第3話『暗渠の断罪』 ~section4:狂信と、残された獲物~
「おい神宮寺、少し待て……! くそっ、足が速すぎるぞお前!」
月見坂市新市街の中央。巨大な商業ビル群の影にへばりつくように残された、歪な迷路区画。
太陽の光すら届かないその薄暗い旧規格の石畳の上を、ヨレヨレの安物のトレンチコートを羽織った月見坂警察署捜査一課の瀬田明彦警部補は、息を切らしながら走っていた。
スマートシティの快適な空調管理から完全に切り離されたこの区画は、ひどく湿っぽく、カビとヘドロの臭いが充満している。ただ走っているだけで、ワイシャツの下に不快な汗がべっとりと張り付いてきた。
「瀬田先輩! 泣き言を言っている場合ではありません! 瑠璃様の細く美しい肩に、これ以上この街の暗部を背負わせるわけにはいかないのです! 我々警察が、公の剣としてあの凶悪な誘拐犯を打ち倒さねば!」
「だからって、当てもなく走り回って見つかるわけ……」
瀬田が愚痴をこぼし終えるより早く、先行していたパリッと糊の効いたスリーピーススーツ姿の若き巡査部長、神宮寺海斗が、路地裏の突き当たりにある高いコンクリートの擁壁の前で急停止した。
「……瀬田先輩。ビンゴです。瑠璃様の『導き』がありました」
「なんだと?」
神宮寺のただならぬ声色に、瀬田は慌てて追いつき、彼が指差す先――足元の暗がりへと視線を落とした。
そこには、周囲の石畳と同化するように設置された、正方形の巨大な隠しマンホールのハッチがあった。ハッチ自体は横にスライドして開け放たれており、ぽっかりと開いた暗闇の底からは、冷たく重い地下の空気が吹き出してきている。
瀬田の刑事としての鋭い眼光が、ハッチの傍らに無造作に放り投げられている『金属の残骸』を捉えた。
「こいつは……」
瀬田は屈み込み、ハンカチ越しにその金属片を拾い上げた。
それは、数トンの破断強度を誇るはずの工業用の巨大な南京錠と、極太のチタン合金製チェーンだった。驚くべきは、その破壊痕である。南京錠の焼入れ鋼のツル(U字部分)が、まるで飴細工のように捻じ曲げられ、中央からスッパリと『切断』されていたのだ。
「油圧式のボルトカッターか何かで、強引にへし折った痕だ。それも、相当な出力のツールを使わなきゃ、こんな分厚い合金の塊は切れねえ。……持ち歩けるサイズのツールでこれをやったとすれば、尋常じゃねえ怪力の持ち主だ」
瀬田の脳裏に、如月瑠璃の背後に常に彫像のように控えている、漆黒のスーツを着た巨漢のボディーガードの顔が浮かんだ。
「黒田さんですね! 間違いありません、瑠璃様はここを通られたのです!」
神宮寺は感極まったように両手を組み合わせ、暗闇の開口部に向かって祈るようなポーズをとった。
「ああ、瑠璃様……! 我々警察という公権力の介入を『ノイズだ』と冷たく突き放しつつも、こうして我々が迷わないように、あえて派手な痕跡を残してくださるとは! 照れ隠しにも程があります!」
「……お前、本気で病院行った方がいいぞ」
瀬田は頭痛を堪えるように眉間を揉んだ。
あの人間嫌いで傲慢な天才令嬢が、自分たち警察のためにわざわざ痕跡を残すわけがない。単に『南京錠を証拠隠滅のために持ち帰る』という行為すら、自身の思考リソースの無駄だと切り捨てただけだろう。彼女にとって、事後処理などどうでもいいのだ。
「行くぞ神宮寺。相手はあの坊主を拉致した凶悪犯だ。スタンガンを持ってる可能性が高い。油断するな」
「はっ! 瑠璃様の御心のままに!」
瀬田は懐から警察手帳と警棒を取り出し、神宮寺と共に、錆びついたタラップを慎重に降り始めた。
深さおよそ十五メートル。
降り立った先は、瀬田の想像を遥かに超える巨大な地下空間だった。アーチ状の天井と、何本も這い回る巨大なダクタイル鋳鉄管。
「ここは……新市街の地下か? いや、この古い規格の配管は……まさか、『第七加圧ポンプ場』の跡地か」
月見坂市の暗部を長年歩き回ってきた瀬田の知識が、この忘れ去られた施設の正体を弾き出す。
監視カメラの死角である迷路区画から、この地下へと潜った。犯人は、スマートシティの監視網を完全に熟知し、裏をかく知識を持った相当な手練れだ。
二人はタクティカルライトの光を頼りに、警戒しながら地下プラントの奥へと進んでいく。
そして、ほどなくして。
巨大な配管の裏側に隠されるようにして存在していた、分厚い鋼鉄の扉を発見した。
扉を塞いでいたはずの鋼鉄のバーは床に投げ出され、重厚な鉄扉は半開きになっている。そこから、微かに生臭い血の匂いと、空気を焼き焦がしたようなオゾンの臭いが漏れ出していた。
