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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『檻室の不協和音』 ~section1:暗闇と、水滴の調律~

 意識の浮上は、泥の底から無理やり引きずり上げられるような、ひどく暴力的な感覚だった。

 最初に脳の処理領域を支配したのは、視覚でも聴覚でもなく、圧倒的な『痛み』だった。


「……ッ、あ……」


 声を出そうとしたが、喉がカラカラに乾ききっており、ひび割れた摩擦音しか漏れなかった。

 背中――ちょうど両方の肩甲骨の中央あたりに、焼け火箸を直接押し当てられたかのような強烈な熱と痛みが居座っている。さらに、その痛みの震源地から放射状に、全身の神経網を駆け巡るような不快な痺れが広がっていた。指先から足の先まで、自分の肉体でありながら自分の命令を聞き入れないような、ひどい違和感。

 口の中には、古い十円玉を舐めたような強い鉄の味が広がっている。極度の緊張と電気的なショックが引き起こした、生理的な拒絶反応の痕跡だった。


 僕は重い瞼を、接着剤で張り付いているかのような抵抗感に逆らって、ゆっくりと押し開けた。

 視界は真っ暗だった。

 いや、完全な闇ではない。網膜が機能を取り戻し、周囲の光量に順応していくにつれて、モノクロームのノイズがかかったような粗い解像度で、少しずつ周囲の輪郭が浮かび上がってきた。


 冷たい。

 右の頬に触れている硬い感触が、僕の体温を容赦なく奪い去っていく。

 コンクリートの床だ。それも、新市街の建築物に使われているような温度調整機能付きのスマートマテリアルなどではない。ひどくザラザラとしていて、油の染み込んだような古いコンクリートの感触だった。


 僕は両手を床につき、痺れる腕に無理やり力を込めて上体を起こした。


「痛ッ……」


 背中の筋肉が引き攣り、再び痛みが走る。高電圧のスタンガンによる一撃。あの入り組んだ旧市街の路地裏で、監視カメラの死角から音もなく忍び寄り、僕の背後から的確に急所を突いてきた『なにか』の記憶が、鮮明な恐怖として蘇ってきた。


 ここは、どこだ。

 僕は四つん這いの姿勢のまま、荒い息を吐きながら周囲を見渡した。

 微かな光源は、遥か頭上にある換気口のような小さな隙間から漏れ入ってくる、月明かりか外灯の反射光だけだった。そのわずかな光が照らし出しているのは、絶望的なまでに無機質で、そして冷え切った空間だった。


 部屋の広さは、学校の教室の半分ほどだろうか。

 壁は打ちっぱなしのコンクリートだが、所々に深い亀裂が走り、黒ずんだカビのような染みが広がっている。天井には、人間の胴体ほどもある極太の金属配管が、まるで巨大な蛇の死骸のように何本も這い回っていた。壁際の一角には、用途のわからない巨大な鉄製の機械――おそらくは古いボイラーか、あるいは何らかの工業用ジェネレーター――が、赤茶けた錆に覆われて沈黙している。

 計器類のガラスは割れ、ダイヤルは埃に埋もれ、稼働している気配は微塵もない。


「機械室……? いや、使われてない……放棄された地下室か……」


 ひらがなで思考を紡ぐことすら困難なほど、頭の中がぐらぐらと揺れていた。

 空気がひどく淀んでいる。機械油の酸化した匂いと、コンクリートから染み出す湿気の匂い。そして、長年人間が立ち入っていない密閉空間特有の、埃っぽい死臭のような匂いが鼻腔を突く。

 月見坂市が誇る、常に空気清浄と温度管理が行き届いたスマートシティのインフラから、完全に切り離された『異界』。それが、僕の置かれた現状だった。


 急激なパニックが、胃の腑から込み上げてきた。


 僕は誘拐されたのだ。

 あの路地裏で鳴海さんが言っていた『変質者』。いや、ただの変質者があんなプロフェッショナルな手口で人間を気絶させ、このような本格的な廃墟に監禁するはずがない。

 目的はなんだ。身代金か。僕の家は旧市街の古い団地で、父親と二人暮らしだ。如月コンツェルンのような莫大な富なんて一円もない。あるいは、本当に無差別な猟奇犯罪者で、僕をここで殺すつもりなのか。

