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深い森

「森に行きたい。」

ノイは本日五回目になる言葉を遠くに向かって呟いた。

稽古場の窓から見える深緑が風に揺られて大きくうねっている。

頬杖をつきながら誰もが立ち入りたくないと言うその場所を眺めていると呆れた声が響いた。

「またかよノイ。方向感覚も無いお前が行ってどうするんだよ」

ノイの願いに答えたのは幼馴染のクロエだ。

傷んだ茶髪に髪と同じ色の目をした彼は最近やっとできた力瘤を自慢気にこちらに見せてくる。

「この筋肉すらお前は無いだろ」

馬鹿にしたように笑った後反対側の力瘤もサービスだというように見せてくる。

「森は獣の住処だ、お前なんか一瞬で噛み殺される」

希望のない言葉ばかりを言われ徐々に苛立ちが芽生えていく。

白く長い睫毛を揺らしながら怒りをのせてクロエを睨みつけるが、こちらの威嚇など微塵も怖くないのかクロエはまだ余裕そうに笑っていた。

何を言ってもダメだと気づいたノイは唇を少し尖らせ視線を森に戻す。

窓から入ってきた風がノイの癖毛のある白い髪をふわふわと浮かせる。

ほんの少しのフェロモンと石鹸が混ざり合いその香りが稽古場を流れていった。

ノイは希少種であるオメガだ。

首のチョーカーが誰の目から見てもわかるようにそれを物語っている。

しかし十八歳の今でも発情期が一度も来たことがない、不全のオメガだった。

それは不幸なのか幸いなのか、出来損ないだと言う人間もいれば自由を手にしたと言う人間もいる。

ノイの周りにいる人間は大半が後者に賛成する。

しかしそんなことはノイにはどうでも良いことだった。

番いたい相手など誰一人もいない。

オメガやベータなどどうでも良い。

自分が会いたいのは、ただ側にいたいと思うのは、一人だけ。

あの夜に出会った、たった一人だけを想って今を生きていた。

クロエの筋肉馬鹿野郎はノイの願いを何も分かっていない。

森に行きたいだけじゃ無い。

森の妖精さんに、深紅の髪をした妖精さんに会いに行きたいんだ。

見たんだ綺麗な赤髪を。

あの日、確かに見たはずなんだ……。

チョーカーに埋め込まれたあの赤と同様の宝石に触れながら溜息を吐く。

どうすれば会えるかと悩んでいると横から木と木のぶつかる音が聞こえてきた。

「おいノイ。森はもういいから稽古しろよ。俺は絶対に騎士団に入るんだ。

もうすぐ入団式なんだからそろそろ本格的に鍛えねぇと」

クロエはカカシの目印を狙いながら型通りに木刀を打ちこんでいく。

その剣捌きはもうすぐで十八歳になる少年にしては見事な出来だった。

十八の成人の日になれば、この国の人々は騎士団に入団できる権利が与えられる。

騎士長になるのがずっと夢だったクロエにとっては正に夢の始まりの日だった。

「あの『燃える死神』にだって負けないほど強くなって、お前を何からでも守ってやるからな」

照れ臭そうに言うクロエを見て、ノイの口角が少しずつ上がっていく。

「クロエの夢は絶対に叶うよ。僕も応援する。

だからクロエ、森に行きたいっていう僕の夢も応援して欲しいなぁ……?」

ノイは花が咲いたような笑顔から打って変わって、青いガラス玉の瞳を輝かせながらクロエに擦り寄った。

甘えるような声と上目遣いがクロエの理性を揺らがす。

計算ではなく天然でその行動をするノイを見て、それが一番厄介なのだとクロエは固唾を飲み込み目を瞑った。

「だ、ダメに決まってんだろ、早く木刀持って来い!俺が居ない場合は自己防衛しないとダメなんだからな」

先程まで綺麗だったクロエの剣捌きが今は乱れてカカシを掠ってもいない。

自分の願いが叶わなかったノイはまた口を尖らすとクロエの話を無視してカバンからクッキーを取り出した。

「なぁに食ってんだ!」

クッキーを見て激怒するクロエの声が今日も青空の下で響いていた。


