怖いまま、続ける
大阪へ行ってから三か月が過ぎた。
最初のうちは、毎晩のようにビデオ通話をしていた。画面越しの彼女は、少しだけ大人びて見える。新しい部署、知らない同僚、慣れない土地。話題は尽きない。
けれど時間が経つにつれ、通話の頻度は少しずつ減った。
忙しいのは分かっている。俺だって仕事はある。
それでも、通話が短くなった夜は、ブラックがやけに苦く感じる。
――「今日、遅くなるね」
――「明日早いから、もう寝るね」
そんなメッセージが増えた。
疑っているわけじゃない。けれど、不安は理屈では消えない。
ある金曜日、俺は思い立って新幹線に乗った。
事前に伝えなかったのは、驚かせたかったから半分、怖かったから半分だ。
大阪駅に着き、彼女の会社近くのカフェに入る。あの東京のカフェと少し似ている、ガラス張りの店。
彼女は、そこで同僚らしき男と向かい合っていた。
笑っている。
自然な笑顔。
胸の奥がざわつく。
理性は言う。ただの同僚だ、と。
でも感情は、静かにざわめく。
俺は店の外で立ち止まった。
中に入るべきか、引き返すべきか。
数秒迷ったあと、ドアを押した。
ベルが鳴る。
彼女が顔を上げる。
一瞬、目が見開かれる。
「……佐藤さん?」
同僚の男もこちらを見る。
俺は、できるだけ穏やかに笑った。
「近くに来たから、顔見に」
嘘だ。顔を見るために来た。
彼女は立ち上がった。
「ごめん、ちょっと」
同僚に一言告げ、俺のほうへ来る。
店の外に出ると、彼女は俺を見上げた。
「どうしたんですか、急に」
「会いたくなって」
正直に言う。
彼女は少し困った顔をする。
「嬉しいけど……びっくりします」
「ごめん」
俺は少し目を逸らした。
「……嫉妬しました」
彼女は驚いたように目を丸くする。
「え?」
「中で、笑ってるの見て」
言葉にすると、情けない。でも隠すよりましだ。
彼女は数秒黙ってから、小さく笑った。
「正直ですね」
「我慢するよりいいかと思って」
彼女は、俺の腕を軽く叩いた。
「ただの上司です。仕事の相談」
「分かってる」
「でも?」
「でも、嫌だった」
彼女は、少しだけ真剣な顔になる。
「佐藤さん、前に言いましたよね。縛らないって」
「分かってる。縛らない。でも、嫉妬はする」
彼女は、ゆっくり頷いた。
「それなら、私もします」
「え?」
「東京で、佐藤さんが誰かと笑ってたら、嫌です」
胸の奥が、静かに温まる。
「じゃあ、どうします」
俺が聞くと、彼女は少し考えてから言った。
「ちゃんと、言いましょう」
「なにを」
「嫌だった、とか、不安だった、とか。勝手に想像して、勝手に怒らないこと」
俺は頷いた。
「約束」
彼女は小さく手を差し出した。
俺はその手を握る。
カフェのガラス越しに、同僚がこちらをちらりと見ている。
俺は深呼吸した。
「俺、来てよかった」
「なんで」
「怖いまま続けるって、こういうことなんだなって分かった」
彼女は笑った。
「ブラック、飲みます?」
「今日は甘いのにする」
「珍しいですね」
「嫉妬のあとなんで」
彼女は声を出して笑った。
その笑い声で、胸のざわつきがほどける。
夜、彼女の部屋の前まで送る。
「急に来るのは、次からは連絡してくださいね」
「はい」
「でも」
彼女は少しだけ照れたように言う。
「嬉しかったです」
俺は、その一言で十分だった。
キスは短い。
でも、前よりも確かだ。
別れ際、彼女が言う。
「遠距離、続きますかね」
前にも聞いた言葉。
俺は答える。
「続けます」
彼女は頷く。
「怖いままで?」
「怖いままで」
新幹線に乗る帰り道、窓に映る自分の顔は、少しだけ自信があるように見えた。
ブラックを買う。
一口飲む。
やっぱり苦い。
でも今は、その苦さが、ちゃんと味になる。
待つだけの恋は終わった。
でも、会いに行く恋は、まだ続いている。