『殺される』という明確な単語が脳裏に浮かんだ瞬間、心臓が早鐘のように打ち始めた。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 鼓膜の奥で、自分の血流の音が異常なほどの音量で響き渡る。

 呼吸が浅く、そして速くなる。酸素を吸い込んでいるはずなのに、肺が全く膨らまないような錯覚。過呼吸の初期症状だ。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、視界の端が暗く歪み始める。

 助からない。誰も僕がここにいることなんて知らない。如月さんのおつかいの途中で、誰の目にも触れずに消え去ったのだから。

 このまま、この冷たいコンクリートの上で、誰にも気づかれずに死ぬんだ。


 恐怖の泥沼に完全に首まで沈み込もうとした、その時だった。


『ピチョン……』


 張り詰めた静寂の空間に、極めて微かな、しかしはっきりとした水音が響いた。


『…………ピチョン……』


 僕は痙攣しかけていた喉をひきつらせ、息を呑んでその音の出処を探った。

 部屋の奥、錆びついた古い配管の継ぎ目から、地下水か何かの結露が、一定の間隔でコンクリートの床に落ちている音だった。


『…………ピチョン……』


 一秒、二秒、三秒。

 おおよそ三秒に一滴のペースで、水滴が冷たい床を叩いている。その規則的なリズムが、僕の狂いそうになっていた心拍数の間に、物理的な『楔』を打ち込むように入り込んできた。


『…………ピチョン……』


 その音を聞いた瞬間、僕の脳裏に、なぜか旧校舎の図書室の光景がフラッシュバックした。

 西日の差し込むマホガニーのテーブル。

 アンティーク調の椅子に深く腰掛け、純白の手袋をはめた手で、銀の装飾が施された美しい懐中時計の蓋を開く如月瑠璃の姿。


『チッ、チッ、チッ、チッ』


 彼女は、あらゆる事象のルーツを解き明かす極限の思考の海へ潜る前、必ずあの懐中時計の規則正しい秒針の音に耳を傾ける。自身の乱れた情動を強制的に凪がせ、心拍数を引き下げ、純粋で冷徹な観察者たる論理回路を起動させるための儀式。彼女が『調律』と呼ぶ、絶対的な精神統一のプロセス。


 僕は無意識のうちに、目を閉じていた。

 パニックに支配された脳が、生存本能から、あの天才の振る舞いをトレースしようとしていたのだ。


『…………ピチョン……』


 水滴が落ちる音に意識を集中する。

 音と音の間の、三秒間の空白。

 水滴が落ちる瞬間に、短く息を吸う。

 次の水滴が落ちるまでの間に、肺の中の淀んだ空気を、時間をかけてゆっくりと吐き出す。

 吸って。吐いて。

 コンクリートの冷たさを感じながら、ただひたすらにそのリズムと同調する。


 ドクン、ドクン、と暴走していた心臓の鼓動が、水滴の落ちるテンポに引きずられるようにして、徐々に、徐々に遅くなっていく。

 過呼吸で痺れていた指先に、じんわりと血流が戻ってくる感覚があった。

 恐怖という感情のノイズが、水滴の音によって一つずつ洗い流され、頭の中の白濁した霧が晴れていく。


「……ふぅーっ」


 長く、深い息を吐き出し、僕はゆっくりと目を開けた。

 先ほどまで恐怖で歪んで見えていた部屋の輪郭が、驚くほどクリアに視界に飛び込んできた。暗順応が完全に進んだこともあるが、それ以上に、僕の脳の処理能力が『生存のための観察』へと完全に切り替わった証拠だった。

 これが、如月さんがいつもやっている『調律』の感覚なのか。

 凡人である僕には、彼女のような天才的なひらめきも、モノの来歴をすべて見通す観察眼もない。だが、パニックを抑え込み、現状を客観的な事実としてただ認識することだけはできた。


