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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『黒翼の亡霊』 ~section3:路地裏と、不可視の足跡~

 月見坂市の新市街は、徹底的な区画整理と最新の環境制御システムによって管理された、完璧なスマートシティである。メインストリートには透水性の特殊ポリマーブロックが敷き詰められ、気温や湿度に応じて自動でミストや温風を散布する環境ターミナルが稼働し、無数の高解像度カメラとAIセンサーが市民の安全という名の監視網を形成している。

 それは、論理と計算によって構築された、一切の無駄を許さない輝かしい人工の生態系だ。

 しかし、光が強烈であればあるほど、その足元に落ちる影はより色濃く、そして深く沈み込む性質を持つ。


 新市街の南端。巨大な商業ビル群と最新鋭のインフラ設備の間に、まるで都市開発のメスから意図的に逃れたような、あるいはメスを入れることすら放棄されたような、歪な『迷路区画』が存在していた。

 月見坂市の地下を網の目のように走る複雑な自然水脈。その水脈の合流点であり、地盤改良が物理的に不可能であったこの一帯だけは、旧市街の古い規格のまま、無用の長物(トマソン)のように都市の盲点として取り残されているのだ。


 日曜日の午後。太陽は最も高い位置にあるというのに、密集したビル群が遮蔽物となり、この迷路区画には薄暗い青灰色の影だけが淀んでいた。

 真紅のフリルと漆黒のベルベットが織りなす重厚なゴシックドレスを纏った如月瑠璃は、専属ボディーガードの黒田を従え、その湿った旧規格の石畳の上へ静かに降り立った。


「ここじゃな」


 瑠璃は歩みを止め、周囲の環境を冷徹なアメジストの瞳で一瞥した。

 新市街のメインストリートであれば数メートルおきに設置されているはずの監視カメラも、環境を最適化するセンサー群も、この入り組んだ路地裏には存在しない。壁面には無秩序に這い回る古い配管と、排気ガスの煤で黒ずんだ換気扇が並び、足元にはいつの時代に敷かれたのかもわからない、表面が不規則に摩耗した御影石の石畳が続いている。

 意図的に作られた、都市の完全な盲点。


 今朝、自室のデスクに送り届けられたサクタロウのスマートフォンの残骸。その強化ガラスのナノレベルのひび割れに食い込んでいた、微量な玄武岩の粉末とギンゴケの胞子体。その二つのルーツが示す座標は、間違いなくこの場所であった。


 瑠璃は、ドレスの隠しポケットから、美しい銀の装飾が施されたアンティークの懐中時計を取り出した。

 純白の手袋に包まれた指先で、カチリ、と硬質な音を立てて蓋を開く。


 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。


 精巧な歯車とゼンマイが噛み合い、一切の感情を持たずに時を刻む、無機質で完璧な秒針の音。

 瑠璃はその音に自身の鼓膜の焦点を合わせ、静かに目を閉じた。

 彼女の脳は、常人とは比較にならない情報処理能力を持っている。ゆえに、普段は無意識のうちに制限をかけているそのリミッターを外すためには、強固な物理的ルーティンが必要だった。


 自身の網膜から入る不要な視覚情報、路地裏の湿ったカビの臭い、遠くの新市街から微かに響く車両の走行音。それらすべての環境ノイズを、秒針の音を基準波として完全にシャットアウトしていく。自身の脈拍を限界まで引き下げ、鼓動のリズムを懐中時計の極限まで正確なテンポと同調させる。

 十六歳の少女という人間的な器から、感情や共感といった非論理的な情動の回路を完全に遮断し、世界を単なる『ルーツと事象の集合体』として知覚するための絶対的な儀式。


「調律、完了じゃ」


 瑠璃が目を開けた時、彼女の瞳からは人間としての温もりは完全に消失し、事象を原子レベルまで切り裂く冷徹な『観察者』としての鋭利な光だけが宿っていた。

 彼女は懐中時計をしまい、代わりに純銀製のルーペを取り出すと、一切の躊躇なく、最高級のシルクとベルベットで作られた真紅のドレスの裾を翻して、汚れた石畳の上にしゃがみ込んだ。


