こんなカビ臭い地下室に放り込み、安全な場所から見世物のように観察する。

 その卑劣で、泥臭く、下劣な悪意が、どうしても許せなかった。

 そして何より、僕を拉致することで、あの誇り高い天才令嬢である如月瑠璃を動揺させ、彼女の盤面を土足で踏み荒らそうとしている犯人の傲慢さが、猛烈な腹立たしさを引き起こしていた。


 お前は、僕をただの無力な高校生だと思っている。

 怯えて泣き喚くことしかできない、哀れな小動物だと見下している。

 確かに僕は凡人だ。力もないし、喧嘩もしたことがない。

 だが、僕は。


『如月令嬢の、助手だ』


 僕は姿勢を正し、天井の配管の隙間――赤く明滅する隠しカメラのレンズのど真ん中を、真っ向から見据えた。

 怯えた表情など、微塵も見せてやるものか。

 僕は犯人に向かって、声には出さず、しかし明確な敵意と対抗意志を込めて睨みつけた。


(……見ているなら、しっかり見ておけよ)


 僕の頭脳は、これまでにないほどのクリアな回転を始めていた。

 カメラがあるということは、死角も必ず存在する。赤外線カメラの特性、画角、ケーブルの配線。僕の持っているすべてのガジェット知識が、犯人に対する『武器』へと変わる瞬間だった。


 この檻室の中で、僕自身の生存を賭けた、静かで孤独な反撃の狼煙が上がった。

 僕の胸の奥で、図書室のあの懐中時計の秒針の音が、犯人の悪意を切り裂くように、力強く時を刻み始めていた。



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