 僕はゆっくりと立ち上がった。

 足元はまだ少しふらつくが、自力で歩行することは可能だ。

 そして、立ち上がって身体を動かしたことで、一つの極めて重要な事実に気がついた。


 手足が、縛られていないのだ。


 ロープの感触も、手錠の金属音もしない。拘束具の類は一切身につけられていなかった。

 僕は自分の両手を目の前にかざし、指をグーパーと動かしてみた。間違いない。完全に自由だ。

 誘拐や監禁において、被害者の身体を拘束しないというのは、どういうことなのか。

 答えは簡単だ。拘束する必要がないほど、この場所が『完璧な檻』として機能しているという、犯人の絶対的な自信の表れである。


 僕は足音を殺しながら、壁沿いに部屋の構造を探索し始めた。

 コンクリートの壁は分厚く、叩いても重く鈍い音しか返ってこない。窓は一つもなく、唯一の光源である頭上の換気口は、大人が腕一本通すのがやっとの隙間しか開いていない上、太い鉄格子が嵌め殺しにされていた。

 部屋の端に、唯一の出入り口と思われる重厚な鉄扉があった。

 僕は取っ手に手をかけ、体重を乗せて押し、そして引いてみたが、扉は数ミリの遊びすらないほど強固にロックされていた。外側から南京錠か、あるいは特殊なシリンダーで施錠されている。蝶番も内側からは破壊できない構造だ。


「……完全な、密室か」


 声に出して確認しても、先ほどのようなパニックは起きなかった。

 脱出が不可能であることを物理的に確認した僕は、次に『外部との連絡手段』の確保へとフェーズを移行した。

 僕は自分が倒れていた場所の近くに視線を戻した。

 薄暗い床の上に、見慣れたカバンが無造作に放り出されているのを発見した。僕がいつも学校に持っていき、そしてあの路地裏で背負っていた自分のカバンだ。


「カバンごと……持ってきてくれたのか」


 微かな希望が胸に灯った。

 僕は急いでカバンに駆け寄り、床に膝をついてジッパーを勢いよく開け放った。

 僕のカバンの中には、常に最新型のタブレット端末がクッションケースに入れて収納されている。スマートシティである月見坂市は、地下深くであっても独自の通信インフラの電波が届くように設計されている箇所が多い。もしこのタブレットでネットワークに接続できれば、GPSの位置情報を送信し、警察や如月さんに助けを求めることができる。


 僕はリュックの内側に手を手を突っ込み、背面側のクッションポケットを探った。

 教科書、ノート、筆箱、携帯用の折りたたみ傘。

 いつもの荷物の感触はある。

 だが。


「……ない」


 一番重要で、一番大きな体積を占めているはずの、タブレットの硬い感触がどこにもない。

 僕は焦ってリュックの中身をすべてコンクリートの床にぶちまけた。

 ノートが散乱し、筆箱からペンが転がり出る。

 しかし、何度確認しても、タブレット端末だけが綺麗に消え失せていた。


 嫌な予感が全身を駆け抜け、僕は弾かれたように自分の制服のズボンのポケットに両手を突っ込んだ。

 右のポケット。空っぽだ。

 左のポケット。通学用のICカードケースしか入っていない。

 上着のポケットもすべて叩いて確認する。


 ない。

 僕の命綱である、スマートフォンがない。


「嘘だろ……」


 膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。

 犯人は、僕の手足をロープで縛るような野蛮な真似はしなかった。その代わり、僕の所有物の中から、外部と繋がるための『通信機器(デジタルガジェット)』だけを、極めてピンポイントに、そして意図的に抜き取っていたのだ。


 それは僕にとって、手足を切断されるよりも恐ろしい『拘束』だった。

 僕は根っからのガジェットオタクであり、日常のあらゆる情報をデジタル端末に依存している。アイドルグループ『魚魚ラブ』の最新情報から、日々のニュース、友人とのやり取り、そして如月さんからの理不尽な命令に至るまで、僕の世界はすべてあの小さな画面の中に収束していた。

