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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『暗渠の断罪』 ~section2:降臨と、絶対の盾~

 致死の高圧電流を孕んだ青白い火花が、網膜を焼き切らんばかりの閃光を放ちながら、僕の顔面へと真っ直ぐに振り下ろされていく。

 恐怖が極限に達した時、人間の脳は情報処理を遅延させ、主観的な時間を引き伸ばすという。スローモーションのように迫るスタンガンの電極を見つめながら、僕はただ、己の無力さを呪って強く目を閉じた。


(……ごめんなさい、如月さん)


 心の中で、主への最後の謝罪を紡ぐ。

 痛みが来る。意識が、真っ白に焼き切れる。


 ――その、絶望の刹那だった。


「黒田」


 開け放たれた重厚な鉄扉の向こう。澱んだ地下の空気を一瞬にして凍結させるような、氷のように冷たく、そして絶対的な支配力を持った凛とした少女の声が響き渡った。


 その声が僕の鼓膜を震わせたのと、ほぼ同時だった。


「――ハッ」


 短い、だが地鳴りのような呼気が響いたかと思うと、僕の顔面に押し当てられていた葛城のブーツの圧力が、唐突に、完全に消滅した。


「が、ぁッ!?」


 頭上から、葛城のくぐもった悲鳴が聞こえた。

 目を開ける。

 そこにあったのは、物理法則を完全に無視したかのような、圧倒的な暴力の顕現だった。


 僕の視神経は、その直前に起きた事象を全く捉え切れていなかった。

 ただ、鉄扉の向こうの暗闇から、漆黒の巨躯がまるで砲弾のような恐るべき速度で室内に突入してきたことだけは理解できた。

 その黒い影――専属ボディーガードの黒田さんは、振り下ろされようとしていた葛城のスタンガンを持つ腕を払いのけることすらなく、ただ一直線に突進し、葛城の胸ぐらを鷲掴みにして凄まじい勢いで後方へと吹き飛ばしていたのだ。


 ドゴォォォンッ!!


 何十キロという質量を持つ葛城の体が、巨大な鋳鉄製のボイラーの側面に激突し、鈍い金属音と共に床へ叩きつけられる。


「ゲホッ、がはッ……! き、貴様は……ッ!?」


 葛城は口から血混じりの唾液を吐き散らしながら、ふらつく足取りで立ち上がった。そして、目の前に立ち塞がる漆黒の巨躯を見上げた瞬間、その血走った両目を見開いて、顔面を恐怖で引き攣らせた。


「お前は……三年前の、如月コンツェルンの私兵……! 黒田ァァッ!!」


 葛城が絶叫する。

 知らないわけがないのだ。三年前に彼が所属していた『漆黒の翼』の完璧なアジトを、たった数分で物理的に粉砕し、彼以外のすべての仲間を一網打尽にした圧倒的な暴力の象徴。葛城にとって、如月瑠璃の知能が死神の宣告であるならば、目の前に立つ黒田という男は、抗うことのできない処刑人そのものだった。


 僕は床に這いつくばったまま、荒い息を吐きながらその光景を見上げていた。

 助かったのか。あの声は。あの巨体は。

 極度の恐怖と打撃による脳のダメージからか、僕の意識は急速に現実から遊離し始めていた。痛覚が遠のき、『僕』という個人の恐怖や痛みのフィルターが外れ、意識が客観的なカメラアイへと切り替わっていくような感覚。

 世界がただ、物理的な事象の連続として極めて高解像度に観測され始める。


 第三者視点へと移行しかけた冷徹な視界が、暗がりの中で対峙する二人の男を克明に映し出した。


「殺す……ここで殺してやるゥッ!!」


 かつてのトラウマと激怒に支配された葛城が、ボイラーの裏から拾い上げた古い鉄パイプを両手で振り被り、黒田さんに向かって突進した。

 三年間、泥水をすすりながら生き延びてきた逃亡犯の、野獣のような生存本能。五十キロを超える大人の男が全体重を乗せて振り下ろす鉄の鈍器は、人間の頭蓋骨など容易に粉砕する威力を持っている。


 しかし、黒田さんは微動だにしない。

 一切の構えも取らず、ただ無造作に右腕を軽く掲げただけだった。


 ガギィィィンッ!!


