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待たない約束

キスをした夜から、世界はほんの少しだけ柔らかくなった。


劇的に何かが変わったわけではない。翌朝も同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ会社に向かう。それでも、隣に彼女がいるという事実が、日常の輪郭を静かに変えていた。


けれど、恋が始まると同時に、現実も動き出す。




ある日の昼休み、彼女から短いメッセージが届いた。


――「今日、少し話せますか?」


いつもなら「カフェで?」と続くところだが、それがない。胸がざわつく。


仕事終わり、俺たちは会社近くの公園に座った。春の風が少し強い。


「異動の話が出てて」


彼女が切り出した。


俺は一瞬、言葉を失った。


「どこに」


「大阪支社。正式じゃないけど、たぶん決まると思います」


頭の中で距離を計算する。新幹線で二時間半。毎日会える距離ではない。


「いつから」


「来月」


思ったより早い。


彼女は続けた。


「まだ断れる可能性はあります。でも、キャリア的にはすごく良い話で」


俺は頷いた。


断ってほしい、と言いたい気持ちが喉まで上がる。


でも、それは言えない。


「行きたいんですよね」


彼女は少し驚いた顔をした。


「分かります?」


「あなた、そういう顔してる」


挑戦する前の、少し怖くて、でも前を向いている顔。


彼女は静かに笑った。


「……行きたいです」


その一言で、俺の中の迷いは消えた。


「じゃあ、行ってください」


自分でも驚くほど、はっきり言えた。


彼女は目を見開く。


「いいんですか」


「よくないけど」


俺は正直に言う。


「でも、止めたくない」


恋は、隣にいることだけじゃない。


隣にいなくても、応援できるかどうかだ。




それからの一か月は、やけに早かった。


カフェに行く回数が増え、自販機の前に立つことも、少し増えた。


「ここ、なくならないですよね」


彼女が自販機を見上げる。


「なくなっても、俺は覚えてます」


「忘れないでくださいね」


「忘れるわけない」


出発前夜、彼女は俺の腕の中で静かに言った。


「遠距離、続きますかね」


「分からない」


正直に答える。


「でも、続けたい」


彼女は少し笑った。


「怖いまま、始めたんですもんね」


「ああ」


「じゃあ、怖いまま、続けましょう」




彼女が大阪へ行ってから、自販機の前はまた一人になった。


ブラックを買っても、隣に笑う人はいない。


けれど、不思議と寂しさだけではなかった。


スマホが震える。


――「着きました」

――「ちゃんと食べてますか?」

――「今日もブラックですか?」


会えない時間が、会えた時間を薄めるわけじゃないと、少しずつ分かってきた。


ある夜、俺は自販機の前で写真を撮った。


何の変哲もない自販機。


それを彼女に送る。


――「原点」


すぐに返信が来た。


――「懐かしい」

――「戻ったら、ここでまた待っててくれますか?」


俺は画面を見つめた。


待つ、という言葉が、もう昔の意味ではないことに気づく。


――「待たない」

――「迎えに行く」


しばらく既読がつかない。


数分後、返信が来た。


――「ずるいですね」


画面越しでも、彼女の笑顔が浮かぶ。


ブラックを一口飲む。


やっぱり苦い。


でも、あの頃の苦さとは違う。


今は、その先にちゃんと甘さがあると知っている。


自販機の光の下で、俺は思う。


恋は、隣にいる時間だけでできているわけじゃない。


離れても、続けようとする意思でできている。


そして俺は、もう待つだけの男じゃない。


迎えに行く男になったのだから。


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