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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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12/22

第2話『黒翼の亡霊』 ~section2:死角と、泥水啜る翼~

『愛する恋人を失い、涙を流して地面に這いつくばる無様な顔を拝んでやる!』


 犯人が最後に吐き捨てたその狂気に満ちたセリフが、脳内にこだましている。

 如月瑠璃の、恋人。

 その単語が持つあまりの破壊力に、極限状態であるにもかかわらず僕の顔面は一瞬にして沸騰した。しかし、次に押し寄せてきたのは、僕を拉致した犯人が、如月瑠璃という絶対的な存在を根底から見誤り、あろうことか『涙を流す陳腐な小娘』程度に侮辱していることに対する、得体の知れない怒りだった。


「本当に、おめでたい頭をしてるんだな」


 僕は天井の暗がりに向かって、低く呟いた。

 あの人が僕の死を知って泣き喚く? 冗談じゃない。彼女の巨大な知識データベースに『助手のロスト』という一行が追加されるだけだ。彼女はただ、自身の所有物を奪い、神聖な思考の盤面を土足で踏み荒らしたこの見えざる敵を、微塵の容赦もなく論理的に解体し尽くすに決まっている。

 だからこそ、僕がここで無様に死んで、彼女の盤面に無駄なエラーを残すわけにはいかない。


 僕は、右手に強く握りしめていたケーブルを持ち上げた。

 先ほどの通信の直前に作っておいた、千切れたイヤホンのネオジム磁石と、長いUSBケーブルを組み合わせた即席の『振り子フック』。その反対側には、僕の指定制服の上着である黒いブレザーの袖口を固く結びつけてある。


 僕は音を立てないように立ち上がり、配管の真下へと移動した。

 ターゲットは、天井から数十センチ下を走っている古い金属配管の裏側。カメラは配管と天井の隙間に設置されており、カメラの固定具(ブラケット)自体も金属製だ。


 大きく深呼吸をして、肺に澱んだ地下室の空気を満たす。

 正直に言おう。僕は今、死ぬほど怖い。

 ベルグラヴィアの洋館で本物の殺人鬼が現れた時と同じように、胃の腑がギュッと縮み上がり、両足は生まれたての子鹿のようにガクガクと小刻みに震えている。僕は喧嘩なんて一度もしたことがないし、オカルトも暴力も大の苦手な、ただのガジェットオタクだ。もし今、この鉄扉が開いて大柄な男がナイフを持って飛び込んできたら、三分どころか三秒で泣きながら土下座する自信がある。


 しかし、震える膝を両手でバンッと叩き、僕は無理やり己を奮い立たせた。

 ここで何もしなければ、ただ檻の中で衰弱死するのを待つだけだ。あの天才令嬢の助手として、それだけは絶対に避けなければならない。


 右手で磁石のついた先端を、投げ縄のように頭上でぐるぐると回し始めた。

 手汗でケーブルが滑りそうになる。

 狙うのは、配管と配管が交差する金属のジョイント部分。そこへ磁石を吸着させ、ケーブルを滑車のようにしてブレザーを引き上げ、カメラの視界を物理的に遮断するのだ。

 遠心力が最大になった瞬間を見計らい、震える手首のスナップを効かせて斜め上方へ放った。


 カツンッ!


 磁石は配管の側面に当たったが、丸い表面を滑ってしまい、吸着せずに虚しく床へ落ちた。


「くそっ……もう一回」


 焦るな。如月さんなら、こんな物理的な誤差でイライラしたり、恐怖でパニックになったりしない。彼女はいつでも氷のように冷たく、ただ淡々と事象を観察する。

 僕は彼女の『完璧な冷徹さ』を頭の中に思い描き、自分自身の怯えをその幻影の後ろに隠し込んだ。

 ケーブルを手繰り寄せ、再び頭上で振り子を回す。

 二度目の投擲。


 ガチンッ!!


 今度は、鋭い金属音が響いた。

 配管の裏側、太いジョイント金具の平らな部分に、強力なネオジム磁石が強烈な勢いで吸着したのだ。軽くケーブルを引っ張ってみるが、磁石はがっちりと食い込んでおり、外れる気配はない。