 その端末を奪われるということは、世界とのリンクを完全に切断され、この暗闇の檻の中に完全に孤立させられたという明確な宣言に他ならなかった。


 外部と連絡を取る手段は、ゼロ。

 自分が月見坂市のどこにいるのかを知る術も、ゼロ。

 そして、この扉が次にいつ開くのか、そもそも犯人が僕を生かしておくつもりがあるのかどうかも、一切不明。


 せっかく調律によって取り戻したはずの冷静さが、再び足元から崩れ去っていくのを感じた。

『外部との通信手段を絶たれた密室』という事実が、真綿で首を絞めるようなゆっくりとした絶望となって、僕の精神を侵食し始める。

 このまま誰も来なければ、僕は餓死するか、脱水症状で死ぬことになる。

 冷たいコンクリートの床に座り込み、僕は両手で頭を抱えた。どうすればいい。僕には如月さんのような天才的な頭脳もない。鳴海さんのような身体能力もない。ただの凡人が、こんな絶望的な状況を打破できるわけがない。


 絶望に打ちひしがれ、うつむいた僕の視界の端に。

 不意に、コンクリートの灰色とは明らかに異質な、淡い色彩が入り込んできた。


「……え?」


 僕は顔を上げ、部屋の隅、巨大なボイラーの影になっている暗がりへと視線を凝らした。

 そこには、見覚えのある手提げの紙袋が、くしゃくしゃに丸まりかけるようにして落ちていた。

 目をこらす。薄暗い光の中で、紙袋に印刷された老舗のロゴマークが確認できた。


『和盆堂』。


 それは、僕があの路地裏で背後から襲撃され、意識を失う直前に手から滑り落ちた、和菓子屋の紙袋だった。犯人が僕をこの部屋に運び込んだ際、カバンと一緒に無造作に放り投げたのだろう。

 僕は這うようにしてその紙袋に近づき、震える手でそれを引き寄せた。


 紙袋の中には、高級な和紙の包装紙に包まれた化粧箱が入っていた。

 石畳の上に落とされ、さらにこの部屋に放り投げられた衝撃で、箱の角は無惨にひしゃげ、美しい包装紙の何箇所かは破れてしまっている。

 僕は、まるで爆発物を処理するような極めて慎重な手つきで、破れた包装紙を剥がし、ひしゃげた箱の蓋をゆっくりと開けた。


 箱の中には、仕切りに守られるようにして、四つの美しい和菓子が並んでいた。

 季節の草花を象った、色鮮やかな『練り切り』。

 表面の細工がほんの少しだけ削れ、箱の中でわずかに位置がずれてしまってはいるものの、原型は完全に留めており、潰れて泥のようになっているわけではなかった。

 微かに、上質な小豆の甘い香りと、微量な抹茶の匂いが、機械油の臭いが充満するこの部屋に漂った。


「無事、だった……」


 掠れた声が漏れた。

 それは、徹底的に無機質で、死の気配すら漂うこの放棄された機械室において、唯一存在する『圧倒的に美しく、繊細な手仕事の結晶』だった。

 この箱の中にある和菓子だけが、僕の知っている『平穏な日常』の色彩を放っていた。


 助けが来るかは、わからない。

 自力でこの鉄扉をこじ開けて抜け出せる可能性も、限りなくゼロに近い。

 犯人が次に現れた時、僕が殺される確率だって十分にある。


 しかし、僕は手の中のひしゃげた箱を、大切に、本当に大切に胸に抱きしめた。

 少なくとも、ここには『食料』がある。

 上質な糖分と、微かな水分。それは、人間が極限状態で生き延びるための、最も原始的で、最も強力なエネルギー源だ。

 そして何より、これは如月さんが僕に『買ってこい』と命じたものだ。これを彼女に届けるまで、僕の『助手としての任務』は終わっていない。


 僕は深く息を吸い込んだ。

 絶望の淵に立たされた僕にとって、この傷ついた四つの和菓子は、ただのカロリーではない。

 僕の平穏な日常と、そしてあの埃っぽい旧校舎の図書室で待っているはずの『冷徹な主』とを繋ぐ、たった一つの、決して切らせてはならない強靭な命綱(アンカー)だった。


「……待っててください、如月さん」


 僕は暗闇の中で、誰にともなく呟いた。

 タブレットもスマホもない。外部との連絡手段は絶たれた。

 だが、僕はまだ死んでいない。

 コンクリートの冷気が這い上がってくる檻室の中で、僕の生存本能と、ほんのわずかな反逆の意志が、静かに、しかし確実に炎を上げ始めていた。



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