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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:『沈黙の残響』 ~section5:迷路と、消えた助手~

 新市街の特異点、地下水脈の迂回のために残されたその迷路のような区画は、大通りの喧騒からわずか数歩足を踏み入れただけで、まるで数十年の時間を遡ったかのような錯覚を引き起こす。

 最新の透過性舗装ブロックは姿を消し、代わりに雨水を黒々と吸い込んだ古い石畳が足裏に硬い感触を伝えてくる。両脇に迫る建物の壁面には、月見坂市の完璧な景観条例から逃れた剥き出しの配管や、無機質なエアコンの室外機が不規則に張り出し、それらが作り出す複雑な凹凸が、通り全体に濃い日陰を落としていた。


 僕は指定された老舗の和菓子屋『和盆堂』の暖簾をくぐり、引き戸を閉めた。

 手には、ずっしりとした重みのある紙袋が提げられている。店内は外の路地裏よりもさらに静かで、白檀の香りが微かに漂う空間だった。ガラスケースの中に芸術品のように並べられた季節の練り切りや、琥珀糖、そして最高級の小豆を用いた羊羹。僕は如月さんが好むであろう、上品な甘さでありながら舌触りに妥協のない職人の手仕事を選び出し、主人がそれらを丁寧に包装するのを待っていた。

「毎度ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」という主人の温かみのある声に見送られ、僕は再び薄暗い路地裏へと出た。


 時刻はすでに夕刻。新市街の大通りであれば、最新型のLED街灯が昼間と変わらぬほどの照度で街を照らし出し、デジタルサイネージの極彩色の光が溢れているはずの時間帯だ。しかし、この入り組んだ区画に設置されているのは、景観保護という名目で残された電球色のレトロな街灯だけだった。

 オレンジ色の頼りない光は足元をわずかに照らすだけで、建物の隙間や曲がり角の先には、底知れぬ暗がりが口を開けている。上空を見上げても、狭く切り取られた空はすでに深い群青色に沈み始めており、物流ドローンの規則的な軌跡の光すら、張り出した庇に遮られて見えなかった。


 僕はリュックの肩紐を握り直し、バス停へと戻るために歩き出した。

 早くこの場所を抜け出して、明るい大通りへ出たい。そんな本能的な焦りが、僕の歩調を無意識のうちに早めていた。

 頭の片隅には、先ほど循環バスの中で鳴海亜衣が語っていた『変質者』の噂が、べっとりと張り付いている。

『防犯カメラの死角を完全に把握し、無言で背後からついてくる』

 ただの都市伝説や、女子高生を狙ったストーカーの類だと自分に言い聞かせたはずなのに、この周囲の環境が僕の想像力を嫌な方向へと刺激していた。


 月見坂市は、どこにいてもAIによる監視の目が行き届いているスマートシティだ。しかし、この路地裏は違う。道が直角ではなく不規則な角度で曲がりくねり、建物の壁面が複雑な凹凸を持っているため、監視カメラの視野角が極端に制限されてしまうのだ。カメラを設置しようにも、数メートル先にはもう次の曲がり角があり、すべての空間を網羅するには非現実的な数のカメラが必要になる。結果として、このエリアには「ネットワークの死角」が無数に点在することになっている。


 僕は気を紛らわすために、脳内で『魚魚ラブ』のアップテンポなライブ曲を再生しようと試みた。あるいは、自室に置かれたデスクトップパソコンの冷却ファンの回転数や、次世代規格の通信プロトコルについての複雑な数式を思い浮かべる。

 論理的で、平和で、何より僕自身のコントロール下にある思考。

 しかし、それらのデジタルな防壁は、冷たい石畳を叩く自分の上履きの音によって、容易に打ち砕かれた。


 ペタン、ペタン。


 自分の足音だけが、不自然なほど反響して聞こえる。

 スマートシティ特有の環境音――EV車のモーター音、ドローンの羽音、人々のざわめき――が一切ない。この空間だけが、巨大な防音室に隔離されたような異常な静けさに包まれていた。


