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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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10/22

第1話『檻室の不協和音』 ~section5:怨嗟と、盤上の生贄~

 コンクリートの冷気が体温を奪い続ける檻室の中で、どれだけの時間が経過したのか。

 僕の唯一の時計代わりであった「三秒に一滴の水音」は、いつしか僕の頭の中で数万回のカウントを超え、時間という概念そのものを曖昧にしていった。


 監禁から、おそらく一晩。

 僕の肉体を苛んでいた高電圧の痺れはすでに引いていたが、代わりに明確な「死の気配」が僕の喉と胃袋を鷲掴みにしていた。


「……喉が、渇いた」


 掠れた声を出そうとするだけで、紙ヤスリで擦られたような痛みが喉の奥に走る。

 極度の空腹と、それに勝る強烈な渇き。人間が水分を摂らずに生き延びられるのはせいぜい三日と言われているが、劣悪で埃っぽい地下の空気は、予想以上のスピードで僕の体内から水分を奪っていた。


 僕はよろめきながら立ち上がり、部屋の隅に避難させておいた『和盆堂』の紙袋へと手を伸ばした。

 ひしゃげた化粧箱の蓋を開ける。そこには、潰れて形は崩れてしまったものの、職人の手によって丁寧に作られた季節の『練り切り』が四つ並んでいる。

 本来であれば、如月さんが旧校舎の図書室で、高級な紅茶とともに優雅に味わうはずだった至高の和菓子。


 僕は震える指で、そのうちの一つをつまみ上げた。

 そして、泥にまみれた自分の手など気にする余裕もなく、それを口の中に放り込んだ。


「……あ」


 上質な白餡の甘さが、舌の上でほどけていく。

 そして何より、練り切りに含まれていた微かな、しかし確かな『水分』が、砂漠のように乾ききっていた僕の口腔内から食道へと、まるで命の雫のように染み渡っていった。

 月見坂市の中心部から外れた、機械油とカビの臭いが充満するこの絶望的な地下室。その劣悪な環境と、舌の上で爆発する老舗和菓子の洗練された甘味とのコントラストは、あまりにも強烈だった。

 ただの糖分ではない。それは僕の脳細胞に『生きろ』と命令を下す、極めて高純度なエネルギーの塊だった。


 二つ、三つと、無我夢中で菓子を胃に流し込む。


(如月さん、ごめんなさい……必ず、買いなおしますから)


 心の中で主に向かって平謝りしながら、僕は最後の一個だけを箱に残し、深く息を吐き出した。


 全身の細胞に、わずかだが抗うための力が戻ってくるのを感じる。

 僕は口元を制服の袖で拭い、再び『観察』と『分析』のフェーズへと意識を切り替えた。

 天井の配管の隙間から、赤く明滅して僕を監視し続ける小型のIPカメラ。

 あの憎きレンズの死角を作らなければ、僕は犯人の監視下から逃れることができない。


 僕は床に散乱したカバンの中身を再び漁り、ガジェットの残骸をかき集めた。

 タブレットもスマホもない。しかし、カバンの底には、僕が常に持ち歩いている予備のアイテムがいくつか転がっていた。

 断線しかかっている長いUSB充電ケーブル。そして、ハイレゾ対応の有線イヤホン。

 このイヤホンのドライバーユニットには、非常に強力なネオジム磁石が内蔵されている。


「……よし」


 僕は有線イヤホンのケーブルを乱暴に引きちぎり、先端の磁石部分を剥き出しにした。それを、長いUSBケーブルの先端にしっかりと結びつけ、即席の『振り子フック』を作り上げる。

 天井のカメラは、配管の裏側に隠れるように設置されているが、カメラを固定しているブラケットは金属製のはずだ。このネオジム磁石をケーブルの先で振り子のように揺らし、金属部分に吸着させることができれば。そしてケーブルの反対側に、僕の上着やカバンの布を引っ掛けてカーテンのように垂らせば、カメラの視界を物理的に遮断できる。


