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第12巻:如月令嬢は『追憶の拍動を止めない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:『沈黙の残響』 ~section1:残照と、古びた拍動~

 月見坂市が誇るスマートシティ構想の恩恵から、完全に切り離されたような場所が如月学園の敷地内には存在する。

 旧校舎。かつては多くの生徒が行き交い、学び舎としての喧騒と活気に満ちていたはずのその木造建築は、新校舎が設立されて以来、静かな余生を送る巨大な剥製のようにひっそりと敷地の端に佇んでいる。徹底的に管理された新市街の無機質な景観とは対極にあるこの場所は、歩くたびに床板が特有の軋み音を立て、歪んだ窓枠の隙間からは古い埃とカビの匂いを孕んだ風が吹き込んでくる。


 その旧校舎の奥深く、日当たりだけは無駄に良い図書室が、『彼女』の、そして僕――(さく)光太郎(こうたろう)の拠点だった。


 放課後のチャイムが鳴り終わってから、すでに四十分近い時間が経過していた。僕は図書室の片隅にある古びたスチール書架の前に立ち、無造作に詰め込まれたままになっている蔵書の背表紙を指でなぞっていた。黄ばんだ日本文学の全集、埃を被って本来の色彩を失った海外の植物図鑑、誰が読むのかもわからない分厚い郷土史。それらを五十音順でもジャンル別でもなく、単に背の高さだけで揃え直すという極めて生産性のない作業は、今の僕にとって絶好の暇つぶしだった。


 片手には最新型のタブレット端末を持ち、画面を無意識にスクロールさせる。

 お気に入りの地下アイドルグループ『GyoGyoっとラブ──魚魚(ぎょぎょ)ラブ』の公式アカウントが、週末のゲリラライブの告知を匂わせる投稿をしていないかをチェックする。彼女たちは決してダンスが下手なわけではなく、むしろインディーズとは思えないほどの洗練されたパフォーマンスを見せるのが魅力なのだが、いかんせん運営の告知がいつも唐突すぎるのだ。ひとしきりタイムラインを遡った後、今度は海外のガジェット系ニュースサイトを開き、来月発売予定のノイズキャンセリング機能付き完全ワイヤレスイヤホンのリーク情報を流し読みする。僕の日常を構成するこれらのデジタルな情報は、ひび割れた窓ガラスから差し込む西日と、静寂が支配するこのアナログな空間にはひどく不釣り合いだった。


 だが、それ以上に不釣り合いなものが、この図書室には鎮座している。


 部屋の中央にでんと構える、重厚なマホガニーのテーブル。その周囲を取り囲む、明らかにこの学校の備品ではない、猫足のアンティーク調の椅子。部屋の隅には高級な茶葉の香りを染み込ませた瀟洒な戸棚が置かれ、中には銀のトレイや美しい装飾が施されたティーカップが整然と並んでいる。さらには、湯沸かし用の瀟洒なポットや、季節外れのこたつまでが部屋の片隅に折りたたまれて置かれていた。

 すべて、この図書室を勝手に不法占拠している『主』が、自分の快適な空間を構築するためだけに持ち込んだ私物である。


「遅いな……」


 ぽつりと漏れた自分の声は、埃っぽい空気に吸い込まれるようにして消えた。

 視線をタブレットの画面右上にあるデジタル時計に向ける。時刻はすでに十六時を回っていた。

 いつもであれば、僕がこの部屋に到着する頃には、主である如月瑠璃――如月コンツェルンの令嬢にして、この世のあらゆる『モノのルーツ』を解き明かす絶対的な天才――は、すでにマホガニーのテーブルの定位置についているはずだった。


 彼女は決まって、純白の手袋をはめた手で優雅に紅茶のカップを傾けながら、僕には到底理解できない古文書を解読しているか、あるいは『ありえない場所に落ちていたありえないモノ』をピンセットと銀のルーペで弄り回している。そして僕の顔を見るなり、「遅いのじゃ、サクタロウ。お主の歩行速度はカタツムリと競争でもしているのか」などと、傲岸不遜な態度で言い放つのが日常だった。

 彼女の口から紡がれる言葉は常に年寄りのような古風な言い回しで、他者を見下しているように聞こえるが、不思議とそこに悪意は感じられない。ただ純粋に、僕を『愚鈍』な存在として客観視しているだけなのだ。


 僕が彼女の助手――彼女に言わせれば下僕――としてこの図書室に出入りするようになってから、彼女が放課後のこの時間を何かの理由で遅刻したことなど一度もなかった。

 如月さんがホームルーム終了後に、教師に呼び出されて説教を受けるようなヘマをするはずがない。彼女は学業においても完璧であり、他人の評価や世間の常識などというものには一切の関心を持っていない。普通の女子高生が好むような動画配信サイト、コスメ、ファッション、恋愛、SNSといった話題には微塵も興味を示さず、ひたすらに『公園の砂場に落ちている卵焼き』や『シャンパングラスに入ったハニワ』といった、日常に潜むノイズのようなバグにのみ強烈な執着を見せる。