「黒田、そこから半径二メートル以内に入るな。気流が乱れ、微小な証拠の配置が変わる」


「承知いたしました」


 黒田は瑠璃から正確に二・五メートルの距離を保ち、彫像のように直立不動で周囲の警戒に当たった。いかに異常な光景であろうと、主の絶対的な論理を妨げるような真似は決してしない。それが彼という男のプロフェッショナルだった。


 瑠璃の『物理的観察眼』が、ミクロの世界へとダイブする。

 ただの古びて汚れた石畳が、彼女の脳内では無数の情報レイヤーが重なり合う巨大なデータベースへと変貌する瞬間だった。


 視線を地を這うように巡らせてから、わずか数十秒後。

 瑠璃の視線が、石と石の目地に生えた、わずかなギンゴケの群生付近でピタリと止まった。

 ルーペのレンズを極限まで近づけ、その焦点を合わせる。肉眼ではただの白い埃にしか見えない極小の物質が、彼女の視界の中で明確な構造体として立ち上がった。


(こうぞ)三椏(みつまた)の繊維。漂白工程を経ていない、天然由来の長い繊維長を持つ上質な手漉きの和紙の破片じゃ。さらにその周囲、半径十センチ以内の石畳の微細な凹凸に、水溶性の結晶が付着しておる」


 瑠璃の脳内の巨大なライブラリが、瞬時にその物質の特定を行う。


「結晶の屈折率と形状からして、ただのグラニュー糖や上白糖ではない。四国東部で伝統的に生産される竹糖を原料とし、盆の上で手作業で研ぎ出された極めて粒子の細かい和三盆の糖分。および、微量のアミノ酸の痕跡」


 和紙の繊維と、和三盆の結晶。

 その二つがこの湿った路地裏の石畳に存在するという事実は、一つの明確なルーツを示している。和盆堂の紙袋と、その中に収められていた高級な季節の練り切りだ。

 サクタロウがこの場所で襲撃された際、手に持っていた紙袋が重力に従って石畳に落下した。その物理的衝撃によって箱の中の和菓子が微かに潰れ、目に見えないレベルの糖分の飛沫を周囲に飛散させたのだ。和紙の繊維は、袋が石の角に擦れた際に削り取られたものだ。


 和盆堂の紙袋が落ちたという絶対的な事実。

 それはすなわち、ここが『サクタロウの足が物理的に停止し、日常から断絶されたゼロ地点』であることを意味している。


「しかし、サクタロウはいくら喧嘩の経験がない愚鈍とはいえ、正面から見知らぬ人間に襲撃されて、無抵抗で両手の荷物を落とすような反射神経はしておらん。人間は正面からの脅威に対し、必ず防御姿勢をとるか、後退する。荷物が真下に、しかも箱の形状をある程度保ったまま落ちたということは、筋弛緩を伴う突然の意識喪失……すなわち、背後からの完全な奇襲による一撃じゃな」


 瑠璃は紙袋の破片が落ちていた位置をゼロ地点として、視線をサクタロウが歩いてきたであろう後方の空間……彼の背中があったはずの座標の真下へと移動させた。

 そして、ゼロ地点からちょうど四十五センチほど後方の石畳の表面に、異様な『黒い斑点』が数個、点在しているのを見逃さなかった。


 それは、土汚れでも、古いガムがこびりついた跡でもない。

 瑠璃はドレスの膝が石畳に触れることも厭わず、ルーペを極限までその黒い斑点に近づけた。


「ポリエチレンテレフタレート、すなわちポリエステル混紡の繊維が、極度の高熱によって瞬間的に熱溶解し、球状に硬化したものじゃ」


 瑠璃の薄い唇から、決定的なルーツが言語化される。


 事件発生からおよそ十八時間が経過している。高電圧の放電現象に伴って発生するオゾン臭などという揮発性の高い気体は、風の通る屋外においては数分から数十分で大気中へ拡散し、完全に消え失せてしまう。臭いなどという曖昧な痕跡に頼るような三流の鑑定を、瑠璃は行わない。