 僕は立ち上がり、配管の真下へと移動した。

 犯人がカメラの向こうで何をしているかはわからない。だが、僕がただの無力な獲物ではないことを教えてやる。

 大きく深呼吸をし、ケーブルの端を握りしめ、振り子を回そうと腕を振り上げた。


 その瞬間だった。


『……ザァッ……ガガッ、ピーーッ!』


 部屋の隅、古いボイラーの裏側に隠されていた旧式のスピーカーから、耳を(つんざ)くようなハウリング音が鳴り響いた。


「うっ……!?」


 僕は鼓膜を叩く鋭いノイズに顔をしかめ、ケーブルを持ったまま身構えた。


『……無駄な足掻きはやめておけ。ネズミが』


 ノイズの奥から、極端に低く歪められた、不気味な男の声が響き渡った。

 犯人からの、初めてのコンタクト。

 僕の行動がカメラ越しに監視されており、明確な反撃の意志を見せたことで、たまらず警告を発してきたのだ。


「誰だ、あんた! 何の目的で僕をこんな所に閉じ込めた!」


 僕は天井のカメラに向かって、怒りに任せて怒鳴りつけた。


 スピーカーの向こうで、歪んだ笑い声を上げた。


『私か? 私は……お前の主である、あの小憎らしい天才令嬢に、すべてを奪われた男だ』


「……すべてを、奪われた?」


『そうだ。あいつのその傲慢な頭脳が、私が築き上げた完璧な計画を……私の人生を、地獄の底へと突き落としたのだ!』


 男の声には、長い時間をかけて熟成された、粘着質で真っ黒な怨嗟がこびりついていた。

 僕は眉をひそめた。

 如月さんの過去の鑑定が原因?

 如月さんは、ありえない場所に落ちているモノのルーツを解き明かすのが趣味だ。その過程で、隠蔽されていた不正や犯罪が暴かれ、結果として警察に逮捕されたり、社会的地位を失ったりした人間は数え切れない。

 この男は、その『ルーツ解明の副産物』として地獄へ落ちた敗残者の一人なのだ。


「逆恨みじゃないか……。自分の罪が暴かれたからって、如月さんを恨むなんて筋違いだ!」


『黙れ!!』


 スピーカーがビリビリと震え、男の激昂が檻室に響いた。


『あいつは、私の人生を壊しておきながら、私の顔すら見ようとしなかった。ただゴミを払うように私を社会から抹殺したのだ! だから……私も、あいつから一番大切なものを奪ってやることにした』


 男の声が、突如としてねっとりとした暗い愉悦を帯びた。


『お前だよ。あの冷酷な女が、常に傍に置いている唯一の弱点……お前の命を奪い、あの女を絶望の淵に沈めてやるのだ。愛する恋人を失い、涙を流して地面に這いつくばる無様な顔を拝んでやる!』


「…………は?」


 僕は、恐怖よりも先に、完全に間の抜けた声を漏らしてしまった。

 思考回路が一瞬、完全にフリーズする。

 こ、恋人?

 僕が?

 あの、人を人とも思わず、僕のことを『下僕』や『愚鈍な助手』としか呼ばない、あの孤高で冷徹で、とてつもなく美少女だけど性格は最悪な天才令嬢の、恋人!?


「なっ……! ち、違う! 僕は別に如月さんの恋人なんかじゃ……!」


 極度の緊張状態であるにもかかわらず、僕の顔面は一瞬にして沸騰したように熱くなった。

 想像しただけでも恐れ多いというか、命の危険を感じる。僕が恋人だなんて如月さんの耳に入ったら、それこそ論理の刃で八つ裂きにされて、月見坂市の沖合に沈められかねない。僕はただのクラスメイトであり、勝手に巻き込まれているだけの不憫な助手なのだ。