「よし……!」


 僕はケーブルの反対側、ブレザーの袖を結びつけた部分を両手で掴み、ゆっくりと、しかし力強く真下へと引っ張った。

 配管に吸着した磁石を支点として、ケーブルが引き上げられていく。ズルズルと音を立てて僕のブレザーが宙を舞い、カメラの手前の空間へと吊り上げられていく。


 布地が、カメラのレンズの正面に到達した。

 分厚いポリエステル混紡の生地が、暗視カメラの赤外線を完全に遮断する。僕の視界から、天井の暗がりでチカチカと明滅していた忌々しい赤いLEDの光が完全に消え去った。


 僕はケーブルの端を、近くの古いボイラーの錆びたバルブにしっかりと結びつけ、ブレザーの『カーテン』が落ちてこないように固定した。

 完璧な、物理的ブラインド。

 これで犯人は、モニター越しに僕を観察することも、僕がこの檻室の中で何をしているのかを確認することもできなくなった。


『……ザァッ……ガガッ! ピーーーッ!!』


 死角が完成したわずか数秒後。部屋の隅のスピーカーから、鼓膜を破るような激しいハウリング音が鳴り響いた。


『貴様ァッ!! 何の真似だ、クソガキ!! 今すぐその目隠しを外せ!!』


 スピーカーの向こうから、先ほど僕を『恋人』と呼び間違えたあの不気味な男の怒鳴り声が飛び出してきた。

 僕はビクッと肩を震わせ、咄嗟に巨大なボイラーの陰に身を隠した。心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。

 しかし、僕はギュッと拳を握りしめ、震えそうになる声を喉の奥で必死に殺して、極めて平坦なトーンを作って答えた。


「見せ物にされる趣味はないんでね。カーテンを引かせてもらっただけだよ」


 強烈な虚勢(ブラフ)だ。

 声が裏返らなかったのは奇跡に近い。


「それより、あんたの妄想には心底呆れたよ。如月さんに人生を壊されたって言ってたな? 一つ教えてやる。如月さんは、あんたみたいな小心者を相手にしたことなんて一度もないはずだ」


 わざと『小心者』という言葉を選んで挑発した。背中には冷や汗がびっしょりと張り付いている。


『小心者だと……ッ! ふざけるな!!』


 男がマイクの向こうで、机か何かを激しく叩く音がした。


『我々はただのコソ泥ではない! 警察の無能な捜査網など完全に手玉に取り、月見坂市の闇で完璧なビジネスを展開していた、最強の窃盗グループだったのだ!』


「窃盗グループ……」


『そうだ。思い出すだけでも腸が煮えくり返る……。三年前だ。我々はあの時も、完璧な仕事をした。現場には指紋一つ、足跡一つ残さなかった』


 男の合成音声が、過去の栄光と呪詛を吐き出すように低く沈み込んだ。


『ただ一つ……逃走経路の途中の旧市街のドブ川に、『破れた(ふだ)』と、『古いガラケー』を別々に捨てただけだ。それも、絶対に復元不可能などころまで破壊し、関連性など誰にもわからないように別々の場所に破棄した』


 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に電撃が走った。

 三年前。僕がまだ中学生だった頃、月見坂市だけでなく近隣の都市部までを股にかけ、高級住宅街や企業の金庫から数億円規模の被害を出していた、大規模な窃盗グループのニュース。

 現場に一切の痕跡を残さず、まるで闇夜の鴉のように獲物を掠め取っていくことから、マスコミがつけた彼らの呼び名。


「……『漆黒の翼』」


 僕がその名を口にすると、男は満足そうに、しかし強烈な憎悪を込めて鼻を鳴らした。


『そうだ。私はその『漆黒の翼』を束ねる幹部の一人、葛城(かつらぎ)大河(たいが)だ』


 葛城、と名乗った犯人は、ギリギリと歯軋りをしながら過去の悪夢を語り始めた。


『あの二つのゴミは、我々の犯罪を立証する証拠でも何でもなかった。ただの不要物だ。警察は我々の尻尾すら掴めず、アジトの場所など永遠にわからないはずだった。……だというのに!』


 ドスッ、ドスッ、と重い打撃音がマイク越しに響く。


『どこでどう嗅ぎつけたのか知らんが、あの小娘が……如月瑠璃が、あのドブ川に落ちていたそのゴミを拾ってやがった! 半分に破られた(ふだ)の千切れ方の断面と、ガラケーの基板に残された微細な金属片……そんな馬鹿げた痕跡から、あいつは我々の完全なアジトの座標をピンポイントで弾き出しやがった!』


 葛城の声が、恐怖と屈辱に震え始めた。


『警察よりも先に、如月コンツェルンの私兵ども……あの筋肉ゴリラを筆頭とする黒服の群れが、我々のアジトに雪崩れ込んできたのだ。一瞬だった。数年かけて築き上げた最強のグループが、抵抗する間もなく、たった数分で一網打尽にされた』