 もし仮に如月コンツェルン関連の用事で遅れるのであれば、容赦なく僕のスマートフォンに『待機せよ』という命令のメッセージを送ってくるはずだ。しかし、僕の端末は先ほどから何の通知も受信していない。

 静寂だけが支配する図書室で、僕はタブレットの電源を落とし、カバンのポケットに突っ込んだ。


 室内の空気が、どこか澱んでいるように感じられた。

 西日が差し込む角度が深くなり、空気中に舞う無数の埃が黄金色の粒となって可視化されている。静かすぎる。いつもなら彼女が発する微かな衣擦れの音、万年筆のペン先が古い革の手帳を滑る音、あるいは彼女が推理を開始する前に思考の調律を行う懐中時計の規則正しい秒針の音が、この部屋の『時間』を動かしているのだと、不在になって初めて気付かされた。


 図書委員でもない僕が、ただ一人でこの異質な部屋の留守番をしているという状況に、得体の知れない居心地の悪さを覚え始めた。僕には彼女が持つような『物理的観察眼』も、他者の感情を読み解く『情動の視座』もない。ただの凡人である僕がここにいる理由は、彼女が拾い上げてきた謎解きに巻き込まれ、結果としてその特異な能力の目撃者となっているに過ぎないからだ。


 妙な胸騒ぎがして、僕は書架から離れ、出入り口の扉の方へと歩み寄ろうとした。

 その矢先だった。


 不意に、図書室の重厚な扉が軋む音を立てた。


 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、ゆっくりと、ひどく慎重な動作で隙間が広がる。僕は足を止め、入り口へと視線を向けた。

 そこに立っていたのは、間違いなく如月(きさらぎ)瑠璃(るり)だった。


 漆黒の艶やかなロングストレートヘア。小柄ながらも、どんな衣服を着ても一枚の絵画のように様になる洗練された立ち姿。アメジストのように深い紫色の瞳。黙って座っていれば学園中の男子が放っておかないであろうその可憐な容姿は、今日も健在だった。言い寄る男たちは数知れないが、彼女と話した途端に論破されて泣きながら去っていくか、立ち直れなくなるかのどちらかだ。


 だが、入り口に立つ彼女の姿を見た瞬間、僕の全身の産毛が総毛立った。

 何かが、決定的に違った。


 僕の喉の奥で、かけるつもりだった「遅かったですね」という間の抜けた言葉が、硬い石ころのように詰まって落ちた。直感が、生存本能に近いレベルで強烈なアラートを鳴らしていた。今の彼女に、軽々しく話しかけてはいけない。


 如月さんは、いつも身に纏っている『絶対的な自信』や『他者を寄せ付けない傲慢さ』といったオーラを、完全に消失させていた。

 彼女の美しい眉間には酷く深い苦悩の皺が刻まれ、その顔色は上質な蝋細工のように青白い。視線は僕を捉えるでもなく、虚空を彷徨うでもなく、ただ一点――彼女の両手に抱えられた『あるモノ』にのみ、ひたすらに注がれていた。


 それは、古びた木製のメトロノームだった。


 音楽室にあるようなプラスチック製の真新しいものではない。外装の木材は所々塗料が剥げ落ちてささくれ立ち、金属のパーツには黒ずんだ錆が浮いている。かなりの年月を経た代物であることは、素人の僕の目にも明らかだった。

 なぜ、彼女がそんなガラクタ……いや、彼女にとっては『ルーツを探るべき拾得物』なのだろうが、なぜあのような表情でそれを抱えているのか。


 僕は息を潜め、彼女の様子を瞬きすら忘れて目で追った。

 如月さんは、メトロノームを抱える細い腕に、かすかな震えを帯びていた。彼女の視線には、かつて僕が見たことのない、そして彼女に最も似つかわしくない感情が宿っている。


 それは『探求心』でも『好奇心』でもない。

 ありえない場所に落ちているありえないモノの来歴を、物理的観察眼をもって冷徹に暴き出す天才が見せる狩人の目ではなかった。

 強いて言葉にするならば、それは『慈しみ』だった。


 こわれものに触れるような、あるいは二度と戻らない過去の記憶を愛おしむような、ひどく無防備で、痛切な眼差し。情動の視座を用いて他者の悲しみや怒りといった感情を『理解』することはあっても、決して『共感』して寄り添うことのない彼女が、ただの古い機械に対して、そんな人間臭い視線を向けている。彼女にとって他者の救済などルーツ解明の副産物に過ぎないはずなのに、今の彼女は、自らがそのメトロノームに救いを求めているかのように見えた。


 如月さんは、部屋の隅に立つ僕の存在に気付いているはずだった。だが、彼女のアメジストの瞳は僕を通り越し、何の興味も示さなかった。

 彼女は上履きの音すら立てずに部屋の中央へとゆっくり歩み寄ると、いつものようにマホガニーのテーブルの前に立った。

 そして、赤子を揺り籠に寝かせるような極めて慎重な手つきで、両手に抱えたメトロノームをテーブルの中央へと静かに置いた。


 コト、という硬質な音が、図書室の澱んだ静寂を破って響いた。


 僕は無意識のうちに姿勢を正し、呼吸を殺していた。

 いつもなら、彼女はここから純白の手袋をはめ、銀のルーペを取り出し、あの美しい懐中時計の秒針で自身の思考を『調律』する儀式に入る。そして冷徹な声で、そのモノがどこから来て、誰の手に渡り、なぜそこにあったのかという論理的な謎解きを開始するはずだ。


