プロローグ:『沈黙の残響』 ~section3:喧騒と、日常の逃避行~
如月学園の広大な敷地を囲む、デザイン性の高いチタン合金製の西正門を抜けると、そこには月見坂市が誇るスマートシティの洗練された景観が広がっていた。
無駄な電柱は一本もなく、すべての電力網と通信網は地下の共同溝に完全に収められている。歩道は透水性のある特殊なブロックで幾何学的な模様に舗装され、車道を行き交う車両の多くは静音性に優れた完全自動運転のEV車だ。街路樹の根元には土壌の水分量を自動で計測するセンサーが埋め込まれ、常に最適な量の水が供給されている。上空を見上げれば、指定された空路を小型の物流ドローンが規則正しく飛んでいるのが見える。
徹底的に計算され、管理され、最適化された都市。それが新市街の日常風景だった。
僕は停留所のチタン製ベンチに腰を下ろし、駅へ向かう循環バスを待っていた。
腕にはめたスマートウォッチや、街角のデジタルサイネージを見れば、バスが数分数秒の狂いもなくいつ到着するかなどすぐにわかる。しかし、今の僕はポケットのスマートフォンを取り出して確認する気力すら湧かなかった。
頭の芯に、べったりとしたタールのようにこびりついて離れない光景がある。
旧校舎の埃っぽい図書室。重厚なマホガニーのテーブル。
そして、その中央に置かれた古びたメトロノームと、それを見つめる如月さんの瞳だ。
如月瑠璃という人間は、僕の知る限り、この世界で最も冷徹な論理の体現者である。彼女はあらゆる事象を観察し、物理的な痕跡からモノのルーツを完璧に暴き出す。彼女の眼差しは常に獲物を狙う鷹のように鋭く、他者の感情を『情動の視座』で読み取ることはあっても、決してそれに引きずられたり、同情して涙を流したりすることはない。彼女にとって他者の悲哀も歓喜も、謎を解き明かすためのデータの一部に過ぎないのだ。事件が解決し、結果として誰かが救われたとしても、彼女は『それはルーツ解明の副産物に過ぎない』と冷たく言い放つ。
そんな彼女が、まるで壊れ物に触れるような、祈るような、あるいは決定的な喪失を愛おしむような『慈しみ』の瞳を、あのガラクタに向けていた。
あのメトロノームには、一体どんな過去が宿っているというのか。如月コンツェルンの令嬢であり、どんな高価なアンティークであろうと一瞥してその価値と来歴を看破する彼女が、なぜあそこまで心を乱していたのか。
「……考えても、わかるわけないか」
僕は誰に言うでもなく小さく呟き、深く息を吐き出した。
僕のような凡人に、天才の思考の深淵など覗き込めるはずがない。それに、あの時の彼女が放っていた、他者を完全に拒絶するような圧倒的な孤独感は、僕がこれ以上踏み込んではならないという明確な警告を発していた。僕の役目は、彼女の命じるままに駅前の和盆堂へ行き、茶菓子を買ってくることだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
思考のループに陥りかけていた僕の視界の端に、滑るようにして停留所に近づいてくる流線型の車体が映った。
月見坂市の公共交通機関を担う、最新型の電動循環バスだ。モーターの駆動音すらほとんど立てず、僕の目の前で寸分の狂いもなく停車する。プシュッという短い空気音とともに、透明度の高い強化ガラスのドアが開いた。
僕はICチップが組み込まれた生徒手帳をリーダーにかざし、冷房の効いた車内へと足を踏み入れた。
帰宅時間帯ということもあり、車内は如月学園の生徒たちや新市街のオフィスから帰る人々でそこそこ混み合っていた。僕は空いている座席を探すのを諦め、後方のドア付近にある手すりに掴まって体勢を固定した。窓の外を流れる整然とした街並みをぼんやりと眺めながら、意識を別のところへ飛ばそうと試みる。
例えば、僕の心の支えである地下アイドルグループ『魚魚ラブ』のこと。彼女たちのキレのあるダンスパフォーマンスや、次のゲリラライブの予想について。あるいは、自室のパソコン周りの配線をどう最適化するか、海外サイトで目星をつけている新しいガジェットのスペックについて。
できるだけ俗っぽくて、論理やルーツとは無縁の、平和で平坦な思考。
そうやって無理やり意識を『僕の日常』に引き戻そうとしていた矢先だった。
「おっ、朔じゃん! 今帰り?」
背中を、パーン! という強烈な破裂音とともに叩かれた。
「ひ、ひゃあッ!?」
完全に油断していた僕は、カエルが潰れたような情けない悲鳴を上げてその場に飛び上がってしまった。手すりを掴んでいなければ、間違いなく床に転がっていたほどの衝撃だ。