 物理的な『熱による物質の変化』は、削り取らない限り永遠に残るのだ。


 犯人は、背後からサクタロウに無音で忍び寄り、至近距離からスタンガンを背中、あるいは首筋に押し当てた。

 一般的な護身用スタンガンであっても、発生する電圧は数十万から数百万ボルトに達する。その高電圧の電弧がサクタロウの制服に触れた瞬間、局所的な温度は数千度に達し、制服の素材であるポリエステル繊維の融点を容易に突破した。

 瞬時に融解した極微量のプラスチック繊維は、爆発的な放電の衝撃で空中に飛散し、表面張力によって球状になりながら冷たい石畳の上に落下し、そのままの形で急速冷却されて硬化したのだ。


「斑点の飛散範囲と、溶解したポリエステルの体積から逆算して、使用されたのは電極間の距離が広い大型のスタンガン。背後からの高圧電流による、中枢神経の強制的なオーバーロード。サクタロウの肉体は瞬間的に硬直し、防御姿勢をとる間もなく、前方に倒れ込むようにして意識を失った」


 現場の状況が、瑠璃の脳内でミリ単位の3Dホログラムとなって完全再現されていく。

 背後から忍び寄る犯人の影。スタンガンの青白い火花。硬直して崩れ落ちるサクタロウ。落下する和盆堂の紙袋。飛散する糖分と、熱溶解した繊維の雫。

 ここまでは、あくまで襲撃の瞬間の解析だ。


 重要なのは、ここから犯人が『一六二センチメートルの意識のない肉体(デッドウェイト)』を、どうやって監視カメラの網の目を掻い潜って運び去ったかである。


 瑠璃は立ち上がり、サクタロウが倒れたと推測される座標から、再び石畳の表面を舐めるように観察し始めた。


「引きずった痕跡は、皆無じゃな」


 意識のない人間を石畳の上で引きずれば、靴のゴム底や衣服の繊維、あるいは金属製のベルトのバックルなどが広範囲にわたって強烈な摩擦痕を残すはずだ。しかし、瑠璃の目視範囲にそのような帯状の痕跡は一切存在しない。

 つまり、犯人はサクタロウを抱え上げたのだ。


「サクタロウの身長は一六二センチ、体格は痩せ型。およそ五十五キロ前後のデッドウェイトじゃ。意識のない人間は重心が定まらず、体感重量が本来の質量の倍近くに感じられるもの。それを一人で、素早く、かつ他者の目を避けて運搬するためには、抱きかかえるのではなく『ファイヤーマンズキャリー』のように、自身の肩に相手の腹部を乗せて担ぎ上げるのが最も論理的かつ効率的じゃ」


 瑠璃は自身の脳内で、大人の男が五十五キロの重荷を左右どちらかの肩に担ぎ上げた際の、バイオメカニクス的変化を計算した。

 人間の骨格と筋肉の構造上、五十キロ以上の偏った加重を受ければ、歩行のメカニズムは決定的に歪む。バランスをとるために歩幅は通常の三分の二以下に極端に狭くなり、加重された側の足の踏み込みと蹴り出しが異常に深くなるのだ。


「黒田」


「はっ」


「ここから先の石畳。靴底の摩擦痕(スクラッチ)を探すのじゃ。五十キロ強の偏った質量を支えるため、必ず足の着地と蹴り出しの瞬間に、靴底のゴムが石の表面に微細な『削りカス』を残しているはずじゃ」


「承知いたしました」


 黒田は頷き、懐から特殊な波長の光を放つ小型の鑑識用ライトを取り出した。石畳の表面を斜めから照らし出し、微細な凹凸や付着物の影を浮き上がらせる。

 瑠璃と黒田は、石畳に付着した不可視の足跡を追って、迷路区画のさらに奥へと足を踏み入れていく。

 真紅と黒のドレスが、薄暗い路地裏の澱んだ空気を切り裂いて進む。彼女の歩みは優雅で遅いが、その観察眼には一切の迷いも停滞もない。


「……ありました。お嬢様」


 数メートル進んだ先、路地が鋭角に曲がるポイントで、黒田が足を止めて石畳の一部を指差した。

 瑠璃が屈み込み、ルーペで確認する。

 石の表面の微細な凹凸に、黒い合成ゴムの粒子が削り取られて付着している。


「ニトリルゴムを主成分とし、カーボンブラックが高密度で配合された、耐油性・耐摩耗性に極めて優れた特殊合成ゴム……軍や警察で使用されるタクティカルブーツのソールじゃな。蹴り出しのスクラッチ痕が、右足側に極端に深く刻まれておる。犯人はサクタロウを右肩に担ぎ、歩幅を狭めて歩行しておる証拠じゃ」


