傷跡
ノイが幼少期の頃、一度だけ森に迷い込んだことがあった。
当時十歳だったノイは帰り道も分からないまま、泣いて泣いて泣き喚いてその目は赤く腫れていた。
「怖いよぉ…お腹空いたよぉ」
まだ太陽は空にある。
時間は分からないものの、それだけが救いだったノイは太陽が沈んでいくにつれて涙の量も増えてき、喉は渇き、熱があるのか体から汗が吹き出していた。
声は枯れ果て動くこともできなくなり、腰掛けていた場所で横になる。
すると一気に眠気に襲われ、このまま死んでしまうのかと子供ながらに思った。
「助けて。誰か僕を…見つけて」
掠れた声でそう言い残し、意識を徐々に手放していく。
それからどれだけ時間が経ったのかは分からない。
気づいた頃には癒されるような匂いと温もりに包まれながら心地の良い揺れを感じていた。
流れに全てを預けながら、夢と現実の狭間で小さく目を開ける。
するとぼやける暗闇の中、月に照らされた深紅の髪が見えた。
左右に揺れる髪は、動くたびに鋭く光りたまにノイの頬を掠めた。
熱を感じるんじゃないかと思うほど鮮やかなその赤はノイの瞳にはとても美しく映り、寂しさはもう無い。
「赤い……」
最後の力でそう小さく呟くと瞼が重くなり目を瞑る。
「森へは来るな」
匂いと温もりが薄れていく中で、誰かの声が聞こえた気がした。
次の日いつの間にか家の庭で寝ていたノイは、目が覚めてからも夢の事を忘れることができずにいた。
いつの間にか巻かれていた赤い宝石のついたチョーカーだけがあれは夢ではないのだと教えてくれる。
命の恩人である赤髪の誰かを幼いノイは妖精だと信じ、日々大事にチョーカーを身につけ、もう一度また出会う事だけを願い続けた。
会いたい。いつ会えますか。
森に行けば会えますか?
生きていれば、会えますか?
何年もずっと夢見てる。
また貴方に出会える日を。
「妖精……...さん……」
赤く輝く髪と逞しい体をした男に向かってノイは呟いた。
男はその言葉が聞こえているのかいないのか、ノイを抱きしめたまま黒豹に伏せをするよう指示を促すと、鋭い瞳でノイを見た。
髪と同じ深紅の瞳にノイの姿が反射している。
妖精さんだ。
土や木の匂いが混ざった忘れる事のできない唯一の匂い、あの日見た深紅の髪、そして大きな体が持つ温もり、夢の中で聞いた低い声。
絶対に、彼だ。
彼が……。
「何をしている」
ノイが綻んだその瞬間、男が強くそう言い放った。
喜びに満ちかけていたノイの顔がその冷たい声を聞いて徐々に曇っていく。
「森は危険だ。こんな夜更けに一人で何をしている」
何年も夢見ていた再会は理想とはほど遠く、望んでいた相手は明らかにこちらに怒りを向けていた。
「友達を……探してて」
この森に入った理由を思い出し、憧れの人と出会えた喜びと幼馴染がまだ見つかっていないことへの不安で複雑な気持ちになる。
「今日は俺以外入っていない。もし入っていたら俺の使い達が気付く」
男は視線で黒豹を示した。
先ほどまでノイに襲い掛かろうとしていた男の『使い』は豹変したかのように毛繕いをしている。
体が緊張していたのかノイが深く息を吐くと同時に全身の力が抜けた。
「良かった、食べらるかと思った」
「こいつらは人間は食わない。ただ動けないように捕まえるだけだ」
さらっと怖い事を言われ、再度恐怖で鳥肌が立つ。
「立てるか?」
その声に顔を見上げると男との距離の近さに恥ずかしくなり、全身を一気に赤く染めてノイは勢いよく地面から立ち上がった。
しかし立ち上がれたと思った瞬間、足腰から力が抜けて元いた場所へと尻餅をつく。
「うわぁ!」
どすんという音がするんじゃないかと思うほど盛大に転んだノイは自分の体の異常に混乱した。
さっきの恐怖で腰が抜けた?