クロエとの稽古も終えて家に帰るとノイはいつも通りポストの中を確認した。

一ヶ月に一度だけ来る便り。

それは幼少期の頃、母と父が亡くなってからずっとノイの面倒を見てくれていた叔母、アーチェからの手紙だった。

医者である彼女はノイが十五歳の時に王国直属の医師になり家にはほとんど帰って来れなくなった。

ノイが稽古場や学舎にいる間に帰ってきている事もあれば本当に奇跡的に家で鉢合わせる日もある。

そんな日は寝るのも惜しくて、二人で夜更かしをするのが当たり前になっている。

そして朝目覚めた時、隣に誰もいないということも当たり前だった。

寂しいと言ったことも、行かないでと言ったこともない。

オメガであるノイを心配し、親のように大切に自分を愛してくれているのにそんな弱音を言えるはずがない。

ただ唯一の家族のために帰ってくる場所を守りたい。

その思いを糧にノイは家事や料理を日々勉強した。

唯一の家族がいつ帰ってきても安らげる場所であるために。

朝に干した洗濯を取り込み家事を容量良くこなしていく。

昨日仕込んでおいた魚を焼いて料理を綺麗に盛りつけ、机に運び一人で手を合わせる。

「いただきます……」

自分の声だけが家に響く。

暗い気持ちになる前に食事を口に運ぶが味は七割ほどしか分からない。

一人で摂る食事は誰かがいる食事よりも質素に感じてしまうのが辛くて好きにはなれなかった。

クロエや他の家族達は今頃楽しく夕食を食べているのかと思うと悲しくなって、こんな弱気じゃダメだと頭を大きく横に振る。

「……森に行きたい」

口癖のように言葉を吐くとゆっくりと食事を再開させた。

ちょうど魚を三分の二ほど平らげた時、勢いよく木材のドアが叩かれた。

「クロエ!こんな時間まで何してるの!いつまでノイくんの家でいるつもりなの?」

聞こえてきたのはクロエの母の声だった。

いつものお迎えよりも派手な登場に驚きながら玄関を凝視する。

「おばさん?」

フォークを置いて戸惑いながら立ち上がり、玄関のドアを開けると眉間に皺を寄せたクロエの母が立っていた。

「あらノイくん。いつもいつもごめんねうちのバカ息子が。ほらクロエ!帰るよ!」

クロエの母は軽く頭を下げた後、家の中へと呼びかける。

「クロエなら稽古をした後別れましたよ?」

しかしここにはノイ以外誰もいないのが事実だった。

「え、隠れたとかじゃなくて?私てっきりここにいるのかと…ごめんなさい」

「クロエ帰ってきてないの?」

「そうなのよ。今日は大好物のハンバーグなのに……」

母親の顔は怒りの顔から子を心配するような顔に徐々に変わっていく。

二人して頭を抱え数秒だけ考え込んだ。

「僕も、探してみるよ」

「そんなのだめよ。もし危ない目に遭ったらどうするの。ごめんなさいね、家に一度戻ってみるわ」

本当の母のようにノイを心配した後、クロエの母はこちらに手を振りながら慌ただしく小走りで帰って行く。

その背中を見送った後、靄を抱えたまま扉を閉めた。

心配な気持ちを引きづりながら元いた場所に座って、残りの晩ごはんを口に入れる。

『お前を何からでも守ってやるからな!』

昼間のクロエの言葉が頭の中を過ぎると一気に不安な気持ちが押し寄せてくる。

危ない目にでも遭っていたらと思うと嫌な汗が背中を伝った。

「探さなきゃ……」

兄弟のように育ってきたクロエのことを思うといても立ってもいられず急いで席を立った。

食器もそのままに赤いケープを着てフードを被り、家に鍵をかけて急いで今日行った場所へと順番に向かう。

稽古場もいない、学舎も、クロエの好きな肉屋にもいない。

思い当たる場所を探し回っても、クロエの姿は見当たらず胸騒ぎが大きくなる一方だった。

「どこに居るの」

街行く人の中、ノイは広場の中心にある噴水に腰掛けて項垂れていた。

一度家に行ってみるべきか?