 僕は息を呑んだ。

 十三歳の如月さん。その頃から、彼女の『物理的観察眼』はすでに完成の域に達していたのだ。

 一見何の関係もない、半分のお(ふだ)と、ガラケー。

 普通ならただの不法投棄のゴミとして片付けられるその二つのモノのルーツを、彼女は極限の論理で繋ぎ合わせ、窃盗グループの隠れ家というゴールへと到達してしまった。

 そして、不愉快な犯罪者を駆除するために、実家である如月コンツェルンの武力を躊躇なく行使した。

 実に彼女らしい、あまりにも冷徹で、最短距離の解決手段だ。


『私は……私はたまたま裏口の近くにいたから、咄嗟に他の仲間を囮にして、配管ダクトを這って逃げ延びた』


 葛城は、仲間を切り捨てたことを悪びれる様子もなく語った。


『それから三年間だ。指名手配され、金もなく、かつての部下たちはすべて刑務所の中。私は警察の目を逃れるために、月見坂市の地下に潜り、泥水をすするような慘めな逃亡生活を強いられてきたのだ。いつか必ず、あの傲慢な令嬢に復讐してやるという、その一念だけでな!』


 葛城の独白を聞き終え、僕の胸の中にあった『凶悪な犯罪組織の残党』というイメージが、音を立てて崩れ去った。


 なんだ、こいつは。

 ただ仲間を犠牲にして自分だけ逃げ延びたくせに、己の惨めな末路を逆恨みしているだけの、小悪党じゃないか。

 もちろん、スタンガンを持った大人の男である以上、僕にとって脅威であることには変わりない。物理的に殴り合えば一瞬で殺される。

 だが、心理的なマウントは取れる。


「……あんた、本当にただのバカなんだな」


 僕は乾いた唇を舐め、ボイラーの陰からスピーカーに向かって、精一杯の冷笑を浮かべた声を出した。


『なんだと……!?』


「仲間を犠牲にして自分だけ逃げ延びたくせに、自分の不遇を他人のせいにして逆恨みしてるだけじゃないか。あんたは如月さんの宿敵でもなんでもない。彼女の圧倒的な才能の前に、なす術もなく散っていった『有象無象の小悪党』の一人に過ぎない」


 言ってしまった。

 もしこれに激昂した葛城が、今すぐドアの鍵を開けて飛び込んできたら、僕は終わる。足の震えは完全にピークに達しており、立つことすらままならない。

 しかし、怯えて命乞いをしたところで、この男は僕を生かしてはおかないだろう。ならば、如月さんのように冷徹に事実を突きつけ、主導権を奪うしかない。


『貴様ァ……! 言わせておけば! 今すぐそこへ行って、その減らず口を叩けないように肉片に変えてやる!!』


「教えてやるよ、葛城。如月さんは、三年前にあんたの組織を潰したことなんて、もう一ミリも覚えてない」


 僕のハッタリに、スピーカーの向こうで葛城の息が止まる気配がした。


「あんたは彼女にとって、ただの『副産物』だ。道端に落ちていたゴミのルーツを辿ったら、たまたまその先に不愉快な泥棒がいたから、ついでに掃除した。それだけだ。彼女の巨大な記憶領域に、あんたの名前や顔なんて、一バイトたりとも保存されてない」


『嘘だ!! あいつは私を狙って……私の人生を壊すために!!』


「自意識過剰も大概にしろ。あんたは彼女の過去の亡霊ですらない。ただの、忘れ去られたエラーデータだ」


『ギャアアアアアアアアアッ!!』


 スピーカーが完全に割れんばかりの、獣のような絶叫が響き渡った。

 自尊心を粉々に打ち砕かれた葛城が、マイクの向こうで手当たり次第に物を破壊している音が聞こえる。

 直後、ブツッ、という乱暴なノイズと共に、通信が完全に切断された。


 深い地下室に、再び完全な静寂が戻ってくる。


「はあ、はあ……っ」


 僕はその場にズルズルと崩れ落ち、乱れた呼吸を整えた。

 心臓が口から飛び出しそうだった。全身は冷や汗でびっしょりと濡れ、両手は痙攣したように震えている。死ぬかと思った。

 だが、やってやった。あえて痛いところを突き、プライドをズタズタにして挑発した。これで葛城は完全に冷静さを失い、怒りに任せて必ずどこかで論理的なミスを犯すはずだ。


「待っててください、如月さん」


 僕は震える手で、奪われたカバンの底に残っていたわずかな金属片やガジェットの残骸をかき集め始めた。

 恐怖はある。でも、ここで諦めるわけにはいかない。

 監視カメラの死角は作った。敵の正体も知れた。

 次は、この絶望的な完全密室から、外部へ向けて僕の『生存のルーツ』を刻み込むための、物理的な反撃を開始する番だ。

 僕の胸の奥で、必死に張り上げた虚勢の裏側に、図書室のあの懐中時計の秒針の音が、より一層力強く時を刻み始めていた。



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