やっと再会できた相手に醜態を晒してしまった恥ずかしさで、更に身体中に熱が巡って居た堪れなくなる。
男はそんなノイを静かに見つめていた。
何も言えずに沈黙が流れる。
すると男は何も言わずにノイを横抱きにするとそのまま立ち上がり森の奥へ歩み始めた。
「ななななにを!降ろしてください!」
俗にいうお姫様抱っこというものをされたノイは男の首に捕まりながら真逆の訴えをする。
矛盾した行動をとるノイを横目に男はそのまま歩みを進めた。
「立てないんだろう。怪我してる」
そう言ってノイの膝に視線を寄越す。
そこには逃げようとした時にできた傷から少しの血が流れていた。
小さな傷は稽古やクロエとの組合でいつもできている。
気にするほどでもないそんな怪我なのに心配するように言う男を見て、その優しさを嬉しく思った。
そして自分が会いたかった相手が本当に目の前にいるのだと、幻ではないのだと、ノイは目の前の無表情な顔に見惚れていた。
妖精さんだ。あの時と同じ、優しい僕の妖精さん。
痛みなど感じることもなく、幸せで口角が勝手に上がっていく。
月の光が二人を照らす間、ノイはその横顔を食い入るように眺め続け、男の気持ちに気付くこともなく森の奥の目的地に到着した。
そこはノイの木材でできた家とは違いコンクリートで建てられた二倍ほど大きな建物でとてもシンプルな四角い構造の壁をツタが何本か這い登っていた。
男は慣れた手つきで玄関を潜ると黒のソファにゆっくりとノイを下ろした。
天井から垂れている豆電球が点滅しながら部屋の中に明かりを灯す。
緊張しながらも辺りを見渡すと大きな暖炉や本棚、そして最低限の家具達が配置されていて、殺風景というほどではないが必要最低限のものを揃えたようなその家はとてつもなく広く感じた。
男は収納棚の奥の方から箱を取り出しこちらに来るとノイの足元に膝まづいた。
この状況に落ち着かなくて身じろいでいると、怪我をしている方の足に大きな手が触れる。
「消毒する」
ノイが痛みを感じないように男が慎重に血と汚れを綺麗に拭きあげ手当をしていく。
その手つきには優しさが滲み出ていてパチンとハサミの切れる音の後、綺麗に巻かれた包帯を眺めながらノイはもう洗えないなと頭の片隅で思った。
傷の手当てを誰かにしてもらうのは数年ぶりでいつもよりも早く治るような気さえしてしまう。
明かりの下で再度男の姿を見る。
すると手や腕、そして左目に被さるような縦に残る傷跡に今更気がついた。
驚きで固まってしまったノイに気付いたのか男は隠すように顔を背ける。
その動作で相手を傷つけたのだと気付いた。
「違います!......違うんです。その、心配で」
ソファに置かれた手を縋るように両手で触れる。
自分の気持ちを上手く伝えることができないことに苛立ちを覚えた。
「痛くないかなって、お湯とか染みるんじゃないかって。心配で。
……僕に治せる力があったらいいのにって、本当に心の底から、思って……」
発言しながらもどう言えばいいのか分からないまま声が小さくなっていく。
伺うように男を見ると真剣にノイの言葉を聴いている視線と重なった。
「……分かったから、そんな顔するな」
焦り続けるノイを見て男は相槌を一つ打つとほんの少しだけ口角を上げて笑った。
その笑顔を見た瞬間にノイの息が止まる。
「…..っ…」
衝撃とその破壊力に心臓も止まりかけたノイは石のように固まったあと、ロボットのようにゆっくりと口元に両手を添えた。
…….っ死んじゃう!
声が出ないように抑え込み心の中で大きく叫ぶ。
「吐きそうなのか?」
「違います!違います違います、すみません!」
誤解した男の問いを全力で否定して頭を下げる。
激しくなる鼓動を抑えるために、少しだけ距離をとった。
息を整えながら男の手の傷跡を眺める。
「痛みはない、古傷だ」
ノイの視線に気付いたのか心配するなと男は手の傷跡を軽く叩く。
その言葉を聞いても心にできた切ない気持ちは消えない。
「僕も手当の仕方覚えますね」
少しでも痛みが癒えるように、少しでも傷が治るように。
ノイは男の左目の傷跡を触れないように指でなぞり、これ以上傷が増えないことを願いながら微笑んだ。




