第3話『暗渠の断罪』 ~section3:断罪と、帰還の路~
限界まで張り詰めていた安堵の吐息と共に、サクタロウの瞳がゆっくりと閉じられた。
極限の恐怖と激痛を強靭な意志で耐え抜いていた彼の肉体は、主である如月瑠璃の無傷な姿を網膜に焼き付けたことを最後のトリガーとして、急速な自己防衛の昏睡へと移行した。
糸が切れた操り人形のように、コンクリートの床へと力なく崩れ落ちていく少年の体を、黒田が片手で支え、静かに横たえる。
「……完全に意識を失ったか」
瑠璃は、泥と血に塗れた自身の助手を静かに見下ろした。
喧嘩一つしたことのないただの凡人が、大人から一方的な暴力を受け、肋骨にヒビが入り、顔を腫れ上がらせている。しかし、彼の両手には、アルミの破片を握りしめて配管を叩き続けた、痛々しい血の滲みがこびりついていた。
それは自身が助かるためだけではない。主の網に引っかかるための『SOS』を不器用に発信し続けた、泥臭い執念のルーツだ。
瑠璃は真紅のドレスの裾を翻し、意識を失ったサクタロウの傍らに音もなくしゃがみ込んだ。
背後に控える黒田が、わずかに息を呑む気配がした。
瑠璃は、血と泥と埃にまみれたサクタロウの頭に、純白の手袋をはめた右手をそっと乗せる。
「まったく、手のかかる助手じゃ」
地下室の澱んだ空気に溶けるような、ひどく静かな声だった。
瑠璃は、サクタロウの汗で張り付いた前髪を梳くように、一度だけ、ゆっくりとその頭を撫でた。純白のシルクに、彼の血と泥の汚れが黒く滲む。しかし、彼女はそれを微塵も気にする素振りを見せなかった。
その時の彼女の表情を、気絶しているサクタロウは知る由もない。
背後で直立不動の姿勢をとる黒田からも、角度的に見ることはできない。
今まで誰も見たことのないような――絶対零度の氷が春の陽光に溶け出すような、柔らかく、そして果てしなく『優しい目』をしていた。
それは決して、恋情などという甘く陳腐なものではない。
自身の神聖な盤面を命懸けで守り抜き、ただの足手まといのモブから、己の誇り高き『助手』へと至った一人の少年に対する、如月瑠璃という人間が持ち得る最大級の賛辞であり、彼女の奥底に眠る不器用な【情動の顕現】だった。
ほんの数秒。
永遠にも似たその静寂の後、瑠璃はサクタロウの頭から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「黒田」
瑠璃の声は、すでに普段の氷のように冷たく、高慢な響きを取り戻していた。彼女のアメジストの瞳には、先ほどの微かな温もりは完全に消え去り、事象を切り裂く絶対的な支配者の光だけが宿っている。
「そのゴミを縛り上げろ。二度と起き上がれぬよう、徹底的にな」
「……御意」
黒田は主の背中に深く一礼し、サクタロウの傍らを離れた。
彼が向かった先には、圧倒的な暴力を受けて両腕をへし折られ、顔面を陥没させて泡を吹きながら気絶している男――『漆黒の翼』の元幹部、葛城大河が、惨めな肉の塊となって転がっている。
「己の陳腐な妄想で、わしの神聖な盤面を汚した愚か者め」
瑠璃は、ピクピクと痙攣を続ける葛城を冷酷に見下ろし、絶対零度の声で吐き捨てた。
「過去のルーツの副産物に過ぎない分際で、いっぱしの宿敵気取りとは笑止千万。お前のような低俗なバグがわしの視界に入るだけでも、計算リソースの無駄遣いじゃ」
黒田は部屋の隅に散乱していたサクタロウのカバンの残骸の中から、先ほどまで監視カメラを塞ぐために使用されていた『ナイロン編み込み式USBタイプCケーブル』と、古い配電盤から引きちぎられた太い同軸ケーブルの束を拾い上げた。
黒田は葛城の体を容赦なくうつ伏せにひっくり返すと、まずは完全にへし折られている両手首を背中側で交差させ、同軸ケーブルを用いてミリ単位の隙間もなく強固に縛り上げた。折れた骨が皮膚の下で軋み、気絶している葛城が「ぐ、ァ……」と呻き声を漏らすが、黒田の手元が狂うことはない。
続いて、葛城の両足首をUSBケーブルで幾重にも巻きつけ、同様に緊縛する。
「お嬢様、海老反り縛りでよろしいでしょうか」
「構わん。物理的に絶対に抜け出せない構造にしておけ」
瑠璃の許可を得て、黒田は手首を縛ったケーブルと足首を縛ったケーブルを連結し、葛城の背中を弓なりに強烈に反り上がらせた状態で固定した。
