第2話『黒翼の亡霊』 ~section4:脱出と、忘れられた腸~
僕は震える手で、奪われたカバンの底に残っていたわずかな金属片やガジェットの残骸をかき集め始めた。
監視カメラの死角は作った。敵の正体も知れた。
次は、この絶望的な完全密室から、外部へ向けて僕の『生存のルーツ』を刻み込むための、物理的な反撃を開始する番だ。
僕の胸の奥で、必死に張り上げた虚勢の裏側に、図書室のあの懐中時計の秒針の音が、より一層力強く時を刻み始めていた。
――と、自分を奮い立たせたのはいいものの。
「……やばい。どう考えてもやばい」
数秒前までアドレナリンで麻痺していた恐怖が、ここに来て何倍にも膨れ上がって僕の全身に襲いかかってきた。
ガチガチと奥歯が鳴る。集めた金属片を持つ手が、アルコール中毒者のように小刻みに震えて止まらない。
冷静になって考えてみれば、当然だ。
僕はたった今、スタンガンを持った大人の逃亡犯(しかも現在進行形でブチギレている)に向かって、『お前なんか忘れ去られたエラーデータだ』と、考えうる限り最悪の煽り文句を叩きつけてしまったのだ。
葛城は最後に『今すぐそこへ行って、肉片に変えてやる』と叫んだ。あれは比喩でもなんでもない。奴は今、間違いなく怒り狂いながらこの檻室に向かってきている。
「時間が、ない……!」
犯人のアジトが、この旧加圧ポンプ場のどこにあるのかはわからない。だが、有線の隠しカメラを引ける距離だ。同じ地下施設内、あるいはすぐ隣の区画である可能性が高い。
数十秒後か、数分後か。
いずれにせよ、あの分厚い鉄扉の向こう側から、スタンガンを持った葛城が飛び込んでくるまでの、明確な『死のカウントダウン』がすでに始まっているのだ。
僕は弾かれたように立ち上がり、カバンの残骸を抱えて部屋の中を走り回った。
迎え撃つ? 無理だ。喧嘩なんて一度もしたことがない僕が、大人の男に勝てるわけがない。最初の奇襲の時のように、高圧電流を一度でも浴びせられれば、今度こそ本当に終わりだ。
ならば、バリケードを築くしかない。
僕は重厚な鉄扉に駆け寄り、その構造を必死で観察した。
「……嘘だろ」
絶望が、再び僕の喉元を締め上げた。
表面が赤茶けた錆に覆われた分厚い鋼鉄の扉。その縁には気密性を高めるための硬化したゴムパッキンが張り巡らされている。しかし、扉を部屋の内側からロックするためのカンヌキも、シリンダー錠も、一切存在しない。
この扉は、外側から太い鋼鉄製のバーを渡し、南京錠のようなもので物理的に施錠する、極めて原始的かつ強固な封鎖方式がとられていた。
さらに最悪なことに、扉は『外開き』だった。部屋の中にある巨大なボイラーの部品や配管の残骸を必死で掻き集めてバリケードを作ったところで、外側に引いて開けられる扉に対しては、一ミリの遅延効果すら生まない。
物理的な脱出ルートも探る。
壁面の上部には、プロペラが完全に錆びついて動かなくなった旧式の換気扇が設置されていた。しかし、そのダクトの直径はせいぜい二十センチ程度。猫ならともかく、人間の頭すら通らない。
壁を叩いてみる。ドスッ、という低く重い音。向こう側は空洞ではなく、分厚い土壌かコンクリートの塊だ。
完全な、そして絶望的な密室。
逃げ場はない。時間を稼ぐ手段もない。
葛城が扉を開けた瞬間、僕は確実に肉片にされる。
『…………ピチョン……』
部屋の奥で、水滴が落ちる音がやけに大きく響いた。
まるで、僕の残り時間を刻む砂時計のようだ。
「……落ち着け。如月さんなら、どうする」
僕は壁に額を押し当て、目を閉じた。
パニックになれば、思考のパフォーマンスは著しく低下する。彼女なら、このような極限状態にあっても、決して感情に振り回されることなく、自身の持てる『知識』という武器を最大効率で運用するはずだ。
僕にある武器。
それは、スマートフォンの電波すら届かないこの場所が、『第七加圧ポンプ場』の旧規格施設であるという事実と、僕がオタクとして蓄積してきたガジェットと物理現象に関する浅はかな知識だけだ。
電波が飛ばないなら、物理的な『振動』を使うしかない。
僕の頭の中に、月見坂市のインフラマップと、音波の伝達に関する知識がフラッシュバックする。
空気中を伝わる音は、分厚いコンクリートの壁に吸収されて数メートルも届かない。しかし、金属などの固体の中を伝わる『固体振動』は、空気中よりもはるかに速く、そしてエネルギーを減衰させることなく遠くまで届く。
加圧ポンプ場とは、高低差のある地域に水を送り届ける大動脈だ。この部屋にある巨大なタンクから伸びる無数の太い配管は、今もこの新市街の地下――地下鉄のトンネルや、巨大な下水道施設へと、まるで死んだ都市の腸(はらわた)のように複雑に這い回って繋がっているはずだ。
「これしかない」
僕は目を開け、行動を開始した。
葛城が来る前に、外部へ向けてSOSの固体振動を発信するのだ。
