怖いまま、始める
その日から、自販機の前には立たなくなった。
立たなくなった、というより、立つ理由が変わった。待つためではなく、並んで話すために立つようになった。けれど多くの日は、駅の反対側のカフェで落ち合うようになった。
「今日もブラックですか」
彼女が笑う。
「今日はラテです」
「珍しいですね」
「少し、甘い気分なので」
彼女は「ずるい」と言いながら笑う。その「ずるい」は、もう拒絶ではない。どこか、くすぐったい響きだ。
付き合おう、という言葉は、まだ言っていない。
けれど、毎日「明日は何時に?」と確認し合う関係は、もう偶然ではない。
ある夜、カフェの窓に雨が打ちつけていた。半年以上前、俺が自販機の前で彼女を待っていたのと同じような雨。
「雨の日、思い出しますね」
彼女が言った。
「なにを」
「佐藤さんが、びしょびしょになって立ってた日」
「あれは偶然です」
「嘘ですね」
彼女はすぐに見抜く。
俺は笑った。
「あの頃は、会えるかどうか分からなかった」
「今は?」
「会えるって分かってる」
彼女はカップを両手で包みながら、少しだけ真剣な顔をした。
「私、まだちょっと怖いです」
「なにが」
「うまくいきすぎること」
胸の奥に、静かな痛みが走る。分かる気がした。
「壊れるのが怖い?」
彼女は頷いた。
「好きになったら、失うのが怖くなるから」
“好き”という言葉が、初めて彼女の口から出た。主語は曖昧だけれど、それでも十分だった。
俺は、少し息を吸って言った。
「壊れる可能性は、たぶんある」
彼女が驚いたように目を上げる。
「でも、壊れないように何もしないよりは、壊れるかもしれないけど一緒にいたい」
「……佐藤さんは、怖くないんですか」
「怖いですよ」
正直に言う。
「毎日怖い。今日来なかったらどうしよう、とか、嫌われたらどうしよう、とか」
彼女は、少し目を細めた。
「そんなふうに見えません」
「見せてないだけです」
本当は、今も少し震えている。
彼女は、ゆっくりと俺のほうへ手を伸ばした。
テーブルの上。
ほんの数センチの距離。
触れていいのか、触れてはいけないのか、分からない距離。
「じゃあ」
彼女は小さく言った。
「怖いまま、始めませんか」
心臓が、静かに大きく鳴る。
「……始めるって?」
彼女は、俺の手の甲に、そっと触れた。
一瞬だけ。
でも、はっきりと。
「ちゃんと、好きになるってこと」
世界が、少しだけ音を失った。
俺は彼女の手を見た。細い指。少し冷たい。
俺は、その手を包むように握った。
強くしすぎないように。逃げ道を塞がないように。
「俺は、もう好きです」
言葉にするのは、簡単ではなかった。でも、今言わなければ、また自販機の前に戻ってしまう気がした。
彼女は、少しだけ目を潤ませて笑った。
「知ってました」
「ばれてましたか」
「毎日ブラック持って立ってた人ですから」
俺は笑った。情けないくらい、安心した笑いだった。
カフェの外で、雨はまだ降っている。
でも今日は、あの日みたいに寒くない。
店を出て、駅まで並んで歩く。
改札の前で、彼女が立ち止まる。
「ねえ」
「はい」
「明日も、会えますか」
その問いに、俺は迷わなかった。
「会います」
待つ、じゃない。
会う。
彼女は頷いて、改札を抜ける。
俺はその背中を見送りながら、初めて思った。
待っていた時間も、悪くなかった。
でもこれからは、待つんじゃない。
並んで歩く。
それが、俺たちの始まりだった。




