ブラックの味
始まりは、静かだった。
付き合おう、という言葉はその夜のうちに交わした。改札の前で、周りに人がいる中で、彼女が小さく「お願いします」と言って、俺が「こちらこそ」と返した。
拍子抜けするほど、穏やかな始まりだった。
それでも翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥がじんわりと温かかった。夢じゃない、と確認するみたいにスマホを見る。昨夜のやりとりが残っている。
――「無事に帰りました」
――「俺も。おやすみ」
――「おやすみなさい」
たったそれだけで、世界が少し違う。
最初の一週間は、どこかぎこちなかった。
会社では今まで通り、名字で呼び合う。廊下ですれ違えば、他の人と同じように軽く会釈するだけ。
でも、エレベーターに二人きりになった瞬間、空気が変わる。
「……昨日、ちゃんと寝られました?」
彼女が小声で聞く。
「緊張して、少しだけ」
「私もです」
そんな些細なやりとりが、やけに特別に感じる。
ある日の夜、俺たちはまたあのカフェにいた。
「不思議ですね」
彼女が言う。
「なにが」
「前は、ここで向かい合うの、緊張してたのに」
「今は?」
「今は……安心します」
その一言が、嬉しかった。
でも同時に、少しだけ怖くなった。
安心は、失うと痛い。
俺はカップを持ちながら、ゆっくり言った。
「俺、安心されるのは嬉しいけど、依存はしてほしくないです」
彼女が目を丸くする。
「依存?」
「俺も、しないように気をつけたい」
彼女はしばらく考えてから、頷いた。
「前の人とは、そこが崩れたんです」
「……重かった人?」
「はい。最初は優しかった。でも、だんだん、私が何をしてるか全部知りたがって。友達と会うだけで不機嫌になって」
胸がざわつく。
俺は、そんなふうにはなりたくない。
でも、正直に言えば、彼女が他の男と笑っていたら、穏やかでいられる自信はない。
「俺も」
俺は正直に言った。
「嫉妬、しますよ。たぶん」
彼女は驚いた顔をした。
「でも、それであなたを縛るのは違うと思う」
「……本当にできますか?」
「できるように、頑張ります」
彼女は小さく笑った。
「正直ですね」
「今さら格好つけても、すぐばれますから」
彼女は、テーブルの下で俺の手を握った。
「佐藤さんは、ちゃんと話してくれるから、怖くないです」
その言葉に、少し救われた。
季節は少しずつ進み、夜風は柔らかくなった。
自販機の前を通るたびに、彼女が言う。
「ここから始まったんですよね」
「始まりっていうか、俺の片思いの現場です」
「片思いじゃなかったかもしれませんよ」
俺は足を止める。
「どういう意味ですか」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「私も、ちょっとだけ、探してました」
「……俺を?」
「ブラック持ってる変な人を」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「なんで言わなかったんですか」
「言ったら、終わりそうだったから」
「終わる?」
「始まる前に、壊れそうで」
彼女の言葉は、いつも少し慎重だ。
俺は、その慎重さごと好きになっている。
ある日、彼女の家の近くまで送った帰り道。
「今日、帰りたくないですね」
彼女がぽつりと言った。
心臓が跳ねる。
「それは……」
「誤解しないでくださいね」
彼女は慌てて付け足す。
「ただ、こうやって歩いてる時間が、好きなんです」
俺は、少しだけ安心して、でも少しだけ残念で、笑った。
「俺もです」
彼女は立ち止まり、俺のほうを向いた。
「佐藤さん」
「はい」
「ちゃんと、好きになってよかったです」
その言葉は、前よりもはっきりしていた。
逃げ道のない「好き」。
俺は、彼女の頬にそっと触れた。
彼女は目を閉じる。
キスは、派手じゃなかった。
静かで、少し震えていて、でも確かだった。
唇が離れたあと、彼女は少し照れたように笑う。
「ブラックの味、します」
「甘いほうがよかったですか」
「今はこれでいいです」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
俺は思う。
待っていた時間も、怖がっていた時間も、全部必要だったのかもしれない。
恋は、突然始まるものじゃない。
少しずつ、ブラックみたいに苦くて、でも気づけば癖になる。
俺は彼女の手を握った。
今度は、待つためじゃない。
一緒に歩くために。