四肢を背後で一つにまとめられたこの姿勢は、人間の筋肉の構造上、手足に力を入れるための『支点』を完全に奪い去る。もがけばもがくほど自身の体重が関節を締め上げ、同時に胸郭の拡張を物理的に制限するため、深い呼吸ができなくなる。どんなに屈強な男であろうと、この状態で放置されれば数十分で全身の筋肉が疲労で痙攣し、やがて完全に無力化されるのだ。
「これで、外部からの物理的干渉がない限りこの男が自力で逃走する確率はゼロになりました」
黒田は拘束の強度を確認し、立ち上がって瑠璃に報告した。
「ご苦労。……さて」
瑠璃は懐中時計を取り出し、現在時刻を確認する。
「これ以上、このようなカビ臭い地下空間でわしの肺を汚す必要はない。サクタロウを回収し、直ちに帰還するぞ」
「はっ」
黒田は素早くサクタロウの元へ戻ると、気絶している彼の身体を慎重に抱き起こし、自身の広い背中へと背負い上げた。
一六二センチの少年の体重など、黒田の筋力からすれば羽毛のように軽い。しかし、黒田の表情には僅かな懸念が浮かんでいた。
「お嬢様。朔様は葛城の度重なる物理的打撃により、肋骨の亀裂骨折や内臓への深刻なダメージを負っていることが推測されます。至急、地上へ上がり提携病院へ搬送する必要がありますが……」
黒田は、自分たちが降りてきた『隠しマンホール』へと続く、遥か上方の暗闇を見上げた。
「私一人であれば朔様を抱えたまま、あの十五メートルの垂直タラップを登ることは可能です。しかし、意識のない重傷者を背負った状態で垂直の不安定な足場を移動するのは、朔様の折れた肋骨に不必要な負荷をかけ、状態を悪化させるリスクが高いと考えられます」
黒田の論理的な進言に対し、瑠璃は微かに首を傾げた。
「その通りじゃ。負傷者を運搬するルートとして、あの古い垂直タラップは『物理的に非効率』すぎる。……ゆえに、来た道を戻る必要など最初からない」
「と、仰いますと?」
瑠璃はサクタロウの血で汚れた純白の手袋をはめた手で、この薄暗く広大な地下プラント――『第七加圧ポンプ場』の跡地をゆっくりと指し示した。
「黒田、思考を止めるな。わしが先ほど、迷路区画の地下へと降り立った直後に何と言った? 『この施設に数十トンクラスの旧式油圧プレス機が存在する理由は、施設の稼働当時に部品の加工を施設内で直接行う必要があったからだ』と言ったはずじゃ」
「左様です」
「数十トンの圧力を持つ、巨大な鋳鉄の塊である油圧プレス機。それが今もこの地下に鎮座している。ならば、単純な物理の問題じゃ。その重機は、施設が建設された際、『どこから、どうやって』この地下空間へと搬入された?」
瑠璃の鋭い瞳が、黒田を射抜く。
「一辺がニメートルにも満たない、あの隠しマンホールのハッチからか? 不可能じゃ。いかにプレス機を解体しようとも、ベースとなるメインフレーム単体だけで数トンの質量を持つ。それを垂直の穴からクレーンで降ろし、この地下空間で精密な油圧回路をゼロから組み上げるなど、圧倒的なコストの無駄じゃ」
瑠璃は銀のルーペを取り出し、コンクリートの床へと視線を落とした。
「人間サイズの垂直タラップとは別に、大型の重機や資材、あるいは点検用の特殊車両を地上から直接この地下プラントへと乗り入れさせるための、強固な地盤を持った『大型資材用のスロープ』が、この空間の構造上、絶対に存在しなければならない」
圧倒的な観察眼と、工学的な歴史背景の完全な理解。
「足元を見るのじゃ、黒田。ただのコンクリートの床ではない」
瑠璃の指示に従い、黒田がタクティカルライトで床面を低く照らし出す。
光が作り出す微細な陰影が、コンクリートの表面に隠された『不可視のルーツ』を浮かび上がらせた。
それは、部屋の中央から奥の巨大なボイラーの裏側へ向かって、二本の平行な直線を描くように残された、極めて微細な表面の摩耗痕だった。
「数十年前、キャタピラや鋼鉄製の重コロを用いて、巨大な質量を移動させた際に生じたコンクリートの圧密沈下の痕跡じゃ。その摩擦のベクトルは、間違いなくあの巨大ボイラーの背後……あの行き止まりに見えるコンクリート壁へと向かっておる」
瑠璃は迷いなく、ドレスの裾を翻してボイラーの裏側へと歩みを進めた。黒田もサクタロウを背負ったまま後に続く。