 甲高い金属の衝突音が檻室に響き渡る。

 葛城が全力で振り下ろした鉄パイプは、黒田さんの分厚い上腕二頭筋を覆う漆黒のスーツに直撃した。しかし、骨が折れる鈍い音など鳴らない。

 逆に、衝撃を吸収しきれなかった鉄パイプの方が、激しい振動と共に葛城の掌を弾き、ひしゃげた音を立てて床に転がり落ちた。


「な……っ!?」


 葛城が、信じられないものを見るように息を呑む。


 ただのスーツではない。

 黒田さんが身に纏っているのは、如月コンツェルンの最先端素材開発部門が彼のためだけに仕立て上げた、特殊防刃・耐衝撃アラミド繊維の特注スーツだ。軍用規格を遥かに凌駕するその繊維は、刃物を弾き、運動エネルギーを面で分散させる。

 だが、それ以上に異常なのは、そのスーツの下に隠された黒田さん自身の肉体だった。極限まで鍛え抜かれた筋繊維は、打撃の瞬間、自律的に収縮して鋼鉄の鎧と化す。素人が振り回す鉄パイプ程度の物理的干渉など、彼にとってはそよ風に等しい。


「学習能力のないネズミだ。三年前から、何も成長していない」


 黒田さんの、底冷えのするような冷酷な声が響いた。そこに、普段如月さんや僕に向けるような丁寧な敬語は一切含まれていない。圧倒的な強者が、眼下の羽虫を見下ろすような声音だった。


「化け物がァァッ!!」


 葛城は混乱の極みに達しながら、腰のベルトに隠し持っていたサバイバルナイフを引き抜き、狂乱のままに黒田さんの腹部へ向けて突き出した。


 しかし、その切っ先がスーツの布地に触れるよりも早く、黒田さんの左手が蛇のような滑らかさで動き、葛城のナイフを持つ右手首を正確に捕捉した。


 メキッ。


「アッ、ギャアアアアアアアッ!?」


 黒田さんが左手の握力をほんのわずかに解放しただけで、葛城の右手首の骨が悲鳴を上げ、手根骨が砕ける無慈悲な音が響いた。指の力を完全に失った葛城の手から、ナイフが力なく零れ落ちる。


 それは、ただの凡庸な高校生に対して圧倒的な暴力を振るい、尊厳を蹂躙した葛城に対する、黒田さんなりの『徹底的な罰』だった。

 ただ気絶させるのは容易い。しかし、主の盤面を汚したこの愚鈍なネズミには、己がどれほど無力でちっぽけな存在であるかを、絶対的な力の差をもって骨の髄まで叩き込む必要があった。


 葛城は激痛に顔を歪めながら、折れていない左腕で黒田さんの顔面めがけて渾身のフックを放った。


「死ね! 死ね! 死ねェッ!」


 ドスッ!

 拳が黒田さんの頬に直撃する。

 だが、黒田さんの首は一ミリたりとも動かなかった。まるで巨大な岩壁を殴りつけたかのように、殴った葛城自身の左拳の拳頭が砕け、皮膚が破れて血が飛沫を上げる。

 蹴りを入れる。黒田さんの太腿に当たった葛城の脛が軋む。

 頭突きを見舞う。黒田さんの胸板に激突し、葛城自身の脳が激しく揺らされて視界がブレる。


 無力。完全なる、絶望的な無力。

 葛城が持つすべての暴力のリソースは、黒田さんという巨大な城壁の前に、ことごとく弾き返され、無惨に砕け散っていく。


「下劣なゴミが。お嬢様の御前をこれ以上汚すな」


 黒田さんの右手が、逃げる獲物を捕らえる猛禽の爪のように動き、葛城の顔面――顎から鼻筋にかけてを、巨大な掌で鷲掴みにした。


「ガ、アッ……!?」


 次の瞬間、黒田さんはその右腕一本の力だけで、五十キロを超える成人男性の肉体を、軽々と宙へと持ち上げた。

 人間の首の頸椎は、自重を支えるようにはできていない。宙吊りにされた葛城は、顔面を潰される激痛と、首の骨が引き千切られそうになる恐怖に両足を虚しくバタつかせ、喉の奥からカエルが潰れたような悲鳴を漏らした。


