表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/21

第3話『暗渠の断罪』 ~section1:暴力と、鉄扉の開錠~

 トントン、トン。

 ツー、ツー、ツー。

 トントン、トン。


 薄暗く澱んだ檻室の中に、無機質な打撃音だけが延々と反響し続けていた。

 巨大なダクタイル鋳鉄管に向かって、僕は両手に握りしめたモバイルバッテリーのアルミ外装と、ズボンの金属バックルを交互に打ち付けている。


「……っ、はぁっ、はぁっ」


 何十回、いや、何百回叩き続けただろうか。

 極度の空腹と深刻な脱水症状に陥っている僕の肉体は、とっくに限界の赤信号を点滅させていた。

 頭の芯は泥のように重く、視界の端がチカチカと明滅している。鉄管を打ち鳴らす両手は完全に感覚が麻痺し、潰れた豆から流れ出した生暖かい血がアルミの外装パーツをヌルヌルと滑らせた。

 痛い。ひどく痛い。金属を叩くたびに、衝撃が手の骨から肩の関節へとビリビリと逆流し、筋肉の繊維を一本ずつ引きちぎっていくような錯覚に襲われる。


 カン、カン、カン。


 それでも、僕は腕を止めるわけにはいかなかった。

 この音が、僕の生存を外部へ証明する唯一のルーツだ。分厚いコンクリートと鉄扉に閉ざされた完全な密室で、電波すら届かないこの場所から、如月瑠璃という天才令嬢の『論理の網』へ向けて発信できる、たった一つのノイズなのだから。


「如月さん……気づいてくれ……!」


 掠れた声で祈るように呟く。

 彼女なら絶対に気づくはずだ。ありえない場所にあるありえないモノのルーツを、狂気的なまでの解像度で拾い上げるあの『物理的観察眼』が、僕のこの泥臭い足掻きを見逃すはずがない。


 しかし、僕の体力よりも先に、その時はやってきた。


 ガキンッ!!


 不意に、背後から凄まじい金属音が鳴り響き、僕はビクッと肩を震わせて鉄管を叩く手を止めた。

 音の発生源は、僕と外界を隔てている唯一の出入り口――錆びついた重厚な鉄扉の外側だ。


 ガチャガチャガチャッ!

 ギゴゴゴゴゴ……ッ!


 南京錠が乱暴に外され、扉を物理的に封鎖していた極太の鋼鉄製のバーが引き抜かれる音が、腹の底を直接殴りつけるような重低音となって檻室に響き渡った。


「来た……」


 僕の口から、絶望の吐息が漏れた。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほどの勢いで跳ね上がり、全身の毛穴から一気に冷や汗が噴き出す。

 先ほど、スピーカー越しに『肉片に変えてやる』と喚き散らしていた男が、有言実行の暴力となってついにこの密室へと乗り込んできたのだ。


 ギィィィィィ……ッ。


 錆びた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、重厚な鉄扉がゆっくりと外側に向かって開かれた。

 隙間から、地下通路の無機質な白い蛍光灯の光が、鋭い刃のように檻室の暗がりを切り裂いて差し込んでくる。

 その逆光の中に、大柄な男のシルエットが浮かび上がった。


「……よくも、よくもコケにしてくれたな、クソガキがァ!!」


 怒気を含んだ、しゃがれた怒鳴り声。

『漆黒の翼』の元幹部、葛城大河。三年間、月見坂市の地下インフラに潜伏し、泥水をすするような惨めな逃亡生活を送ってきた過去の亡霊。

 男の顔は、まともな精神状態ではないことを如実に物語っていた。何日も風呂に入っていないであろうベタついた長髪、落ち窪んだ頬、そして何より、血走って狂気的なまでにひん剥かれた両目が、僕を明確な『殺意』をもって睨みつけている。


 そして、葛城の右手には、黒く無骨なグリップを持つ大型のスタンガンが握られていた。


 バチバチバチッ!!


