待つから、会うへ
金曜日は、やけに長かった。
朝から落ち着かない。会議の資料を作りながら、何度も時計を見る。昼休みにはスマホを握りしめて、意味もなく彼女との社内チャットの履歴を遡った。仕事のやり取りばかりで、個人的な言葉はほとんどない。
それでも、たった数行の「ありがとうございます」とか、「助かりました」とかが、妙に愛しく見える。
俺は、三十を過ぎてから、こんなふうに一日の終わりを待ったことがあっただろうか。
十九時五分前、駅の反対側のカフェに入った。
ガラス張りの店内は明るくて、外の夜を少しだけ遠ざけている。自販機の前と違って、ここには椅子がある。待つことを前提にした空間だ。
俺は奥の二人席に座った。窓際。彼女が入ってきたらすぐ分かる位置。
十九時。
十九時三分。
ドアが開いた。
ネイビーではない、淡いベージュのコート。髪は軽く巻かれている。いつもの彼女より、ほんの少しだけ、特別な彼女。
目が合った。
彼女は小さく手を振って、こちらへ歩いてくる。
「待ちました?」
「五分くらいです」
「十分じゃないですか」
「十分でも、五分です」
彼女は笑って、向かいに座った。
コーヒーを注文する。俺はブラック。彼女はカフェラテ。
「なんか、変な感じですね」
彼女が言う。
「なにが」
「いつも立って話してたから。座って向かい合うと、ちゃんと約束みたいで」
ちゃんと約束。
その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。
「約束ですよ」
俺は言った。
「今日は、ちゃんと」
彼女は、カップの縁を指でなぞった。
「佐藤さんって、ずっとああやって待ってたんですか」
「ああやって?」
「自販機の前」
「……ほぼ毎日」
正直に言う。もうごまかす意味はない。
彼女は少し目を丸くして、それから息を吐いた。
「なんでそこまで」
「分からないです」
俺はカップを持ち上げた。
「会えるかもしれない、って思うだけで、仕事終わりが少し楽しみだったんです」
「もし、私が来なかったら?」
「来ない日もありました」
「その日は?」
「帰りました」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「それ、つらくないですか」
「つらいです」
即答だった。
「でも、来る日があるから」
彼女は黙った。カフェの中は静かで、食器の触れ合う音がやけに大きく聞こえる。
「私、怖かったんです」
彼女がぽつりと言った。
「なにが」
「待たれること」
俺は黙って続きを待つ。
「前に付き合ってた人が、すごく重くて。連絡が少し遅れるだけで怒って。帰り道を勝手に待ってたりして。だから、誰かが自分のために待ってるって、ちょっと怖くて」
胸が締めつけられる。
俺は、その男とは違う、と言いたい。けれど言葉だけでは足りない。
「俺は」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「あなたを縛りたいわけじゃないです」
彼女が顔を上げる。
「会えたら嬉しい。でも、会えなくても、あなたがちゃんと元気なら、それでいい」
「本当に?」
「本当に。待つのは、俺が勝手にやってただけですから」
彼女の目が、少しだけ潤んだように見えた。気のせいかもしれない。でも、気のせいでもいい。
「……ずるいですね」
またその言葉だ。
「なんで」
「そんなふうに言われたら、私のほうが会いたくなるじゃないですか」
心臓が、静かに跳ねる。今度は暴れない。ただ、確かにそこにある。
「会いたいんですか」
俺は、逃げずに聞いた。
彼女は、数秒黙って、それから小さく頷いた。
「会いたいです」
その一言で、半年分の自販機の光が報われた気がした。
「じゃあ」
俺は、ゆっくり言う。
「自販機、卒業しますか」
彼女が笑う。
「寒いですもんね」
「ちゃんと約束して、ちゃんと会うほうが、いい」
「はい」
彼女はカップを持ち上げた。
「じゃあ、これからは、待つんじゃなくて、会いましょう」
会いましょう。
その言葉は、恋の始まりの音がした。
カフェを出ると、夜風は少し冷たい。でも、もう寒くはなかった。
駅までの道、俺たちは並んで歩く。
自販機の前を通る。
俺は立ち止まらなかった。
彼女が、そっと俺の袖をつまんだ。
ほんの少しだけ。
その小さな仕草で、俺は確信した。
待つだけの恋は、終わった。
これからは、二人で歩く恋になる。