それとももう一度稽古場に行く?

遠くにある壁に飾られた大きな時計は当の前に十時を過ぎていた。

このまま見つからなかったらとマイナスな考えばかりが浮かんでくる。

もう一度稽古場に行こうと立ち上がった時、街人の声が耳に届いた。

「今日森に入ったやつが居るらしいぞ」

「森ってあの深い森か?」

「あぁ、あの深い森だよ。一人で行くなんて馬鹿にも程があるよな」

「馬鹿すぎるだろ。そいつはもう生きちゃいないな」

男達による物騒な会話。

酔っ払いの会話でもはっきりとそれは聞きとれた。

「森……」

全身が一気に震える。

ずっと行きたかった森にクロエがいるかもしれないと思うと何故か心配とは別の何かが心臓の裏から顔を出した。

いないかもしれない、でもいるかもしれない。

危険だってみんな言ってる。

でも、それでも、会えるかも………。

広場で悩んでいたはずなのに、気付いた時にはノイの体は森の入り口まで来てしまっていた。

自分の馬鹿さに頭を抱えるが、何度やめようとしても期待が背中を押してくる。

怖くない訳ではない、でもクロエが今まさに危険な目に遭っているかもしれない。

「助けに、行かないと」

固唾をゆっくり飲み込む。

風の唸り声が森の奥から聞こえてくる。

拳を強く握るとノイは茂みへと一歩足を沈めた。


道のない道をただひたすらに進んで行く。

唯一の光は木々の隙間から差し込む月の光だけで、雲に月が隠れてしまえばと思うと怖さで足がすくんだ。

「クロエ!クロエどこ!」

自分の居場所も分からないまま声を張って幼馴染を呼ぶ。

外から見る森とは違い、動物も虫さえもいないのではと思うほど森の中は静寂に包まれていた。

ノイの凛とした声だけが響いていく。

クロエを探しながら歩き続けていると何者かの気配を遠くの方に感じた。

「……クロエ?」

黒い影に声をかける。

一歩一歩影に近づくと、その姿は月の光の下にゆっくりと姿を現した。

瞳を光らせて喉を低く唸らせている。

口からは鋭い牙が何本も見え、飢えたように涎を垂らしていた。

「......おお、かみ………」

初めて見る自分よりも大きな獣に睨まれ、恐怖で体が固まる。

そんなノイを捕らえようと相手は確実に距離を縮めならまっすぐこちらに向かってきていた。

黒い体は歩く度に波のように揺れ、鋭く見開かれたその瞳はこちらを嘲笑っているようにも見える。

逃げなきゃ。今すぐ逃げなきゃ・・・っ。

サイレンが鳴り響くように鼓動が早まる。

しかし体は氷のように硬く固まり何度信号を送っても、思い通りに動いてくれない。

視線を合わせたまま震える足でやっと立ち上がったのに動いた右足は太い枝に引っかかり、全身を地面に打ち付けた。

「痛……っ」

脳が打ち身の痛さでさらに混乱し、感情が溢れるように視界がぼやけ手の甲に雫が落ちる。

食べられる……このまま僕、死んじゃう。

頬を濡らしながら視線を狼から外す。

首元の宝石を握りしめながら、木々の隙間から見える丸い月を見上げ心の中で願った。

あの人に会いたいと。

狼はそれに気付いた瞬間、牙を出してノイに向かって走り出す。

その距離はほんの僅かで体を一気に丸め、死を覚悟した......そのときだった。

「動くな」

激痛を予想していたノイの体は温もりと懐かしい匂いに包まれ、低い声が耳元から聞こえる。

全てが過去の記憶と重なり、固く閉じていた目をゆっくりと開いていくと月の光に照らされた深紅の髪が目の前にあった。

全身を誰かに包まれている。

あんなにもうるさかったはずの心臓が止まっている。

知っている。この匂いを、この声を、この赤を。

僕は、ずっと、知っている。

「妖精……...さん……」


決して入ってはいけない深い深い森。

そこにはノイだけが知る、赤い妖精が住んでいた。


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