 だが、犯人は僕の慌てふためく様子を『図星を突かれて狼狽している』と都合よく解釈したらしい。


『ふふっ……強がらなくていい。あいつがお前を特別扱いしているのは調べがついている。お前はここで、一滴の水も与えられずにゆっくりと死んでいく。その様をカメラで撮影し、あいつの元へ送り届けてやる……絶望の中で泣き叫ぶがいい!』


 ブツッ、というノイズと共に、スピーカーからの通信が一方的に切断された。

 再び、地下室に重い静寂が降りてくる。


 僕の顔から、急速に熱が引いていった。

 代わりに湧き上がってきたのは、先ほどとは比べ物にならないほど冷たく、そして激しい『怒り』だった。


 僕の命が狙われているからではない。

 この下劣な犯人が、如月瑠璃という存在を、根底から見誤り、侮辱していることに腹が立ったのだ。


「……阿呆か、あんたは」


 僕は天井のカメラに向かって、静かに、しかしはっきりとした声で吐き捨てた。


 彼女が、僕の死を知って絶望し、涙を流して地面に這いつくばる?

 冗談じゃない。あの人は、他者の感情に共感することなど絶対にない。僕が死んだところで、彼女の巨大な知識データベースに『助手のロスト』という事実が一行追加されるだけだ。悲しみで判断を誤るような、そんな陳腐な少女ではない。

 彼女はただ、自身の所有物である僕を奪い、その神聖な思考の盤面を土足で踏み荒らしたお前という『バグ』の存在を、微塵の容赦もなく論理的に解体し尽くすだけだ。


「お前は、自分が誰を敵に回したのか、全くわかってない」


 僕が死ねば、如月さんは間違いなくこの事件のルーツを底の底まで暴き出し、この男を二度と這い上がれない本物の地獄へと叩き落とすだろう。

 だからこそ。

 僕がここで無様に死んで、彼女の盤面に無駄なエラーを残すわけにはいかないのだ。


「待っててください、如月さん。……絶対に、生きて帰りますから」


 僕は手に持った手製の磁石フックを強く握り直し、カメラの死角を作るための反撃の行動を再開した。

 恐怖は、もうない。

 あの天才令嬢の助手として、僕は僕の戦いをするだけだ。


**


 一方、警視庁。

 月曜日の朝を迎えた署内の生活安全課の窓口は、週末に発生した些細なトラブルや落とし物の対応で、すでに慌ただしい空気に包まれていた。


「だから! うちの光太郎は、無断外泊なんてするような子じゃないんです!」


 カウンターの前に立ち、血相を変えて署員に詰め寄っているのは、サクタロウの父親である(さく)定光(さだみつ)だった。自動車工場の作業着を着たままの彼は、昨夜から一睡もしていないらしく、目の下には濃い隈が浮かんでいる。


「落ち着いてください、お父さん。高校生の男の子の無断外泊は、そう珍しいことじゃありません。友人の家にゲームをしに行ったまま寝入ってしまったとか、よくある話でして……」


 対応している若い警察官は、手元のバインダーに目を落としながら、完全にマニュアル通りの『家出人』としての処理を進めようとしていた。


「違います! 光太郎は昨日、如月瑠璃さんのお使いに出たまま帰ってこないんです! あの子は責任感が強い。頼まれたことを放り出して遊びに行くなんて、絶対にあり得ない!」