「が、はッ……、放せ、放せェッ……!!」


 黒田さんは葛城を宙に浮かせたまま、冷酷な目でその無様な足掻きを見つめている。

 恐怖とパニックに完全に脳を支配された葛城の左手に握ったままの、最後の切り札――大型のスタンガンを狂ったようにスイッチを入れて黒田さんに向けた。


「これでも、喰らえェェェェッ!!」


 葛城は絶叫と共に、青白い火花を散らすスタンガンの電極を、自身の体を吊り上げている黒田さんの胸板――スーツのネクタイの結び目付近に力任せに押し当て、スイッチを完全に押し込んだ。


 バチバチバチバチバチッ!!


 地下室の暗がりを、青白いプラズマの閃光が暴力的に照らし出す。

 スタンガンから放たれる数十万ボルトの高圧電流。それは、人間の筋肉を強制的に硬直させ、中枢神経の伝達回路を瞬時に焼き切る致死的なエネルギーの奔流である。

 いかに分厚い服を着ていようとも、至近距離から直接押し当てられれば、電流は布地の隙間やわずかな湿気を通じて肉体へと侵入し、心室細動を引き起こして相手を昏倒させるはずだ。


 放電の鋭い音が檻室に響き渡り、空気がオゾンの臭いで焦げ付く。

 葛城は必死にスタンガンを押し付け続けた。これで相手が倒れれば、拘束から逃れられる。

 しかし。


「…………」


 数秒間の連続放電。

 火花が散り、電流が黒田さんの肉体を駆け抜けているはずのその瞬間。

 黒田さんの表情は、文字通り『一ミリ』も動いていなかった。


 彼の呼吸は乱れることなく、葛城を片手で吊り上げている右腕の筋肉は、わずかな痙攣すら起こしていない。

 まるで、体に微弱な静電気でも当てられているかのように、無感動に葛城を見下ろしているだけだった。


「ば、馬鹿な……!? なぜ、倒れないッ!?」


 葛城は信じられない現象を前に、発狂寸前の悲鳴を上げた。


 種明かしは、極めて論理的である。

 第一の要因は、黒田さんの纏う特注スーツだ。高密度アラミド繊維は物理的な防刃性だけでなく、極めて高い電気絶縁性を備えている。電流の大部分はスーツの表面で弾かれ、内部へ到達する電圧を大幅に減衰させている。


 しかし、第二の要因。これが最も異常であった。

 スーツの隙間から僅かに侵入した高圧電流。常人であればそれだけでも十分に神経を遮断され気絶するレベルの電気的ショックを、黒田さんは「己の意思」で完全にねじ伏せていたのだ。

 彼の肉体を構成する極限まで鍛え上げられた筋繊維は、外部からの電気刺激による強制的な収縮信号を、彼自身の脳から発せられる『動くな』という圧倒的で強靭な精神的コマンドによって相殺し、完全にコントロール下に置いているのである。


 科学と、それを超越する狂気的なまでの鍛錬。

 如月瑠璃の絶対の盾である彼は、物理的、そして生化学的な限界すらも主への忠誠という名の気合いで凌駕する、文字通りの『化け物』であった。


「……無駄だ」


 黒田さんの極めて低い声が響いた。

 次の瞬間、黒田さんの左手が滑るようにして葛城の左手首――スタンガンを握りしめているその腕を的確に捉えた。


 メキボキッ!!