「……行くぞ」
瀬田は神宮寺と目配せをし、警棒を構えて一気に鉄扉を蹴り開けた。
「警察だ! 動くな!!」
瀬田の怒号が檻室の中に反響する。
二本のタクティカルライトの光が、真っ暗な室内を交差するように舐め回した。
巨大なボイラー。天井付近でブレザーによって塞がれた監視カメラ。床に転がる、血に濡れたモバイルバッテリーのアルミ外装。
「……朔光太郎くんのブレザーに、カバンの残骸……そして、この血痕。ここで争いがあったのは間違いない。ですが、瑠璃様のお姿も、朔光太郎くんの姿もありません!」
神宮寺が焦燥に駆られた声で報告する。
部屋の奥、コンクリートの壁だと思われていた場所には、カモフラージュされた工業用の巨大な防爆シャッターがあり、その下部が暴力的な力によって無惨に破壊され、腰の高さまで押し上げられていた。その向こうからは、地上の風が吹き込んできている。
「あの坊主の血痕が、シャッターの向こうへと続いている……。あの令嬢のことだ、とっくに犯人を制圧して、坊主を連れて別ルートから地上へ脱出した後ってことか。早すぎるだろ、どんだけ頭の回転が速いんだあの小娘は……」
瀬田は脱力し、警棒を下ろした。
人質が無事であることに安堵しつつも、警察という組織の存在意義を根底から否定されるような圧倒的なスピード解決に、ベテラン刑事としてのプライドがへし折られる思いだった。
「ん……? おい、神宮寺。ライトをあっちへ向けろ。部屋の隅だ」
瀬田が鼻をヒクつかせ、部屋の最も暗いボイラーの影を指差した。
神宮寺がライトを向ける。
光の円の中に浮かび上がったのは、ボロ布のように床に転がった、異様な『肉の塊』だった。
「な、なんだこれは……」
瀬田は思わず息を呑み、慎重にその物体へと近づいた。
それは、人間だった。
大柄な男が、極めて残酷かつ合理的な手法で床に拘束されているのだ。
両手首を背中側で交差され、太い同軸ケーブルで骨が軋むほど強固に縛り上げられている。さらに両足首もUSBケーブルで緊縛され、手と足のケーブルが連結されることで、男の背中はエビ反りのように強烈に弓なりに固定されていた。
いわゆる『ホグタイ』と呼ばれる拘束法。手足に力を入れる支点を完全に奪われ、呼吸すらままならなくなる、暴動鎮圧用の極めて危険な拘束術だ。
「両腕……いや、手首の関節が完全にありえない方向に折れ曲がってる。それに、顎から鼻筋にかけて陥没し、頸動脈に強烈な打撃を受けた痕があるな……」
瀬田は男の首元に指を当て、脈を確認した。
「生きてはいるが、完全に意識が飛んでる。泡を吹いてやがる。それに、この足元に落ちてる粉々になったプラスチックの破片……こりゃ、大型のスタンガンのグリップ部分か。握り潰されてやがる」
その惨状から、ここで何が起きたのかは火を見るより明らかだった。
誘拐犯であるこの男は、スタンガンを武器にサクタロウに暴行を加えていた。しかしそこに瑠璃と黒田が到着。男は黒田に対してスタンガンや暴力で反撃を試みたものの、すべて文字通り『片手で』へし折られ、圧倒的な力の差の前に手も足も出ずに粉砕されたのだ。
「黒田の奴、容赦ねえな……」
瀬田は背筋に冷たいものを感じながら、気絶している男の脂汗と泥に塗れた顔を、ライトで照らし出してよく確認した。
どこかで見た顔だ。月見坂市の裏社会を這い回る有象無象のチンピラではない。もっと、警察組織全体を敵に回したような、大きな事件の……。
「……嘘だろ」
瀬田の目が、驚愕に見開かれた。
「どうしました、瀬田先輩。この惨めな犯罪者に何か見覚えが?」
「見覚えがあるなんてもんじゃねえよ……。こいつ、三年前に俺たち警察をコケにして、月見坂市の高級住宅街から数億円を掠め取った大規模窃盗グループの幹部だぞ」
瀬田は男の顔を指差し、声を震わせた。
「『漆黒の翼』の幹部……葛城、大河。あの時、如月コンツェルンの私兵どもがアジトを急襲して一網打尽にした事件で、たった一人だけ地下水脈へ逃げ込んで行方をくらました、あの指名手配犯だ。三年間も、こんな忘れられたポンプ場に潜伏してやがったのか……!」
三年間、警察が威信をかけて血眼になって探しても尻尾すら掴めなかった凶悪犯。
それが今、自分たちの目の前で、手足をへし折られ、不格好なケーブルの束でエビ反りに縛られ、泡を吹いて気絶しているのだ。
瀬田の脳内は、あまりの事態のスケールと、事象の異常なまでの繋がりに処理が追いつかず、完全にフリーズしかけていた。
しかし、隣にいた神宮寺の反応は、瀬田の常識的な驚愕とは全くベクトルが異なっていた。