 葛城がスイッチを押し込むと、電極の間に青白いプラズマの火花が弾け、周囲の空気を焼き焦がす鋭いオゾン臭が檻室に充満した。数十万ボルトという致死的な高圧電流の視覚的、聴覚的な暴力。


「ヒッ……!」


 僕は反射的に数歩後ずさり、巨大なボイラーの冷たい鉄板に背中を打ち付けた。

 震えが止まらない。膝の力が抜けそうになる。

 相手は、数億円規模の被害を出した窃盗グループの元幹部だ。暴力のプロではないかもしれないが、修羅場を潜り抜けてきた大人の男であり、圧倒的な体格差と凶悪な武器の差がある。喧嘩すらしたことがない十六歳の高校生が、どうにかできる相手ではない。


『今すぐそこへ行って、肉片に変えてやる』


 先ほどの葛城の言葉が脳裏に蘇る。

 逃げ場はない。扉は葛城が塞いでいる。

 殺される。本当に、ここで殺される。


「どうした、スピーカー越しに喚いていた威勢の良さは! 私はただの忘れ去られたエラーデータだったよなァ!?」


 葛城は青白い火花を散らしながら、ニタリと醜悪な笑みを浮かべて一歩、また一歩と距離を詰めてくる。


 恐怖で声が出ない。

 だが、僕の脳裏に、ふとあの純白の手袋と、冷徹なアメジストの瞳がよぎった。


(……僕は、如月瑠璃の助手だ)


 ただ震えて、泣き喚いて、無様に蹂躙されるためだけに、ここまで必死にルーツを発信し続けてきたわけじゃない。

 僕がここで命乞いをして媚びへつらえば、それは僕の主である彼女の誇りまで泥を塗ることになる。


「……来るなッ!!」


 僕は恐怖で引き攣る喉を無理やり開いて絶叫し、血にまみれた右手に握っていたモバイルバッテリーのアルミ外装を、逆手持ちのナイフのように構えた。

 そのまま、突進する。

 自暴自棄のバンザイ突撃ではない。葛城の右手に握られたスタンガン、その絶対的なリーチの内側に潜り込み、相手の顔面か首筋へ、硬質なアルミの角を叩きつけるための一撃。

 極限の恐怖とアドレナリンに背中を押されて繰り出した、命懸けの反撃だった。


「うおおおおッ!!」


 僕の放ったアルミ外装が、空気を裂いて葛城の顎めがけて振り抜かれる。

 当たれ。どうか当たってくれ。


「遅えよ、ガキが」


 だが、僕の祈りは、圧倒的な暴力の経験値の前にいとも容易く砕け散った。

 葛城は全く焦る様子もなく、ほんのわずかに首を逸らして僕の渾身の一撃を紙一重でかわした。そして、空を切って体勢を崩した僕の右腕を、空いている左手でガシリと乱暴に掴み取った。


「あぐっ……!?」


 手首の関節が軋む。万力のように締め上げられ、指の力が抜け、唯一の武器であったアルミ外装がカランと虚しい音を立ててコンクリートの床に転がった。


「こんなオモチャで私に勝てると思ったか? ええ!?」


 葛城は僕の右腕を掴んだまま、自身の体を半回転させ、その遠心力を利用して僕の腹部へ向かって重いタクティカルブーツを全力で叩き込んだ。


 ドゴォッ!!


「かはッ……!!」


 鈍い衝撃音が檻室に響く。

 内臓が破裂したかと思うほどの激痛。肺の中の空気が一瞬にして強制的に絞り出され、視界が真っ白に明滅した。

 口から胃液と涎が飛び散る。僕は掴まれていた右腕を振り解かれるようにして、コンクリートの床に崩れ落ちた。


 ――その瞬間。

 僕の肉体は、頭で状況を理解するよりも早く、完全に『自動的な防衛行動』をとっていた。


 膝を胸に引き寄せ、両腕で頭と首の後ろを固く覆い隠すようにして、ダンゴムシのようにうずくまる。

 息の仕方がわからなくなる。過呼吸のように喉がヒューヒューと鳴り、全身の筋肉が硬直してガタガタと痙攣し始めた。


 それは、かつての記憶だ。

 逃げ場のない教室の隅で、あるいは誰も通らない夕暮れの空き地で。自分よりも大きな力を持つ者たちから、抗うことのできない理不尽な暴力の雨を浴び続けた、あの頃の『防衛本能』。

 心はもう、あの暗い時代をとうに乗り越えたはずだった。如月さんと出会い、前を向いて歩けるようになっていたはずだった。

 しかし、肉体と細胞の奥底に深く刻み込まれた『圧倒的な暴力に対する無力感』は、消えていなかった。強烈な物理的打撃をトリガーにして、脳の回路が強制的にシャットダウンされ、ただ痛みが通り過ぎるのを待つだけの『肉の塊』になり下がる。


 頭では、立ち上がって抗わなければ殺されるとわかっているのに。

 身体が、動かない。あの冷たい教室の床と同じように、ただ震えることしかできない。


「どうした!? 立てよ! あの女の恋人なんだろう!? なあ!」


 葛城の怒号と共に、今度は丸まった僕の背中へ、強烈な蹴りが容赦なく振り下ろされた。


 ゴスッ!


