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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『黒翼の亡霊』 ~section5:符合と、狩りの始まり~

 太陽の光が完全に遮断された、新市街南端の迷路区画の最奥。

 分厚いコンクリートの擁壁の影に隠されるようにして存在していた、巨大な正方形の隠しマンホール。その表面を覆う赤茶けた錆は、この都市がスマートシティとして生まれ変わる遥か以前から、ここで静かに時を止めていたことを物語っていた。


 瑠璃の冷徹な命令を受け、漆黒の上質なスーツに身を包んだ専属ボディーガードの黒田が懐から取り出した特殊部隊用の小型油圧式ボルトカッターを、ハッチを厳重に封鎖している極太のチタン合金製チェーンと、工業用の巨大な南京錠のU字型の金属部分へと噛ませた。


「切断します」


 黒田が油圧シリンダーのレバーに静かに、しかし圧倒的な腕力で体重をかける。

 ギリ、ギリギリッ……!

 静寂の路地裏に、金属が極限まで圧縮され、分子構造が悲鳴を上げる凄まじい軋み音が響き渡る。通常の手動クリッパーでは絶対に歯が立たない焼入れ鋼のツルが、黒田の怪力と油圧の相乗効果によって飴玉のように歪んでいく。


 パァンッ!!


 乾いた破裂音と共に、数トンの破断強度を誇る南京錠のツルが真っ二つにへし折れた。

 黒田は切断された錠とチェーンを無造作に石畳の上へ放り投げると、ハッチの錆びついた取っ手に両手をかけ、全身の筋肉を隆起させた。

 ギゴゴゴゴ……ッ。

 数十年間、開けられることのなかった重厚な鋳鉄製のハッチが、耳障りな摩擦音を立てて持ち上げられ、横へとスライドしていく。


 ぽっかりと口を開けた正方形の暗闇から、冷たく重い空気が路地裏へと吐き出された。

 それは、都市の地表で徹底的に管理されている無菌状態の空気とは全く異なる。酸化した鉄の匂い、日光を浴びることなく繁殖したカビの胞子、そして地下深くを流れる水脈の湿り気が混ざり合った、死んだ時代の残り香だった。


「お嬢様。内部は完全に光が届かない地下空間です。空気に有毒ガスの反応はありませんが、足場は極めて不安定かと存じます。……まずは私が」


 黒田はそう言うと、タクティカルライトを左手に構え、ハッチの縁から続く鉄製のタラップへと身を躍らせた。

 彼はタラップを猿のような敏捷さで降り、数秒後にはおよそ十五メートル下の底へと到達した。


 下から黒田が放つ強力なライトの光が、垂直に真上の瑠璃を照らし出す。

 瑠璃はマンホールの縁に立ち、純白の手袋をはめた手でドレスの裾をわずかに整えた。幾重にも折り重なったフリルとベルベットの重厚なドレス姿で、錆びついたタラップを這い降りるなどという行為は、美学に反するだけでなく、物理的にも極めて非効率である。


 瑠璃は躊躇なく、その暗闇の深淵に向かって、空へ身を投じるようにしなやかに跳躍した。


 真紅と黒のドレスが、落下重力によって大輪の花のように大きく広がる。薄暗い地下空間に、色彩の奔流が舞い降りるような、息を呑むほどにスマートで、そして傲慢な降下だった。


 下で待ち構えていた黒田は、ライトを腰のホルスターへ瞬時に差し戻すと、両腕を広げて上空から落ちてくる主を受け止めた。


 フワリ、と。


 黒田は瑠璃の体重と落下の衝撃を、自身の強靭な肉体と膝のクッション、そして柔術の理を用いて完全に吸収した。

 彼女のドレスのフリル一つ乱すことなく、まるでお姫様抱っこの形で、瑠璃を暗闇の底へと優雅にキャッチしたのだ。


 黒田は主を静かに地面へと降ろした。

 瑠璃の黒革の編み上げブーツが、地下プラントの冷たいコンクリートをコツンと鳴らす。


「……ほう。思った以上に、広大な『(はらわた)』じゃな」


 瑠璃は、地下空間に降り立った瞬間に展開された光景を前に、アメジストの瞳を細めた。

 そこは、単なる下水道や配管の点検通路などという狭小なものではなかった。

 横幅は優に十メートルを超え、天井はアーチ状に高くくり抜かれている。壁面は重厚なコンクリートで固められ、空間の中央には、大人が数人がかりでようやく抱えきれるほどの巨大な暗緑色の鋳鉄管が、まるで地下世界を貫く巨大な大蛇のように何本も這い回っていた。

 足元には、鉄格子で覆われた深い側溝があり、その底を微かな水流が音もなく流れている。


「お嬢様。応接室でご報告したデータの件ですが」


 黒田が再びライトを手に取り、周囲を警戒しながら、低く通る声で口を開いた。


「コンツェルンの情報網を用いてリストアップした、『新市街南端の地下と直結し、かつ現在も旧式の大型油圧プレス機が撤去されずに残っている廃施設』。該当する座標は、この迷路区画の地下構造と完全に一致しております」


