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嫌じゃない、という灯り

翌日、俺は本当にブラックを買った。


昨日は勢いだったのかもしれない、と夜中に何度も思った。あんなふうに言ってしまって、もし彼女が来なかったらどうする。もし避けられたらどうする。三十を過ぎた男が、自販機の前で一人取り残される図は、なかなか堪える。


それでも、逃げるわけにはいかなかった。


九時二分。改札の向こうの人波が揺れる。ネイビーのコートは、まだ見えない。


九時五分。


今日は来ないのか、と胸の奥がざわついた瞬間、走るように現れた影があった。


肩までの髪が、少し乱れている。


「ごめんなさい、今日ちょっと遅くて」


息を切らしながら、彼女は笑った。


その笑顔を見た瞬間、俺は自分がどれだけ待っていたかを思い知る。


「大丈夫です。俺、毎日いるんで」


言いながら、自分でも笑ってしまう。毎日いる宣言は、なかなか重い。


彼女は俺の手元を見た。


「今日はちゃんとブラックですね」


「昨日の反省です」


「甘いのが欲しいんじゃなかったんですか」


「今日は苦い気分なんで」


「なにそれ」


彼女が肩を揺らして笑う。俺は、その笑い声を聞くだけで、世界の難易度が少し下がる。


しばらく並んで歩いた。昨日より距離が近い。触れていないのに、触れているみたいな空気がある。


「昨日の話ですけど」


彼女が小さく言った。


俺の心臓が、また跳ねる。


「はい」


「待たれるの、慣れろって言いましたよね」


「言いました」


「慣れるの、ちょっと時間かかりそうです」


悪い意味ではないと分かる声だった。でも、簡単でもない声でもあった。


「急ぎませんよ」


俺は即答した。


「俺、けっこう暇なんで」


「暇なんですか」


「あなたを待つ時間だけは」


言った瞬間、少し気恥ずかしくなる。だが彼女は目を伏せて、黙ったまま歩いた。


駅が近づく。今日も同じ距離で止まるのかと思った、その時。


「ねえ、佐藤さん」


「はい」


「今週の金曜日、空いてますか」


頭が真っ白になった。自分から誘う覚悟はしていた。だが、誘われるとは思っていなかった。


「空いてます」


即答した。反射だった。


彼女は小さく息を吐いた。


「じゃあ、金曜日。駅の反対側に、新しくできたカフェ、知ってます?」


「ああ、あのガラス張りの」


「そこ、行きませんか。待つの、外じゃ寒いから」


待つの、外じゃ寒いから。


その言葉に、胸が熱くなる。


俺はゆっくり頷いた。


「じゃあ、待たなくていい場所で待ちます」


彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「意味わかんないです」


「俺もです」


改札の前に着く。


いつもならここで終わりだ。だが今日は、彼女は一歩だけ近づいた。


「昨日の答え、まだ出してないですよね」


「答え?」


「会いたいからって言われた件」


俺は、息を止めた。


「はい」


「嫌じゃないです」


それだけ言って、彼女は改札を抜けた。


嫌じゃない。


それは「好き」ではない。でも「嫌じゃない」は、扉が閉まっていない証拠だ。


俺はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


嫌じゃない。


その三文字で、世界の色が変わる。


金曜日まで、あと三日。


長い。長いけれど、今までの半年に比べたら、ずっと短い。


自販機の光が、やけに明るい。


俺はブラックを一口飲んだ。


今日は、ちゃんと苦かった。


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