問題は、どの配管を叩くかだ。壁や床に直接埋め込まれている配管は、振動がコンクリートに吸収されて遠くまで届かない。また、もし配管の中に地下水が溜まっていた場合、水が吸音材の役割を果たしてしまい、振動の伝播距離は極端に落ちる。
僕が探すべきは、『壁から離れて空中に露出しており』、かつ『中が完全に空洞に乾燥している』、外部のインフラ網へと直接繋がる太い鉄管だ。
僕はカバンの中から取り出したモバイルバッテリーの分厚いアルミ合金製の外装パーツと、ズボンから外した硬い金属製のベルトのバックルを両手に握りしめた。
そして、ボイラーの裏側へともぐり込み、頭上を通るいくつもの配管を順番に軽く叩いて回った。
カンッ……
鈍く、響かない音だ。コンクリートに埋まっている。
コンッ……
これは水が詰まっているような、鈍重な音。
急げ。早くしろ。
いつ背後の扉から、あの恐ろしい金属の鍵を開ける音が聞こえてくるかわからない。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
オーディオマニアとしての僕の耳が、金属の共鳴音の微細な違いを必死に聴き分けていく。
部屋の最も奥、天井近くの壁の亀裂から突き出し、そのまま真っ直ぐに上部の暗闇へと伸びている、直径四十センチほどの太い鋳鉄管を見つけた。
カァーーーーーン……。
バックルで叩いた瞬間、他の配管とは全く違う、長く澄んだ残響音が金属の表面を伝わって奥へと抜けていくのがわかった。
「これだ……!」
中身は完全に空洞。しかも、壁との接触面積が少なく、振動が逃げにくい構造になっている。この管は間違いなく、外部の広大な地下空間へと通じている。
僕はその太い配管の真下に立ち、両手の金属片をしっかりと握り直した。
発信すべきメッセージは一つ。世界共通の救難信号。
モールス信号による『SOS』だ。
トントン、トン(S:短点3回)
ツー、ツー、ツー(O:長点3回)
トントン、トン(S:短点3回)
僕は、金属片を配管に向かって全力で打ち付け始めた。
カンカン、カン!
カァーン、カァーン、カァーン!
カンカン、カン!
金属と金属がぶつかり合う、甲高く鋭い打撃音が檻室の中に反響する。
一セット打ち終えるごとに数秒のインターバルを置き、再び同じリズムで叩き続ける。
ただ闇雲に叩いているだけだと思われないように、極めて機械的で、人間が意図的に発していると一聴してわかる正確なリズムを刻むことが重要だ。
「誰か……気づいてくれ!」
カンカン、カン!
カァーン、カァーン、カァーン!
カンカン、カン!
こんな大きな音を出せば、当然、こちらに向かっている葛城の耳にも届くかもしれない。居場所を、いや、僕が余計な足掻きをしていることを教えるようなものだ。
それでも、叩くしかなかった。
葛城がこの部屋に到達するまでの数分間が、僕の人生に残された最後の時間かもしれないのだから。
数十回叩いただけで、普段運動など全くしない僕の腕の筋肉は悲鳴を上げ始めた。
空腹と渇きで体力が限界に近い状態での連続打撃。アルミ合金とバックルを握る手のひらはすぐに豆が潰れ、皮膚が破れて血が滲み出し、ジンジンと焼け付くような痛みを放っている。
配管の表面に積もっていた数十年の埃が、振動によって頭上から雪のように降り注ぎ、僕の髪や制服を白く汚していく。
埃を吸い込み、咳き込みそうになるのを必死で堪えながら、僕はひたすらに腕を振り下ろし続けた。
カンカン、カン!
カァーン、カァーン、カァーン!
カンカン、カン!
背後が、怖い。
いつ扉が開くのか。いつ、スタンガンの青白い光が闇を切り裂くのか。
恐怖で頭がおかしくなりそうだ。本当なら今すぐ部屋の隅にうずくまって、耳を塞いで泣き叫びたい。
それでも、配管を打ち鳴らす僕の手は止まらなかった。
「如月さん……!」
血が滲む手で金属を打ち付けながら、僕の脳裏には、あの孤高の天才令嬢の冷たい横顔が浮かんでいた。
彼女は今頃、自身の所有物である僕が奪われたことで、完璧な盤面を汚したバグを修正するために必ず動いているはずだ。
彼女の『物理的観察眼』は、どんなに微細なルーツであっても必ず見つけ出す。
だから、僕はこの場所から、僕自身の生存のルーツを外部に向けて発信し続けなければならない。彼女の論理の網に引っかかる、ほんのわずかなノイズでいい。
「僕は、ただの凡人だけど……っ! あの人の、助手なんだ!!」
カンカン、カン!
カァーン、カァーン、カァーン!
カンカン、カン!
両手から流れる血がアルミの破片を滑らせるが、制服の袖で拭って必死に握り直す。
恐怖と絶望が支配するカビ臭い地下室の中で。
いつ扉が開くかという死の恐怖に怯えながらも、僕の執念が込められた不器用な鼓動が、忘れ去られた都市の腸を通じて、見えない外界へと確かに響き渡っていた。
お願いだ。届いてくれ。
僕が叩き続けるこの振動は、間違いなく、あの美しくも冷酷な狩人の元へと向かって、一直線に駆け抜けていくはずなのだから。