「わかっておる。すでにわしの脳内でも、最後のパズルが組み上がりつつあるところじゃ」


 瑠璃は純白の手袋で、傍らにそびえ立つ巨大な配管の表面を静かになぞった。

 指先に伝わる、冷たくザラついた鋳肌の感触。そして、配管の接続部分を固定している、無数の巨大な六角ボルトと円盤状の継手(フランジ)の構造。


「サクタロウのタブレットをV字にへし折ったのは、間違いなく数十トンの圧力を持つ古い油圧式プレスブレーキじゃった。なぜ、そのような重機が、ただの地下インフラの中に放置されているのか。……答えは、この配管の規格にある」


 瑠璃はルーペを取り出し、配管の側面に浮き彫りになっている古いロット番号とメーカーの刻印を読み取った。


「これはダクタイル鋳鉄管。それも、強烈な水圧に耐えるための特厚管じゃ。この空間はただの通路ではない。高低差のある旧市街へと上水を一気に押し上げるための、巨大なポンプの『脈動』を支えるための大動脈じゃ」


 瑠璃の脳内に、月見坂市がスマートシティ化される遥か以前の、昭和から平成初期にかけての巨大な地下インフラの設計図が、三次元のホログラムとなって展開されていく。

 記憶領域の深淵から、合致する施設の名称を即座に引きずり出す。


「この地下水脈の構造、配管の配置、そして地上の特異点。……すべてのルーツは一つの座標に帰結する。ここは、かつて旧市街の心臓部へ水を送り続けていた『第七加圧ポンプ場』の跡地じゃ」


「第七加圧ポンプ場……」


 黒田が短く復唱する。


「そうじゃ。そして、なぜここに巨大な油圧プレス機が残されているか。それは、この施設が稼働していた当時、巨大なポンプの羽根車(ブレード)の修繕や、特注のフランジ金具の曲げ加工を、外部の工場ではなく『この地下施設内』で直接行う必要があったからじゃ。施設が閉鎖され、スマートシティのインフラ網から切り離された際、数百キロから数トンに及ぶ巨大なプレス機は、地上へ搬出するコストが見合わず、この地下プラントにそのまま埋め殺しにされた」


 サクタロウが拉致された迷路区画の石畳。

 タクティカルブーツの合成ゴムが削れ落ちた不可視の足跡。

 そして、古い油圧プレス機によって完全に破壊されたタブレット端末。


 点と点が、寸分の狂いもない完全な直線となって、この『第七加圧ポンプ場』という一つの座標を串刺しにした。

 瑠璃の『物理的観察眼』が、犯人の潜伏先の全貌を完全に特定した瞬間だった。


「なるほど、アジトの場所は確定しました。……しかし、お嬢様。なぜ犯人は、この監視網から完全に切り離された忘れ去られた施設を、自身の潜伏先として知っていたのでしょうか?」


 黒田の論理的な疑問に対し、瑠璃は微かに冷笑を浮かべた。


「簡単なことじゃ、黒田。犯人は、ただの通りすがりの誘拐犯ではない。わしに個人的な怨嗟を抱き、あろうことかサクタロウを『わしの恋人』などと誤認するような、情動のバグにまみれた過去の亡霊じゃ」


 瑠璃はタクティカルライトの光の先、地下道のさらに奥深くへと続く暗闇を見据えた。


「わしのルーツ解明によって、過去に地獄へ落ちた人間など星の数ほどおる。その顔や名前など一々記憶しておらんが……この『地下の旧インフラを逃走経路として熟知している』という事実が、犯人の正体を極めて限定的なものに絞り込む」


 瑠璃の脳内データベースが、一つの過去の事象を検索し、ヒットさせる。


「三年前じゃ。わしが旧市街のドブ川に落ちていた『半分に破られた(ふだ)』と『破壊されたガラケー』のルーツを辿り、お前たちコンツェルンの私兵を動かして一網打尽にした、あの不愉快な窃盗グループを覚えておるか」


「……『漆黒の翼』ですね。もちろんです」


 黒田の目に、当時の記憶が蘇ったような鋭い光が宿る。


「あの時、我々がアジトを急襲し、幹部から末端に至るまで完全に制圧しました。……しかし、たった一人だけ。アジトの隠し扉から地下の下水道網へ逃れ、そのまま行方をくらませた幹部がおりました。確か、名前は……葛城、大河」


「その葛城とやらが、今回の犯人じゃ」


 瑠璃は断言した。


「奴はあの時、警察や我々の追跡を逃れるため、月見坂市の旧地下インフラの構造を必死で調べ上げ、この第七加圧ポンプ場の跡地へと逃げ込んだ。そしてそのまま、スマートシティの監視の目が絶対に届かないこの場所を、泥水をすするような逃亡生活の新たなアジトとして利用し続けてきたのじゃ」