「ぎぃっ……!」


 ゴスッ! ガッ!


「あ、ぁ……っ」


 背骨が軋み、蹴られるたびに内臓が揺らされる。

 大人の男の、しかも憎悪にまみれた本気の暴力。それは、ひたすらに泥臭く、重く、僕の肉体と尊厳を一方的に破壊していく圧倒的な恐怖だった。


「あの女は私からすべてを奪った! 組織も、金も、人生も! 三年間、私がこのネズミのような地下道でどんな思いで泥水をすすってきたか……お前たちのような温室育ちのガキにわかるはずがない!! エラーデータだと!? ふざけるな!!」


 葛城は狂乱したように喚き散らしながら、床に這いつくばる僕の横腹を何度も何度も蹴り上げた。

 痛い。痛い。

 声の出し方も忘れてしまった。涙と鼻水が顔面をぐちゃぐちゃに濡らし、僕はただ両腕で頭を庇い、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。惨めだった。自分がちっとも変われていないことが、悔しくて涙が止まらなかった。


「ハァ……ハァ……。もう終わりか? スピーカー越しに喚いていた威勢はどこへ行った、この臆病者が」


 数度の激しい蹴りの後、葛城はようやく足を止めた。

 全身が鈍痛の塊になり、少し動かすだけで吐き気がこみ上げてくる。口の中には、切れた唇から流れ出した血の鉄錆びた味が広がっていた。


「……う、あ……」


 僕は床に丸まったまま、霞む視界で、ゆっくりと近づいてくる葛城のブーツの先端を見つめていた。


 ガシッ。


 乱暴に、僕の髪の毛が掴まれた。

 そのまま無理やり頭を持ち上げられ、首の関節が悲鳴を上げる。

 葛城の血走った醜悪な顔が、僕の目の前数センチの距離まで近づいてきた。男の息から、腐ったような胃液とタバコの臭いが漂ってくる。


「いい顔だ。絶望に染まった、最高に無様でいい顔だぞ」


 葛城は僕の髪を掴んだまま、ニィッと口角を歪めて嗤った。


「そうだ、いいことを思いついた。今からお前が苦しんで死ぬ動画を撮影し、メモリに焼き付けて……あの女の屋敷のポストにまた放り込んでやろう」


「……な、に……?」


 喉の奥から、空気が漏れるような音しか出ない。


 葛城は僕の頭を掴んでいた手を離し、代わりにその汚れたタクティカルブーツの裏を、僕の右の頬へと押し当てた。

 ギリ、と体重がかけられ、僕の顔面がカビ臭いコンクリートの床に強烈に擦り付けられる。頬の皮膚が破れ、砂利が肉に食い込む鋭い痛みが走る。


「あの女は、自身の知能を鼻にかけた傲慢な小娘だ。私の顔すら見ずに社会のゴミとして抹殺した! だからこそ、自身の大切な恋人が、ただの暴力という最も原始的な力によって無様に壊されていく様を見せてやるのだ」


 葛城の右手に握られた大型のスタンガンが、僕の顔のすぐ横で、再び不気味な青白い放電を開始した。

 バチバチバチバチッ!!


「高圧電流で筋肉が焼き切れ、泡を吹いて痙攣しながら死んでいくお前の姿を見れば、あの氷のような女も少しは人間らしい絶望の涙を流すだろうよ!」


 狂ったように嗤う葛城。僕の顔面に押し当てられたブーツの圧力が増し、顎の骨がミシミシと嫌な音を立てる。

 見上げる視界の先で、青白い死の光を放つスタンガンの電極が、ゆっくりと、しかし確実な殺意を持って、僕の眼球へと振り下ろされようとしていた。


 ダメだ。

 体が、動かない。指一本すら、抵抗するために持ち上がらない。


(……ごめんなさい、如月さん)


 絶体絶命の死の淵で。

 僕は、あの孤高の天才令嬢に、最後まで胸を張れる立派な助手でいられなかったこと、そして、ただの足手まといのまま死んでいくことを心の中で謝罪し、強く目を閉じた。


 振り下ろされる電極。

 迫り来る致死の高圧電流。


 ――その、絶望の刹那だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