表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

怖いまま、始める

その日から、自販機の前には立たなくなった。


立たなくなった、というより、立つ理由が変わった。待つためではなく、並んで話すために立つようになった。けれど多くの日は、駅の反対側のカフェで落ち合うようになった。


「今日もブラックですか」


彼女が笑う。


「今日はラテです」


「珍しいですね」


「少し、甘い気分なので」


彼女は「ずるい」と言いながら笑う。その「ずるい」は、もう拒絶ではない。どこか、くすぐったい響きだ。


付き合おう、という言葉は、まだ言っていない。


けれど、毎日「明日は何時に?」と確認し合う関係は、もう偶然ではない。


ある夜、カフェの窓に雨が打ちつけていた。半年以上前、俺が自販機の前で彼女を待っていたのと同じような雨。


「雨の日、思い出しますね」


彼女が言った。


「なにを」


「佐藤さんが、びしょびしょになって立ってた日」


「あれは偶然です」


「嘘ですね」


彼女はすぐに見抜く。


俺は笑った。


「あの頃は、会えるかどうか分からなかった」


「今は?」


「会えるって分かってる」


彼女はカップを両手で包みながら、少しだけ真剣な顔をした。


「私、まだちょっと怖いです」


「なにが」


「うまくいきすぎること」


胸の奥に、静かな痛みが走る。分かる気がした。


「壊れるのが怖い?」


彼女は頷いた。


「好きになったら、失うのが怖くなるから」


“好き”という言葉が、初めて彼女の口から出た。主語は曖昧だけれど、それでも十分だった。


俺は、少し息を吸って言った。


「壊れる可能性は、たぶんある」


彼女が驚いたように目を上げる。


「でも、壊れないように何もしないよりは、壊れるかもしれないけど一緒にいたい」


「……佐藤さんは、怖くないんですか」


「怖いですよ」


正直に言う。


「毎日怖い。今日来なかったらどうしよう、とか、嫌われたらどうしよう、とか」


彼女は、少し目を細めた。


「そんなふうに見えません」


「見せてないだけです」


本当は、今も少し震えている。


彼女は、ゆっくりと俺のほうへ手を伸ばした。


テーブルの上。


ほんの数センチの距離。


触れていいのか、触れてはいけないのか、分からない距離。


「じゃあ」


彼女は小さく言った。


「怖いまま、始めませんか」


心臓が、静かに大きく鳴る。


「……始めるって?」


彼女は、俺の手の甲に、そっと触れた。


一瞬だけ。


でも、はっきりと。


「ちゃんと、好きになるってこと」


世界が、少しだけ音を失った。


俺は彼女の手を見た。細い指。少し冷たい。


俺は、その手を包むように握った。


強くしすぎないように。逃げ道を塞がないように。


「俺は、もう好きです」


言葉にするのは、簡単ではなかった。でも、今言わなければ、また自販機の前に戻ってしまう気がした。


彼女は、少しだけ目を潤ませて笑った。


「知ってました」


「ばれてましたか」


「毎日ブラック持って立ってた人ですから」


俺は笑った。情けないくらい、安心した笑いだった。


カフェの外で、雨はまだ降っている。


でも今日は、あの日みたいに寒くない。


店を出て、駅まで並んで歩く。


改札の前で、彼女が立ち止まる。


「ねえ」


「はい」


「明日も、会えますか」


その問いに、俺は迷わなかった。


「会います」


待つ、じゃない。


会う。


彼女は頷いて、改札を抜ける。


俺はその背中を見送りながら、初めて思った。


待っていた時間も、悪くなかった。


でもこれからは、待つんじゃない。


並んで歩く。


それが、俺たちの始まりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