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
突如として、神宮寺が薄暗い地下室の天井を仰ぎ見て、地下全体が揺れるほどの声量で感極まった絶叫を上げたのだ。
彼はそのまま、汚れたコンクリートの床に両膝をつき、両手で顔を覆ってボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「お、おい神宮寺!? どうした、急に発作か!?」
「理解いたしました……。すべて、すべて理解いたしましたぞ、瀬田先輩……!!」
神宮寺は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、床に転がる葛城の肉塊と、破壊された防爆シャッターを交互に指差した。
「瑠璃様は……あの美しく気高き令嬢は、我々が追いつく前にこの凶悪犯を制圧し、そして、あえてトドメを刺さずに『生かしたまま』この場に残していってくださったのです!」
「は? いや、単に気絶させて縛っただけだろ。殺したら殺人罪になるんだから当たり前だ」
瀬田の至極真っ当なツッコミは、狂信のフィルターを通した神宮寺の耳には全く届いていない。
「三年間も警察を欺き続けた大罪人。瑠璃様ほどの権力と財力があれば、この男を秘密裏に処理し、東京湾に沈めることなど造作もなかったはず。しかし! 彼女はそうしなかった! なぜか!」
神宮寺は立ち上がり、両手を大きく広げて熱弁を振るい始めた。
「我々警察の『メンツ』を保つためです! 瑠璃様は自らの手を汚すことなく、この凶悪犯を完全に無力化した上で、我々警察が『確保』という最後の手柄を立てられるように、わざわざ獲物を残しておいてくださったのだ! ああ、なんという……なんという深き慈愛!!」
「……はぁ?」
「応接室で我々に『邪魔をするな』と冷たく言い放ったのも、すべてはこのための布石! 我々を危険から遠ざけつつ、最終的な手柄は警察に譲る……。そのあまりにも重く、自己犠牲に満ちたツンデレの極み!! この神宮寺海斗、瑠璃様の海よりも深い御心に触れ、一生を懸けてお仕えする覚悟が今、真に固まりましたぞォォォッ!!」
神宮寺は完全に己の脳内で構築された『悲劇の聖女・如月瑠璃』の幻影に向かって、その場で深々と土下座をし、むせび泣きを再開した。
「…………」
瀬田は、呆れ果てて口を開けたまま、狂乱する後輩の姿を見下ろしていた。
ツンデレ? 慈愛? 手柄を譲る?
あの、他人の感情に一ミリの興味も持たず、自身の論理だけを絶対の基準とする傲慢な令嬢が、警察のメンツなどというくだらないものを気にするわけがない。
瀬田のベテラン刑事としての経験と、これまでの瑠璃との関わりから導き出される『真実』は、極めてシンプルで身も蓋もないものだった。
(いや……絶対違うな)
瀬田は心の中で、完璧なまでのツッコミを入れた。
(あの小娘のことだ。「犯人のルーツは暴いたし、助手の回収も終わったから、あとの事後処理とか警察の調書作成とかの手続きは面倒くさいから、公僕の犬どもに押し付けてとっとと帰ろう」って、完全に事務作業を放棄して放置しただけだろ……)
瀬田の推理は、神宮寺の妄想とは対極に位置しながらも、恐ろしいほどの精度で瑠璃の真意を百パーセント言い当てていた。
しかし、それを今この場で泣き叫んでいる神宮寺に言ったところで、火に油を注ぐだけだということは目に見えている。
「……はぁ。まあ、いい。どっちにしろ、結果だけ見れば指名手配犯の確保と、人質の無事な救出ってことで、上層部には報告が立つ」
瀬田は重いため息を一つ吐くと、トレンチコートのポケットから無線機を取り出した。
相手が天才令嬢であろうと、狂信的な後輩であろうと、自分はしがない中年のサラリーマン刑事だ。目の前に転がっている仕事を、ただ淡々とこなすだけである。
「こちら瀬田。迷路区画の第七加圧ポンプ場跡地にて、人質拉致事件のホシを確保した。マル被は意識不明の重傷。至急、応援と救急車を手配しろ。……ああ、それと、身元照会も頼む。たぶん、三年越しの特大のヤマが片付くぜ」
無線機に向かって手配を済ませる瀬田の背後で、神宮寺はまだ「瑠璃様バンザイ」と叫びながら床のコンクリートに額を擦り付けている。
カビ臭く、血の匂いのする地下プラントの奥底。
如月瑠璃という天才が通り過ぎた後の暴風雨のような余韻の中で、警察という名の掃除人たちの、ひどく現実的で骨の折れる事後処理が静かに始まろうとしていた。