「ギャアアアアアアアアッ!?」


 葛城の左腕が、ありえない方向へとねじ曲げられた。手首の骨が完全に砕け、握力を失った手から大型のスタンガンが零れ落ちる。

 黒田さんは落ちていくスタンガンを空中でキャッチすると、そのまま握り潰すようにして硬質なプラスチックのグリップを粉砕し、ただのゴミとして床に投げ捨てた。


 両腕を破壊され、顔面を鷲掴みにされたまま宙吊りにされた葛城は、もはや抵抗する気力すら失い、泡を吹いて痙攣するだけの惨めな肉の塊に成り下がっていた。


「這いつくばれ」


 黒田さんの左手が、手刀の形を作って鋭く引かれた。

 電光石火のスピードで、葛城の頸動脈へと寸分の狂いもない正確無比な打撃が叩き込まれる。


 ドスッ。


 くぐもった衝撃音が響いた直後、葛城の目は白目を向き、手足の痙攣がピタリと止まった。脳への血流が瞬間的に遮断され、意識が強制的に暗転したのだ。

 黒田さんは完全に気絶した葛城の体を、まるで汚物でも扱うかのように、無造作にコンクリートの床へと投げ捨てた。

 ドサリ、という重い音がして、圧倒的な暴力の事象は完全に終結した。


 静寂。

 嵐が過ぎ去り、地下の檻室には再び澱んだ無音の世界が戻ってくる。


 床に這いつくばったまま、その一部始終を朦朧とする意識の中で見つめていた僕。

 視界の端で、黒田さんがゆっくりと鉄扉の方へ向き直り、深く、そして恭しく一礼する姿が映った。


 コツン、コツン、コツン。


 硬質な靴音が、静寂の檻室に響き渡る。

 開け放たれた鉄扉の向こう、薄暗い地下通路の蛍光灯の光を背にして、一つの人影がゆっくりと室内へと足を踏み入れてきた。


 漆黒のベルベットと、幾重にも折り重なった真紅のシルクフリル。

 その重厚でエレガントなゴシックドレスは、この埃まみれで血生臭い地下の空間に全くそぐわない、圧倒的なまでの『美』と『傲慢さ』を放っている。

 彼女は、自身の完璧な装いにコンクリートの塵一つ跳ねさせることなく、優雅な足取りで僕の元へと歩み寄ってきた。


「……きさ、らぎ……さん」


 僕のひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。

 視界が暗転しかけている僕の目に、銀の装飾が施された懐中時計と、純白の手袋をはめた小さな手が映る。

 見上げる先には、一切の感情を排した、氷のように冷たく美しいアメジストの瞳があった。

 彼女は僕の凄惨な状態――血に汚れ、ボロボロになった制服と、腫れ上がった顔面を見下ろしても、悲鳴を上げることも、同情の言葉をかけることもない。


 ただ、事実だけを極めて正確に認識し、評価を下した。


「……よく耐えたな、サクタロウ。お前のその泥臭い生存のルーツ、確かにわしが拾い上げたぞ」


 その声は、相変わらず冷たく、高慢だった。

 しかし、その言葉を聞いた瞬間。


「あ……ぅ……」


 僕の目から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


 痛かったからじゃない。

 殺されかけて、怖かったからでもない。

 ただ……絶対に他人に共感などしない、孤高で冷徹な僕の主が。僕が必死に叩き続けたあの拙いSOSのノイズを見捨てず、本当に、僕なんかのためにこの地下の底まで迎えに来てくれたことが、たまらなく嬉しかったのだ。


「よかった……」


 自分が一人ではなかったという絶対的な安心感。

 張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、極限状態を維持していた僕の脳が、急速にシャットダウンの手順を開始する。


「……あとは、お任せ、しま……す」


 僕は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、最後にかすかな微笑みを浮かべようと努力し、そのままゆっくりと瞳を閉じた。

 真紅と黒のドレスの鮮やかな残像を最後に、僕の意識は、深く、温かい暗闇の底へと完全に沈んでいった。



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