 完璧な推論だった。

 物理的な痕跡、施設の歴史、そして犯人の行動心理と過去の事象。

 すべてが一切の矛盾なく組み上がり、強固な論理の城壁として完成した。


「監視カメラの死角でサクタロウを背後から襲撃し、この地下プラントへと引きずり込んだ。自身の惨めな末路をわしのせいだと逆恨みし、わしの所有物を奪うことで精神的苦痛を与えようという、極めて低俗で下劣な三流のシナリオじゃ。……本当に、反吐が出るほどくだらん」


 瑠璃のアメジストの瞳が、絶対零度の怒りに凍りつく。

 自分の圧倒的な才能の前に散っていった有象無象の小悪党が、三年の時を経て、己の神聖な盤面を汚すために再び這い出てきたのだ。

 しかも、あろうことか、サクタロウを『恋人』などという非論理的な言葉で括り、その命を天秤にかけて瑠璃を支配しようとしている。


「黒田」


「はっ」


「ここから先は、奴のテリトリーじゃ。トラップや監視カメラが仕掛けられている可能性が高い。……だが、一切の躊躇はいらん。最短距離で奴の元へ向かい、その傲慢な首根っこを論理の刃で切り落としてやるのじゃ」


 瑠璃が真紅のフリルを揺らし、暗闇へと足を踏みだそうとした、まさにその時だった。


『……カン……カン……カン……』


 瑠璃の歩みが、ピタリと止まった。


「お嬢様?」


「静かにしろ」


 瑠璃は目を閉じ、再び自身の脈拍を限界まで引き下げて、聴覚の感度を極限まで引き上げた。

 広大な地下空間。その空気を伝わってくる音ではない。

 彼女のすぐ横を通っている、かつて都市の心臓部へと水を送っていた、あの巨大なダクタイル鋳鉄管。その分厚い金属の表面を伝わって、極めて微弱な、しかし明確な『固体振動』が響いてきている。


 瑠璃は純白の手袋をはめた右手を、静かにその巨大な配管の表面へと押し当てた。

 金属を通じて、物理的な振動が直接彼女の手のひらへと伝わってくる。


『……トントン、トン』

『……ツー、ツー、ツー』

『……トントン、トン』


「モールス信号……『SOS』じゃな」


 瑠璃の薄い唇から、微かな、本当に微かな吐息が漏れた。

 それは、水滴が落ちるような自然界のランダムなノイズではない。明確な意志と、正確なリズムを持った、人為的な打撃音。


 犯人の葛城が、自分の居場所を知らせるために音を鳴らすわけがない。

 この絶望的な暗闇の底。分厚いコンクリートと鉄の扉に閉ざされた檻室の中から、必死に金属片を叩き、外部へ向けて己の『生存のルーツ』を発信し続けている愚か者がいるのだ。


「……ふん」


 瑠璃の顔に、この日初めて、傲岸不遜で冷酷な『女王の笑み』が浮かんだ。


「凡人にしては、よくやったと褒めてやるべきかの」


 他者の感情に一切の共感を持たない瑠璃の心に、サクタロウの恐怖や痛みを推し量る機能はない。彼がどれほどの絶望の中でその配管を叩いているのか、血みどろになった手のひらの熱も、彼女には届かない。

 しかし。

 彼女の所有物が、ただの無力な人質として泣き喚くのではなく、自らの頭脳と持てる知識のすべてを振り絞って、この圧倒的な状況に『反撃』を試みているという事実。

 それは、瑠璃の完璧な盤面において、サクタロウという駒が『ただのエラー要因』から『連携可能な生きた手駒』へと昇華したことを意味していた。


 配管を伝わってくる微細な振動は、瑠璃にとって、サクタロウがまだ生きているという単なる生存証明ではない。

『僕はここだ。早くあの愚鈍なネズミを駆除しに来てください』という、彼なりの意地と、主に対する絶対的な信頼の証明だった。


「聞こえたぞ、サクタロウ。お前のその不器用で泥臭い鼓動は、確かにこの如月瑠璃の網に掛かった」


 瑠璃は配管から手を離し、タクティカルライトの光が貫く地下プラントの最深部を、真っ向から見据えた。

 恐怖も、迷いも、一切ない。

 あるのはただ、自身の領域を侵した害虫を完全に殲滅するという、冷徹な狩人としての絶対的な意志のみ。


「行くぞ、黒田」


 瑠璃は、漆黒のベルベットと真紅のシルクが織りなす重厚なドレスの裾を、優雅に、そして力強く翻した。


「わしの盤面を荒らし、あろうことかわしの助手を『恋人』などと宣った、あの愚鈍な亡霊に……如月瑠璃という絶対的な絶望と、真の恐怖を教えてやるのじゃ」


 コツン、と。

 彼女の艶やかな黒革のブーツが、地下プラントの冷たいコンクリートの床を高く鳴らした。

 光の届かぬ深淵の底で、完璧な論理の刃を持つ天才令嬢と、暗闇に潜む過去の亡霊との、苛烈で容赦のない対決の幕が、今まさに切って落とされた。



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