そして何より、僕の脳の処理回路を完全にショートさせたのは、背中を叩いてきたのが『同世代の女性』であるという事実だった。
僕が心臓を口から吐き出しそうになりながら、ロボットのようにギシギシと首を回して振り返ると、そこには屈託のない、太陽のような笑顔を浮かべた女子生徒が立っていた。
短いショートカットの髪から、微かに柑橘系の制汗スプレーと、健康的な汗の匂いが漂ってくる。日に焼けた肌と、引き締まった手足。肩から提げた大きなスポーツバッグには、陸上部のロゴがプリントされている。
同じ学年の、1年3組。鳴海亜衣だった。
「な、鳴海さん……! びっくりさせないでよ、心臓が止まるかと思った……」
「あはは、ごめんごめん! 朔の背中が無防備すぎたからさ、つい。相変わらず反応が良いよねえ」
ケラケラと笑う鳴海さんは、僕の隣に並んで手すりを掴んだ。
僕はと言えば、突然の女子生徒との至近距離での接触に、急激に血圧が上昇し、思考が白濁していくのを感じていた。ただでさえ女性に対する耐性が著しく低いというのに、鳴海さんのような明るく活発で、パーソナルスペースという概念が存在しないようなタイプは、僕にとって最も対応が困難な人種なのだ。
如月さんと一緒にいる時も常に緊張はしているが、あれは『圧倒的な捕食者の前に引きずり出された小動物の緊張』だ。如月さんは僕を下僕としか思っていないため、無用な身体的接触をしてくることは絶対にない。しかし鳴海さんの場合は、純粋な『陽のオーラに焼却されそうになる日陰者の緊張』であり、なおかつ彼女は平気で肩を組んだり背中を叩いたりしてくる。
だが、僕は彼女から逃げ出したり、完全に口を閉ざしたりすることはしなかった。
僕と鳴海さんの間には、クラスの違いやカーストの違いを超えた、ある種の『奇妙な連帯感』が存在していたからだ。
前回の事件。
如月学園の海外研修で訪れた、遠く離れた異国・ベルグラヴィア。そこで巻き込まれた、あの凄惨な連続見立て殺人。
あの凍てつくような恐怖と、血の匂いが充満する洋館の中で、僕と鳴海さんは共に死線を潜り抜けた。そして最後は、如月さんの常軌を逸した推理力と圧倒的な論理によって、僕たちは命を救われたのだ。
あの地獄のような非日常を共有した仲間として、鳴海さんは僕にとって、単なる『他クラスの活発な女子』以上の意味を持っていた。彼女とこうして他愛のない言葉を交わせることは、僕たちが無事に日常へと帰還できたことの何よりの証明でもあった。
「鳴海さんは、部活の帰り?」
どうにか動悸を抑え込み、僕は努めて平坦な声を出して尋ねた。
「そう! 今日はインターバル走のメニューがきつくてさー、もう足がパンパン。このまま帰ってベッドにダイブしたいところなんだけど、駅前のスポーツショップで新しいスパイクのピンを買わなきゃいけなくて」
鳴海さんはスポーツバッグを少し持ち上げて見せながら、明るい声で答えた。
「朔は? なんか、珍しく一人だね。いつもはあの、ほら、如月さん? 彼女と一緒に行動してるイメージしかないんだけど」
鳴海さんの口から如月さんの名前が出て、僕は反射的に身構えた。
ベルグラヴィアの事件で、鳴海さんも如月さんの異質さや天才的な頭脳を目の当たりにしている。だが、如月さんは事件解決後、不要な人間関係を構築することを徹底して拒み、鳴海さんとも一切の交流を持っていない。
「あ、いや。今日はちょっと、如月さんから頼まれごとをしてて。和盆堂っていう和菓子屋さんにおつかいに行くだけだよ」
「おつかい? なにそれ、朔ってば完全にパシリじゃん! 如月さんって見た目はお姫様みたいに超絶美人だけど、性格は結構スパルタだよね。朔も大変だねえ」
鳴海さんは同情するような、けれどどこか面白がっているような調子で笑った。
その屈託のない笑い声を聞いていると、僕の肩から少しずつ余計な力が抜けていくのがわかった。
図書室に充満していた、あの息の詰まるような重い静寂。如月さんの痛切な瞳。古びたメトロノーム。それらの『異常な世界』のノイズが、鳴海さんの放つ『圧倒的に健全な日常』のエネルギーによって、少しずつ中和されていくのを感じる。
そうだ。僕はただの高校生で、今は放課後のバスに乗っているだけなのだ。
天才の抱える闇や、複雑なルーツの解明なんて、本来の僕の人生には全く関係のないことだ。
「そういえばさ、朔」
バスが滑らかに交差点を曲がり、新市街の中心部へと近づいてきた頃、鳴海さんがふと声のトーンを落とした。先ほどまでのカラッとした明るさが鳴りを潜め、少しだけ声をひそめるような仕草を見せる。
