表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

待つから、会うへ

金曜日は、やけに長かった。


朝から落ち着かない。会議の資料を作りながら、何度も時計を見る。昼休みにはスマホを握りしめて、意味もなく彼女との社内チャットの履歴を遡った。仕事のやり取りばかりで、個人的な言葉はほとんどない。


それでも、たった数行の「ありがとうございます」とか、「助かりました」とかが、妙に愛しく見える。


俺は、三十を過ぎてから、こんなふうに一日の終わりを待ったことがあっただろうか。


十九時五分前、駅の反対側のカフェに入った。


ガラス張りの店内は明るくて、外の夜を少しだけ遠ざけている。自販機の前と違って、ここには椅子がある。待つことを前提にした空間だ。


俺は奥の二人席に座った。窓際。彼女が入ってきたらすぐ分かる位置。


十九時。


十九時三分。


ドアが開いた。


ネイビーではない、淡いベージュのコート。髪は軽く巻かれている。いつもの彼女より、ほんの少しだけ、特別な彼女。


目が合った。


彼女は小さく手を振って、こちらへ歩いてくる。


「待ちました?」


「五分くらいです」


「十分じゃないですか」


「十分でも、五分です」


彼女は笑って、向かいに座った。


コーヒーを注文する。俺はブラック。彼女はカフェラテ。


「なんか、変な感じですね」


彼女が言う。


「なにが」


「いつも立って話してたから。座って向かい合うと、ちゃんと約束みたいで」


ちゃんと約束。


その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。


「約束ですよ」


俺は言った。


「今日は、ちゃんと」


彼女は、カップの縁を指でなぞった。


「佐藤さんって、ずっとああやって待ってたんですか」


「ああやって?」


「自販機の前」


「……ほぼ毎日」


正直に言う。もうごまかす意味はない。


彼女は少し目を丸くして、それから息を吐いた。


「なんでそこまで」


「分からないです」


俺はカップを持ち上げた。


「会えるかもしれない、って思うだけで、仕事終わりが少し楽しみだったんです」


「もし、私が来なかったら?」


「来ない日もありました」


「その日は?」


「帰りました」


彼女は少しだけ寂しそうに笑った。


「それ、つらくないですか」


「つらいです」


即答だった。


「でも、来る日があるから」


彼女は黙った。カフェの中は静かで、食器の触れ合う音がやけに大きく聞こえる。


「私、怖かったんです」


彼女がぽつりと言った。


「なにが」


「待たれること」


俺は黙って続きを待つ。


「前に付き合ってた人が、すごく重くて。連絡が少し遅れるだけで怒って。帰り道を勝手に待ってたりして。だから、誰かが自分のために待ってるって、ちょっと怖くて」


胸が締めつけられる。


俺は、その男とは違う、と言いたい。けれど言葉だけでは足りない。


「俺は」


ゆっくり言葉を選ぶ。


「あなたを縛りたいわけじゃないです」


彼女が顔を上げる。


「会えたら嬉しい。でも、会えなくても、あなたがちゃんと元気なら、それでいい」


「本当に?」


「本当に。待つのは、俺が勝手にやってただけですから」


彼女の目が、少しだけ潤んだように見えた。気のせいかもしれない。でも、気のせいでもいい。


「……ずるいですね」


またその言葉だ。


「なんで」


「そんなふうに言われたら、私のほうが会いたくなるじゃないですか」


心臓が、静かに跳ねる。今度は暴れない。ただ、確かにそこにある。


「会いたいんですか」


俺は、逃げずに聞いた。


彼女は、数秒黙って、それから小さく頷いた。


「会いたいです」


その一言で、半年分の自販機の光が報われた気がした。


「じゃあ」


俺は、ゆっくり言う。


「自販機、卒業しますか」


彼女が笑う。


「寒いですもんね」


「ちゃんと約束して、ちゃんと会うほうが、いい」


「はい」


彼女はカップを持ち上げた。


「じゃあ、これからは、待つんじゃなくて、会いましょう」


会いましょう。


その言葉は、恋の始まりの音がした。


カフェを出ると、夜風は少し冷たい。でも、もう寒くはなかった。


駅までの道、俺たちは並んで歩く。


自販機の前を通る。


俺は立ち止まらなかった。


彼女が、そっと俺の袖をつまんだ。


ほんの少しだけ。


その小さな仕草で、俺は確信した。


待つだけの恋は、終わった。


これからは、二人で歩く恋になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