 その時だった。


 首の後ろ、うなじの辺りの産毛が、ぞわりと逆立った。

 冷たい水滴を背中に落とされたような、強烈な不快感。

 直感的なアラートが、僕の脳髄を激しく叩き起こした。


『見られている』。


 ただの通りすがりの視線ではない。明確な意志を持った、粘着質で、逃げ場を塞ぐような物理的な圧力を持った気配。

 僕は反射的に立ち止まり、息を呑んで背後を振り返った。

 電球色の街灯が照らす石畳の路地。ゴミ箱の影。複雑に折り重なる建物の壁。

 そこには、誰もいなかった。

 僕の足音以外の音は、何一つ聞こえない。


「……気のせい、だよね」


 僕は乾燥した唇を舐め、掠れた声で自分に言い聞かせた。

 路地裏特有の閉塞感と、鳴海さんの話が、僕の過敏な神経を刺激しただけの錯覚だ。男の僕を尾行してくる変質者などいるはずがない。

 僕は再び前を向き、歩き出そうとした。


 だが、足が前に出ない。

 気配が、消えていないのだ。

 姿は見えない。音も聞こえない。しかし、背後の空間の密度が明らかに違っている。何かが、僕の背中のすぐ後ろの暗がりに張り付いている。


 僕は如月さんの下僕として、彼女の『物理的観察眼』による論理的な思考プロセスを何度も特等席で見せられてきた。その影響からか、パニックになりかける頭の片隅で、信じられないほど冷静なもう一人の自分が、現在の状況を分析し始めていた。


 もし相手が、僕を尾行している生身の人間だとしたら。

 この入り組んだ路地裏で、なぜ足音を全く立てずに追随できるのか。

 答えは一つ。相手は僕の歩調と完全にシンクロして足を動かしているのだ。僕が足を止めた瞬間、相手も同時に足を止める。僕が足を踏み出す瞬間、相手も同じタイミングで体重を移動させる。そうすれば、僕の足音に相手の足音が完全にマスキングされ、聴覚上で存在を消すことができる。


 そして、なぜ振り返っても姿が見えないのか。

 それは、相手の『位置取り』が常軌を逸して完璧だからだ。

 この路地は道幅が狭く、少し曲がればすぐに建物の壁の死角に入る。相手は僕の肩の動きや視線の向きから、僕が振り返るタイミングをコンマ数秒の世界で予測し、滑るような無音のステップで壁の裏側や、街灯の光が届かない濃い影の中へと身を隠しているのだ。


 鏡面反射を利用されるガラス窓もなく、防犯カメラのネットワークも途切れているこの特異点において、相手は人間の知覚の盲点と、物理的な死角の境界線を完全に支配している。

 これは、ただの変質者ではない。

 標的の心理を読み切り、身体の動きを完全にコントロールできる、尾行や潜伏に特化した圧倒的なプロフェッショナルだ。


「誰だ……!」


 僕は恐怖を振り払うように、路地裏に響き渡る声で叫んだ。

 返事はない。

 ただ、僕が声を上げた瞬間、背後の気配が、明確な『悪意』と『殺気』を伴って急激に膨張するのを感じた。相手が、僕との距離を一気に詰めてきたのだ。


 僕はポケットに入っているスマートフォンの存在を思い出した。

 すぐに取り出して、警察か、あるいは如月さんに……。

 そう考え、右手をポケットに突っ込もうとした瞬間。


 バチッ!!


 静寂の路地裏に、空気を切り裂くような鋭い放電音が響き渡った。

 同時に、僕の背中、肩甲骨の間の急所に、焼けるような強烈な痛みが走った。


「あ、が……ッ!?」


 声にならない絶叫が喉の奥で詰まる。

 高電圧のスタンガン。

 何万ボルトという規格外の電流が、僕の中枢神経を瞬時にショートさせた。筋肉が意思とは無関係に激しく痙攣し、視界が強烈なフラッシュを浴びたように真っ白に明滅する。

 呼吸ができない。立っているための平衡感覚が完全に破壊され、重力が何倍にも増したように身体が崩れ落ちていく。


 僕はコンクリートの石畳に、無防備な顔面から激突した。

 痛覚すら麻痺して、衝撃だけが鈍く脳に響く。

 右手から力が抜け、大切に抱えていた和盆堂の紙袋が、カサリと音を立てて手から滑り落ちた。中に入っていた高級な化粧箱が、無情にも石畳の上へ転がり出る。


 明滅する視界の端で、僕の横に立つ『なにか』の足元が見えた。

 音を吸収する特殊な素材で作られた、黒いタクティカルブーツ。それ以上は、瞳孔が収縮し、網膜が機能を停止していくため、何も見えなかった。

 相手は一言も発しない。

 ただ、物理的な死角から現れ、完全に論理的な一撃で僕の身体の自由を奪い去った。


 なぜ、僕が。

 如月さんのおつかいに来ていたただの高校生である僕が、こんな目に遭わなければならないのか。

 その疑問に対する答えを導き出す前に、僕の意識は、底なしの暗い泥沼の中へと完全に引きずり込まれ、暗転した。


**


 場面は変わり、夕闇に包まれた旧校舎の図書室。


 外界のあらゆるノイズから切り離されたその空間は、冷徹な静寂を保ち続けていた。

 マホガニーのテーブルの中央には、皐月優奈の遺物である古びた木製メトロノームが、その役目を一時的に終えたかのように静かに鎮座している。その傍らには、瑠璃が鑑定に用いた銀の装飾が施されたルーペと、純白の手袋が几帳面に揃えて置かれていた。