「朔が今から行く和盆堂って、駅前の……ほら、新市街の区画整理から外れてる、あの入り組んだエリアにあるんだよね?」
「うん、そうだけど。それがどうかした?」
「最近、あの辺りで変な噂が流れてるの、知らない?」
「変な噂?」
僕は眉をひそめた。月見坂市の新市街は犯罪発生率が極めて低いことで知られている。至る所に張り巡らされた監視カメラとAIによる行動予測システムのおかげで、街中でトラブルが起きることは滅多にない。
「陸上部の先輩が言ってたんだけどさ。基本は碁盤の目になってる新市街の中で、あの辺りだけ地下の水脈の関係で昔の道がそのまま残ってるじゃない? まるで迷路みたいな路地裏。あそこで最近、『変質者』が出没するらしいんだよね」
鳴海さんは、自分の両腕をさするような仕草をした。
「最初はただの不審者かと思ってたらしいんだけど、手口が結構気味が悪くて。夕方以降の薄暗い時間帯に、女子高生の後ろをずっと無言でついてくるんだって。でも、振り返っても誰もいないの。あそこって道が不規則に入り組んでるせいで、新市街の最新インフラや防犯カメラのネットワークが完璧には機能してない、いわゆる『死角』が多いじゃない? その変質者は、カメラの位置を完全に把握してて、死角から死角へと移動しながら監視してくるらしいんだ」
「防犯カメラの死角を突く変質者……」
僕は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。
ストーカーや盗撮目的の人間が、月見坂市の厳重なセキュリティ網のわずかな綻びである迷路区画を狙っている。僕が住んでいる昭和のような旧市街ならいざ知らず、この新市街のど真ん中で起きていると思うと、いかにも現実的で悪質な犯罪だ。
「警察も一応パトロールは強化してるらしいんだけど、今のところ姿すら捉えられてないんだって。足音一つ立てない不気味な奴らしいから、朔も一応気をつけてね。ただでさえ頼りないんだから、万が一鉢合わせたりしたら危ないよ」
「頼りないは余計だよ……。それに、変質者が狙うのは女子高生なんでしょ? 男の僕には関係ないと思うけど」
「まあそうだけどさ! 油断大敵って言うじゃない」
僕は苦笑いしながら答えた。
他愛のない、しかし少しだけ現実味のある不審者情報。どこの街にも一つや二つはある噂話だ。それに、僕はごく普通の男子高校生だ。いくら薄暗い路地を歩くとはいえ、女子高生を狙う変質者に襲われる理由などどこにもない。
「次は、月見坂駅前。月見坂駅前です」
合成音声のアナウンスが流れ、バスが静かに速度を落としていく。
窓の外には、巨大なガラス張りの駅舎と、空中を飛び交う無数のデジタル広告が放つ極彩色の光が広がっていた。完璧に制御された、眩しいほどの光の海。
バスが完全に停車してドアが開くと、鳴海さんはスポーツバッグを揺らしながら軽やかな足取りで降りていった。
「あ、私こっちだから! じゃあまた明日、学校で!」
「うん、また明日」
僕は彼女の背中を見送り、小さく手を振り返した。
駅へと向かう人の波に紛れ、鳴海さんの姿があっという間に見えなくなる。彼女が去った後の僕の周囲には、再び都市の無機質な喧騒だけが残された。
僕はバス停から少し歩き、巨大な駅舎を背にして、新市街のメインストリートから一本外れた道へと視線を向けた。
そこから先は、月見坂市の整然とした開発から『外れてしまった』エリアだ。地下を流れる古い水脈を迂回するため、直線的で美しい碁盤の目の街並みがそこだけ不自然に途切れ、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった細い路地が形成されている。
大通りに並ぶ最新のLED街灯の光は路地の奥までは届かず、建物の隙間は狭く日陰が濃い。まるで、光り輝くスマートシティの足元にポッカリと開いた、異質なブラックホールのようにも見えた。僕が住む旧市街の生活感あふれる雑多さとは違う、システムから弾き出されたような冷たい不規則さ。
如月さんに指定された和菓子屋『和盆堂』は、その迷路のような路地裏の奥深くに存在している。
僕は鳴海さんから聞いた変質者の噂を頭の片隅に置きつつ、一度だけ深く深呼吸をし、リュックの肩紐を握り直した。男の僕には関係のない話だ、と自分に言い聞かせる。
光の届かない特異点へと、足を踏み入れる。
僕の平穏な日常の逃避行は、ここで終わりだ。
この時の僕はまだ、この一歩が、再びあの息の詰まるような『異常』の世界への入り口であり、僕自身の日常が理不尽な暴力によって完全に破壊される引き金になることなど、知る由もなかったのだ。