「はあ、如月さんのお使いですか。しかし事件性が確認できない以上、まずは一般の行方不明者として……ん?」


 警察官のペンが、ピタリと止まった。

 その時、カウンターの奥の通路を歩いていた二つの影が、不自然なほど急ブレーキをかけて立ち止まったのだ。


「……今、なんと仰いましたか?」


 静かだが、異様な熱を帯びた声が署内に響いた。

 書類の山から顔を上げた警察官が「ひっ」と短い悲鳴を上げる。

 そこに立っていたのは、捜査一課に所属する若き巡査部長、神宮寺(じんぐうじ)海斗(かいと))だった。

 パリッと糊の効いたスリーピースのスーツを身に纏い、モデルのように整った顔立ちをした彼は、その涼しげな目元を見開き、定光へと猛烈な勢いで詰め寄った。


「あなた、今、『如月瑠璃様』のお名前を口にされましたね!?」


「え、あ、はい。息子の光太郎が、いつも如月さんと一緒におりまして……」


「なんと! あなたがあの、いつも瑠璃様の隣をチョロチョロと嗅ぎ回っている、あの凡庸な眼鏡の少年の父親ですか!」


 神宮寺は定光の手をガシッと握りしめ、顔を近づけた。


「よ、よくご存知で……」


「当然です!!」


 神宮寺海斗にとって、如月瑠璃はただの女子高生ではない。

 過去の事件において、彼女の圧倒的な推理力と観察眼によって事件の真相が暴かれる様を目の当たりにした神宮寺は、彼女を『冷徹なる正義の女神』として完全に崇拝しているのだ。瑠璃本人はモノのルーツを辿っただけで、正義感など微塵も持ち合わせていないのだが、神宮寺の脳内では美しく変換されている。

 そして同時に、神宮寺は、何の取り柄もないくせに常に瑠璃の隣という特等席を陣取っているサクタロウに対して、並々ならぬ嫉妬とライバル心を燃やしていた。


「瑠璃様の忠実なる(しもべ)であるこの神宮寺海斗がいるというのに、あの少年はいつも瑠璃様の傍を離れない……。しかし、その彼が失踪したと? 瑠璃様のお使いの最中に!?」


 神宮寺の瞳に、使命感という名の危険な炎が燃え上がった。


「お父さん、安心してください! この事件、我々捜査一課が直々に引き受けましょう!」


「ほ、本当ですか!?」


「ええ! あの少年を救い出すことこそが、瑠璃様の憂いを払うことに直結する! そして、私があの少年を救い出せば、瑠璃様は必ずや私の実力を認め、あんな頼りない少年の代わりに、この神宮寺を隣に置いてくださるはずです!」


 完全に己の欲望と妄想がダダ漏れになっている神宮寺の背後から、深いため息が聞こえてきた。


「……おい神宮寺。勝手に一般行方不明者の案件を一課に引き上げるな。生活安全課の仕事だぞ」


 ヨレヨレのトレンチコートを着た、無精髭の目立つ男。

 捜査一課警部補、瀬田(せた)明彦(あきひこ)だった。手には署内の自販機で買った安っぽい缶コーヒーが握られている。


「瀬田先輩! これはただの家出ではありません。あの瑠璃様の周囲で起きた事象です。間違いなく、凶悪な犯罪の匂いがします!」


「お前の脳内フィルターを通すと、全部凶悪事件に見える病気なだけだろ」


 瀬田は呆れたように頭を掻いた。

 しかし、瀬田もまた、如月瑠璃という少女の特異性は身をもって知っている。彼女の周囲で起きる事象は、確かにただの家出で終わるような軽いものではないことが多い。

 それに、ここで神宮寺の暴走を止めなければ、この熱血バカは如月コンツェルンに単独で乗り込み、問題を引き起こしかねない。


「……わかった、わかったよ。俺も付き合う」


 瀬田は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱へ正確に投げ入れた。


「ただし、まずは事実確認からだ。如月瑠璃本人の裏付けが取れるまでは、誘拐事件としての初動は取れねえぞ」


「ありがとうございます、瀬田先輩! さあ、急いで瑠璃様の元へ向かいましょう! この神宮寺海斗、瑠璃様のために粉骨砕身の覚悟で挑みます!」


 パタパタと効果音がつきそうな勢いで署の出口へと向かう神宮寺の背中を見送りながら、瀬田はもう一度、今度はひどく重い溜息を吐いた。


 如月瑠璃の沈黙の推論と。

 サクタロウの孤独な反逆。

 そして、警察という物理的なノイズの介入。


 役者はすべて、盤面上に出揃った。

 月見坂市を舞台にした、見えない敵との苛烈な知恵比べが、ついに本格的な火蓋を切ろうとしていた。



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