 しかし、如月さんは動かなかった。


 テーブルに置かれたメトロノームを見つめたまま、文字通り精巧な彫像のように静止してしまったのだ。

 手袋もはめず、ルーペも持たず、手帳も開かない。ただ、じっと視線を落としている。

 時折、彼女の細い肩が浅い呼吸に合わせて微かに上下するだけで、それ以外は一切の動きがない。西日が彼女の黒髪を鈍く赤く染め上げ、テーブルの上のメトロノームの影を、床に向かって長く不気味に伸ばしていく。


 室内に、途方もなく重い静寂が降り積もっていく。

 それは物理的な質量を伴っているかのように、僕の肺をじわじわと圧迫した。

 息苦しい。

 彼女が発する、声にならない圧倒的な感情の渦が、この図書室の空気を別の成分に変えてしまったかのようだった。鼓膜の奥で、自分の心臓の音だけがひどく大きく鳴り響いている。


 僕は書架の影から、たまらず一歩だけ足を踏み出した。

 上履きのゴムが床の板を擦る音が、やけに大きく響く。それでも、如月さんは身じろぎ一つしない。

 この異常な空気感の中で、僕が取るべき行動は何なのか。助手を自称させられている身として、彼女の思考を妨げることは最大の禁忌だ。彼女の推論に割り込むことは許されない。しかし、このまま彼女が自身の内側に閉じこもり、ひっそりと壊れてしまうのではないかという錯覚すら覚えるほどの危うさが、今の如月さんにはあった。


 思考を猛スピードで巡らせた末、僕は最も無難で、かつ彼女の意志を確認できる言葉を選ぶことにした。


「如月さん。もし、お邪魔でしたら僕、外しましょうか?」


 自分の声が、ひどく上擦って頼りなく聞こえた。

 静寂の海に小石を投げ入れたような僕の声に、如月さんは数秒の遅れをもって反応した。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女の首がこちらへ向く。

 深い紫色の瞳が、僕を捉えた。


 その瞳孔の奥には、僕の姿など映っていないように見えた。僕という人間を透過して、もっと深く、暗く、途方もない過去の風景を見据えているような瞳だった。

 だが、彼女の口から紡がれた言葉は、僕が予想したような「口を開くな」といった罵倒でも、完全な無視でもなかった。


「……駅前にある『和盆堂』という和菓子屋へ行き、茶菓子を買ってくるのじゃ」


 低く、ひび割れた声。

 いつもの張り詰めた糸のような緊張感はなく、ただ事実だけを伝える平坦な響きだった。


「和盆堂、ですか」


 僕は短く反芻した。

 部屋の隅にある戸棚の中には、数日前に彼女が取り寄せたばかりの高級な焼き菓子がまだ手付かずで残っているはずだ。それに、彼女の好きな硬めのプリンも、学園近くの洋菓子店で手に入る。茶菓子を切らしているわけがないのだ。

 おまけに和盆堂がある駅前までは、学園西の正門からバスを使って向かう必要がある距離だ。往復すれば、それなりの時間がかかる。


 つまり、彼女は『茶菓子が欲しい』のではなく、『一人になる時間が必要だ』と僕に言っているのだ。それも、僕のような凡人が決して立ち入ってはならない、彼女だけの深い思考の海へ潜るために。今の彼女は、他者の目を必要としていない。


 僕はそれ以上、何も追及しなかった。

 ここで理由を聞き出そうとするのは、単なる野次馬の傲慢であり、越権行為だ。天才である彼女の抱える領域に、僕の持っている浅薄な知識など何の役にも立たない。彼女が下僕である僕に『席を外せ』という明確な命令を下したのだから、僕はそれに従うまでだ。


「わかりました」


 僕は短く応え、書架の横に置いてあった自分のカバンを肩に掛けた。


「いってきます」


 背を向けて出入り口へと歩き出す僕に、彼女からの返事はなかった。ただ、背後からはメトロノームを見つめる彼女の、かすかに震えるような微弱な呼吸音だけが聞こえていた。

 図書室の重い扉に手をかけ、廊下へと出た後、僕はゆっくりと扉を閉めた。

 わずかな隙間から見えた最後の光景――それは、夕闇が迫る薄暗い図書室の中で、古びたメトロノームと無言で対峙し続ける如月瑠璃の、ひどく孤高で、そして痛々しいほどに小さな背中だった。


 カチャリと、錆びた蝶番が噛み合う音が響き、扉が完全に閉まる。

 僕は旧校舎の冷たい廊下に取り残され、しばらくの間、その場から動くことができなかった。

 扉の向こう側で、彼女がどんな顔をしてあの古い機械と向き合っているのか、想像することすら恐ろしかったからだ。



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