言わない温度
彼女が大阪へ行ってから、会社の中の空気が少し変わった。
俺が変わったのかもしれない。
以前は気にしなかった声や視線を、妙に意識するようになった。
「佐藤さん、これ確認お願いできますか?」
総務の相沢が、俺のデスクの横に立っていた。
二十代半ば。落ち着いた雰囲気で、笑うと目尻が柔らかくなる。前からいたはずなのに、最近よく話すようになった。
「ここ、式ずれてるよ」
俺が言うと、相沢は少し身をかがめて画面を見る。
距離が近い。
「ほんとだ。助かります」
前より、自然に近い。
それが偶然なのかどうか、分からない。
ある日の昼休み、社内の休憩スペースで二人きりになった。
「最近、帰り遅いですよね」
相沢が言う。
「そうか?」
「前より少し」
俺は曖昧に笑う。
「仕事増えたから」
本当は、遠距離が始まってから、夜が少し長いだけだ。
相沢は紙コップを両手で持ちながら、少し考えるような顔をした。
「遠距離って、大変そうですね」
「なんで知ってる」
「噂です」
噂になるほど話した覚えはない。
「まあ、そうだな。大変は大変」
相沢は、しばらく黙った。
「寂しくないですか」
まっすぐな問いだった。
俺は少し考えてから答える。
「寂しいよ」
嘘はつかない。
相沢は小さく頷いた。
「そうですよね」
それ以上は何も言わない。
でも、その沈黙が少し長かった。
帰り道。
駅までの道を歩いていると、後ろから声がした。
「偶然ですね」
振り向くと相沢だった。
偶然にしては、三日連続だ。
「最近、よく会うな」
「たまたまです」
そう言いながら、俺の歩幅に合わせる。
「大阪、どのくらい会いに行くんですか?」
「まだそんなに。向こうも忙しいし」
「……そうなんですね」
言葉が、少しだけ落ちた。
その落ち方が、気になる。
ある日、残業で二人だけになった。
静かなフロア。蛍光灯の音だけが響く。
「佐藤さん」
「ん?」
「もし、遠距離じゃなかったら、どうしてました?」
突然の質問だった。
「どうって?」
「もっと、楽でした?」
俺はキーボードを打つ手を止める。
「楽かどうかは分からない。でも、今は今でいい」
相沢は視線を落としたまま、ゆっくり言う。
「佐藤さんって、ちゃんと選びますよね」
「何を」
「人」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
「……どういう意味だ」
相沢は顔を上げる。
でも、すぐには答えない。
「自販機、知ってます」
俺の心臓が止まる。
「何の話だ」
「駅前の。ブラック持って立ってましたよね」
視界が、少しだけ揺れる。
「見てたのか」
「何回か」
さらっと言う。
でも、さらっとしていない。
「変な人だなって思ってました」
「今も?」
「今は……」
そこで言葉が途切れる。
沈黙が落ちる。
「今は?」
俺が聞くと、相沢は少し笑う。
「優しい人だなって」
その目は、冗談の目じゃなかった。
でも、「好き」とは言わない。
言わないまま、距離だけが少し縮む。
改札前。
俺は立ち止まる。
「相沢」
「はい」
「俺、彼女を選んでるからな」
牽制ではない。
確認だ。
相沢はすぐに頷いた。
「知ってます」
「じゃあなんで、ああいう話をする」
相沢は少しだけ空を見上げた。
「分からないです」
正直だった。
「たぶん……寂しそうに見えるから」
胸が痛む。
「余計なお世話かもしれないですけど」
「余計だな」
言いながら、少し笑う。
相沢も笑う。
「ですよね」
それで終わる。
告白はない。
でも、確かにそこに感情がある。
まだ形にならない、でも確実に本気へ向かっている温度。
俺は改札を抜けながら思う。
恋は、はっきり言葉にされたものだけじゃない。
言われないまま、静かに育つもののほうが、ずっと厄介だ。
そして俺は知っている。
相沢は、軽い気持ちで近づいているわけじゃない。
まだ「好き」とは言わない。
でもその時間は、確実に近づいている。
ブラックを一口飲む。
今日の苦さは、少し複雑だった。