 如月瑠璃は、アンティーク調の椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄っていた。

 ひび割れた窓ガラスの向こうには、月見坂市の空を覆い尽くす漆黒の夜の帳が下りている。新市街の方角からは、天を焦がすような極彩色の光の帯が立ち上り、都市全体が一つの巨大な生命体のように鼓動しているのが見える。

 しかし、この旧校舎の周辺だけは、深い闇と冷たい風が支配する静謐な領域だった。


 瑠璃は右手に握った懐中時計の蓋を、無意識の動作で軽く弾き開けた。


 チッ、チッ、チッ、チッ。


 極めて精巧な歯車が、一秒の狂いもなく時を刻み続けている。

 アメジストの瞳が、文字盤の針を冷徹に読み取る。

 彼女が助手のサクタロウに『駅前の和盆堂へ行け』と命じてから、すでに九十分近い時間が経過していた。


 新市街の循環バスのダイヤは、AIによって分単位で完璧に管理されている。和盆堂での買い物の時間を多めに見積もったとしても、往復で一時間もあれば十分にお釣りがくる距離だ。

 途中で彼が寄り道をする可能性。

 それは、瑠璃の構築した論理モデルの中では、極めて確率の低い事象だった。サクタロウは凡人であり、女性に免疫がなく、地下アイドルやガジェットにしか興味を持たない愚鈍な存在だ。しかし、彼には奇妙なほどの責任感と、瑠璃の命令に対する従順さがある。

 頼まれた買い物を放り出して、別の場所で時間を潰すような男ではない。


「……遅い」


 瑠璃は窓の外を見つめたまま、ただ事実だけを口にした。

 感情の起伏はない。心配や焦燥といった人間らしい揺らぎは、彼女の声には微塵も含まれていなかった。

 あるのは、自身の構築した『サクタロウは数十分後に戻ってくる』という論理的な推測が、現実の事象によって裏切られているという、数学的なエラーに対する微かな引っかかりだけだ。


 月見坂市は、完璧なスマートシティである。

 突然の交通事故や、公共交通機関の遅延といった予測不能な事態は、システムによってほぼ排除されている。

 ならば、彼の帰還を遅らせている要因は何か。


 瑠璃は懐中時計の蓋を閉じ、銀の鎖を指に絡めた。

 彼女の脳裏に、一つの可能性が浮上する。


 優奈の遺物であるメトロノーム。

 あの冷徹な奇術師、ファントムが提示してきた、隠された真実への第一歩。

 ファントムは、盤面を動かすために、常に複数の布石を完璧なタイミングで配置する。メトロノームは、瑠璃の『知』に対する招待状だ。

 ならば、サクタロウの遅延は、ただの偶然だろうか。


「……まさか、な」


 瑠璃は小さく息を吐き、きびすを返して再びテーブルへと戻った。

 ファントムは無益な暴力を好まない。彼にとってサクタロウという存在は、盤面の上を歩き回るただの小さな駒に過ぎない。しかし、その小さな駒の動きを止めることが、瑠璃の思考を特定の方向へ誘導するための『物理的な条件』であるならば、ファントムは迷わずそれを利用するだろう。


 図書室の空気が、微かに冷え込んだような気がした。


 瑠璃は再びアンティーク調の椅子に座り、テーブルの上のメトロノームを冷徹な目で見据えた。

 今はまだ、何の情報もない。サクタロウがただバスに乗り遅れただけなのか、スマートフォンの画面を割って途方に暮れているのか、あるいは、全く別の理不尽な事象に巻き込まれているのか。


「早く戻るのじゃ、サクタロウ。……茶が、冷めるであろう」


 誰に聞かせるわけでもないその言葉は、旧校舎の深い静寂の中へと音もなく吸い込まれていった。

 彼女はまだ知らない。

 この静謐な図書室の窓の外で、過去の因縁と現在の悪意が複雑に絡み合い、決して後戻りのできない残酷な事件の幕が、すでに静かに、そして確実に切って落とされているということを。


 机上のメトロノームが、月明かりを浴びて、無言のまま鈍い光を放ち続けていた。



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