ボイラーの裏側は、何十年分もの真っ黒な煤と埃が分厚く堆積し、一見するとただの強固なコンクリートの擁壁が行き止まりを作っているようにしか見えなかった。
しかし、瑠璃がルーペ越しに観察すると、コンクリートと同色の耐火塗料でカモフラージュされた不自然な縦の継ぎ目と、上部へと続く金属製のガイドレールの残骸が隠されているのが見て取れた。
「幅四メートル、高さ三メートルに及ぶ、工業用の防爆シャッターじゃ。この向こう側に、地上へと続く緩やかな搬入用スロープが眠っておる。開けろ、黒田。動力はとっくに死んでおるが、ロックピンさえ破壊すれば、お前の力とテコの原理で持ち上がるはずじゃ」
「御意」
黒田はサクタロウを一度安全な床に寝かせると、隠しマンホールを開ける際に使用した『小型油圧式ボルトカッター』を取り出し、シャッターの底部にある分厚いロック機構を粉砕した。
さらに、部屋の隅に転がっていた太い鉄パイプを拾い上げ、床とシャッターのわずかな隙間に深くねじ込んだ。
「……フッ!」
鉄パイプを支点とし、黒田の全身の筋肉が爆発的に膨張する。漆黒の特注スーツが軋み、鋼鉄のパイプが極限の負荷によって弓なりにひしゃげる。極限まで鍛え抜かれた肉体と物理法則の完璧な融合。
ギギギギギギッ……!!
バキィッ!
完全に癒着していた鋼鉄のガイドレールが物理的負荷によって引き千切られ、シャッターが腰の高さまで強制的に押し上げられた。
開かれた空間の向こう側から、澱んだ地下の空気とは全く異なる、乾燥した地上の風が勢いよく流れ込んでくる。
瑠璃の推論は、またしても完璧な正解を導き出した。
シャッターの向こうには、幅の広いコンクリート製のスロープが、十五度ほどの緩やかな傾斜を描いて、遠く地上に見える微かな光の出口へと真っ直ぐに続いていたのだ。これならば、サクタロウの骨に余計な負担をかけることなく地上へと帰還することができる。
「見事です、お嬢様」
黒田は再びサクタロウを背負い直し、主の知能に深く敬意を表した。
「当然じゃ。わしの盤面に、不確定要素など一つも存在せん」
瑠璃はスロープの先から吹き込んでくる地上の風を浴びて、真紅と黒のドレスのフリルを美しくなびかせた。
「さて、行くとするかの。サクタロウの心拍がこれ以上低下すれば、病院での処置に余計な時間がかかる」
瑠璃がスロープへと足を踏み出そうとした時、黒田がふと、部屋の奥で気絶している葛城へと視線を向けた。
「お嬢様。あの男は……警察へ匿名の通報を入れる手配を整えましょうか」
如月コンツェルンは真っ当な世界的企業である。いくら悪質な誘拐犯とはいえ、私刑を加え、地下に隠蔽するような非合理的なリスクは冒さない。
しかし、瑠璃は微塵も興味を示さないといった様子で鼻を鳴らした。
「通報など不要じゃ。放置しておけ。……まもなく『騒がしい犬ども』が、垂らされた餌の匂いを嗅ぎつけて勝手にここへやってくる頃合いじゃからな」
瑠璃のアメジストの瞳の奥に、ほんのわずかな冷笑が浮かぶ。
「迷路区画の路地裏で、お前が派手に破壊して放置した隠しマンホールの南京錠。あれを見れば、いくら無能な公的機関の人間でも、この地下へと続くルーツに気づくじゃろう。あの鬱陶しいまでに狂信的な若犬と、それに付き合わされる老犬の二匹にな」
瑠璃は、自分たちの捜査を『ノイズ』として切り捨てた警察が、まんまと自分たちの残した痕跡を追ってここまで到達することすら、最初から計算に組み込んでいたのだ。
「わしは、事象のルーツを解明し、盤面を正すことのみに興味がある。事後処理という名の面倒な事務作業は、給料をもらっている公僕どもに押し付けておけばよい」
「……御意」
黒田は微かに口元を緩め、主の完璧な合理主義に同意した。
「行くぞ。わしの休日の思考時間を、これ以上無駄にすることは許されん」
瑠璃は背後を一瞥することもなく、漆黒のベルベットのドレスを優雅に揺らしながら、地上へと続く緩やかなスロープを登り始めた。
その後ろを、気絶したサクタロウを背負った黒田が静かに付き従う。
完璧な論理の刃によって過去の亡霊を断罪した天才令嬢は、自身の誇り高き助手を無事に奪還し、光の差す新市街の地上へと悠然たる足取りで帰還していくのだった。