 痕跡は、決して嘘をつかない。

 犯人がどれほど巧妙に新市街の監視カメラを避け、自身を透明な存在だと錯覚していようとも、物理世界に干渉した以上、重力と摩擦という絶対的な法則からは逃れられない。必ず『ルーツ』という名の尻尾を残すのだ。

 瑠璃の圧倒的な知識データベースと論理的推論は、その目に見えない尻尾を完全に掴み取っていた。


 削り取られたゴムの粒子。

 重みによって石の目地からわずかに押し出された土埃。

 角を曲がる際に、サクタロウの靴の先端が壁の苔をわずかに削り取った痕跡。

 それらの極めて微細な変化を点と点で繋ぎ合わせ、瑠璃は迷路区画のさらに奥深く、光が完全に届かない最深部へと、不可視の足跡を辿っていく。


 やがて、その足跡は、迷路区画の突き当たりにある、高いコンクリートの擁壁の影でピタリと途絶えた。

 完全な行き止まりである。周囲にはビル群への裏口も、人間が通れるような隙間もなく、ただ分厚く湿ったコンクリートの壁がそびえ立っているだけだ。


「足跡のルーツはここまでじゃ。……黒田、足元を照らせ」


 瑠璃の命令に応じ、黒田がタクティカルライトの光量を最大にし、瑠璃の足元を円形に切り取った。


 強烈な光が暗がりから浮かび上がらせたのは、石畳と同化するようにカモフラージュされた、巨大で古びた鉄製の『隠しマンホール』であった。

 通常の道路にある円形のマンホールとは異なり、一辺がニメートル近くある正方形の重厚な鋳鉄製のハッチ。表面には昭和後期のインフラ整備規格を示す特有の滑り止め紋様が刻まれている。

 それは月見坂市がスマートシティ化される遥か以前、旧インフラ時代に地下の巨大な水路やポンプ設備へ大型資材を搬入するために作られた、都市の記憶から忘れ去られたハッチだった。


 鉄板の表面は赤茶けた酸化鉄に覆われているが、瑠璃の目は、その開閉用の取っ手周辺の錆だけが『自然な風化ではなく、物理的な摩擦によって不自然に剥がれ落ちている』痕跡を明確に読み取っていた。

 さらに、そのハッチを封印するように、極太のチタン合金製チェーンと、切断耐性を持つ工業用の巨大な南京錠が何重にも巻き付けられている。


「……なるほど。監視カメラの死角であるこの場所で獲物を狩り、この忘れられた都市の(はらわた)から、さらに深い地下の世界へと潜ったわけじゃな」


 瑠璃は南京錠の鍵穴周辺に付着した微細な金属粉をルーペで一瞥し、冷たく鼻を鳴らした。

 間違いない。この南京錠はダミーなどではなく、ごく最近、確実に開閉されている。

 サクタロウを浚い、神聖な盤面を汚した愚鈍な亡霊。その潜伏先へと至る決定的な入り口が、今、彼女の極限の物理的観察眼によって完全に暴かれたのだ。


「黒田」


 瑠璃は純銀製のルーペをドレスの懐にしまい、純白の手袋をはめた手で、その厳重な南京錠を無造作に指差した。


「開けるのじゃ。物理的手段は問わん」


「御意」


 黒田は静かに頷き、自身の漆黒のスーツの懐から、鈍い光を放つ特殊な破壊工作用のツール──油圧式ボルトカッター──を取り出した。

 日曜日の午後。都市の喧騒から完全に切り離された路地裏の最奥で、天才令嬢の冷徹な反撃が、地下の暗闇に向かってその鋭い牙を剥こうとしていた。



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