夜の夢馬に乗って
夫の不倫に端を発する、オイリー夫妻の寝室における激しい口論は、三時間近くに及んだ。やがて、妻は議論に疲れ果て、崩れ落ちるようにベッドに身を横たえた。オイリー氏はようやくひとりになると、そのベッドのすぐ横にある書き物机に腰を掛けて、長い物思いにふけった。こうなった以上は、妻との今後の生活において、熟慮しなければならなかった。確かに不貞を働いてしまったのはこちらの方だが、あそこまで激しく責められるとは思っていなかった。しかしながら、彼はまだ、今の事態を楽観的に捉えていた。夫の裏切り行為を許せないという妻の言い分もよく分かるが、人生とはしょせん一度きりのゲームではないか。生涯に渡り、ひとりの女性としか関係を持ってはならないというルールの方が理不尽に思えた。明日の朝が来れば、妻はきっと許してくれることだろう。しかし、泣き叫びながら、こちらの姦通を責めていた彼女の激しい振る舞いを簡単に忘れることはできなかった。万が一、離婚を迫られようものなら、こちらの世間体も著しく傷つくことになる。今回の一件について、いくらかの慰謝料を支払う必要があるのかもしれない。
女とは一時の感情で行動する生き物だと彼は思っていた。無事に朝が訪れたなら、こちらの方から頭を下げ、真摯に謝罪する。そうすれば、夫婦仲は元通りになるだろう。彼はそのように考えていた。
オイリー氏はそこまで考えてから、壁時計に目を移した。妻が寝入ってからすでに二時間が経過していた。そろそろ、自分もベッドに入ろうかと考え始めた。そんなとき、廊下に置かれている黒電話がけたたましい呼び出し音を響かせた。機嫌の悪い妻が目を覚まさぬように配慮して、彼は素早く駆け寄って受話器をとった。それは旧知のアルアイン市の警察署長からの連絡であった。簡単な挨拶を済ませると、彼は本題に入った。それによると、市の中心部にある、不動産業のヴィラーバ氏の邸宅において、その令嬢が何者かに殺害されるという重大事件が、約一時間前に起きたという。
オイリー氏はそれを聞くと我が耳を疑った。驚愕と表現してもよいほどの動揺があった。それを事実として受け止めるには相当な勇気が必要だった。その驚きは主に次のふたつの点から来ていた。ひとつ、ヴィラ―バ嬢は誰の手によって、なぜ、殺されねばならなかったのか。ふたつ、署長はなぜこの自分のところに電話をかけてきたのか。自分が彼女と深い関係にあることは、誰にも話したことはない。いくら懇意にしているとはいえ、警察署長がその事実を掴んでいるはずはなかった。そこで、そのふたつの疑問点について、電話向こうの署長に正してみることにした。その問いに対して、署長はこのように返答してきた。
「いいかね、心を落ち着けて聞いてくれたまえ。今から約二時間前、ヴィラーバ氏の邸宅において、そのご令嬢が自分の寝室の内部で何者かに襲われ、鋭い刃物と思われる凶器によって、全身を十数カ所にわたって刺されて惨殺された。遺体を発見したのは叫び声を聞きつけて駆け下りてきた父親だ。当時、令嬢の部屋には内側からそのドアに鍵がかけられていた。彼女が殺害された後、その部屋から外へ出た者は確認されていない。窓にも厳重に鍵が掛けられていた。犯人は魔法でも用いたのか、事件現場からまるで煙のように消えてしまったんだ」
「その事情は何とか理解できた。しかしね、先ほども聞いたと思うが、君はなぜ、この私のところへ電話をかけてきたのかね?」
オイリー氏はなるべく平静を装いながら、いささか声のトーンを落としてそのように尋ねた。
「ここからが重要なんだ、いいかね? 落ち着いて聞いてくれ。この殺人事件の直後、ヴィラ―バ氏の邸宅の戸口から、君の奥方が飛び出していくところを、近所の複数の住民が目撃しているんだ。失礼だが、ご夫人は今どこに?」
「なんだって、すると君は私の妻を犯人として疑っているのか? せっかくだが、それは偽情報だよ。うちの妻は今から三時間も前に寝室で寝入っている。今もぐっすりと眠っているよ。その姿をこの私が何度も確認しているからね」
「すまんが、そちらのベッドで眠り込んでいるところを、もう一度だけ確認してもらえないかね? 何しろ、血痕のこびりついた刃物を持って、君の奥方が事件現場から立ち去っていくところを、五人もの人間が目撃しているんだ」
「君もしつこい男だな。だいたい、この家からアルアインまで、どのくらい離れていると思っているんだ。この国で一番速い鉄道を使っても、往復で二時間以上もかかるんだぞ。私も今夜は疲れているんだ。これ以上、バカな話を持ち込まないでくれたまえ」
オイリー氏は強い口調でそのように答えると、乱暴にその電話を切った。寝室に戻ってみると、夫人は目を覚ましていた。彼女は呆然とした表情でそのベッドのへりに腰かけていた。
「やあ、騒がしくてすまんね。間違い電話がかかってきてね。すっかり、起こしてしまったようだね」
夫人の表情は虚ろであり、普段は見せないような暗い雰囲気を全身にまとっていた。
「今のは、警察からの電話だったのでしょう? きっと、貴方の愛する人がこの私の手で殺害されたという件について、でしょうね?」
オイリー氏はその冷徹な台詞を聞いて、言い知れぬ寒気を感じた。
「それほど動揺なさることはありませんわ。私は長年にわたり、貞淑な妻として貴方に尽くしてきました。しかし、貴方は姦通という裏切りをもってそれに応じました。私は今夜、屈辱の涙に濡れて床につきました。錯乱しておりました。誰かに助けを求めたかったのです。おそらくは、神が我が願いを聞き届けたのでしょう。夢の中では漆黒の美しい夢馬が私の到着を待っていました。その馬は言葉を話せました。この私の最大の願いを叶えてやろうと言うのです。黒馬は私の身体を背に乗せると、夜空に舞い上がりました。屋根の高さを超えると、大気を蹴って、さらに上空へとどんどん舞い上がっていきます。馬は空中を泳ぐように高速で進んでいきます。ものの数分で、アルアイン市のハスカーの町に到着しました。夢の魔力に頼れば、貴方の浮気相手の邸宅を見つけ出すことなど造作もないことでした。憎き女は寝室のベッドで横になっていました。近づいて声をかけてやると、すぐに目を覚ましました。私はその女が我が夫と姦通していた事実をそのまま告げました。それが決して許されぬこと、そして、復讐のためにここに現れたことを同時に告げました。
その女は私が尋常ではない方法を用いてこの場に現れたことをすぐに悟ったようでした。彼女は狂ったように一声叫ぶと、慌ててベッドから飛び降り、寝室のドアに向けて駆けだしました。おそらく、夢と現実の境など、すでに分からなくなっていたでしょう。しかし、廊下へと通じているはずのそのドアは、どれだけ力を込めても開くことはありません。この私が魔力を持って封印していたからです。夢の中においては、自分の希望していたことが、すべて現実となるようでした。ドアを何とかこじ開けようとする彼女の背中にゆっくりと近づくと、手にしていた黄金製のナイフでめった刺しにしてやりました。彼女の細い身体は、あっという間に血にまみれて床に横たわりました。目的を果たすと私の身体は再び空へと舞い上がり、この家の寝室へと戻ってきました。ふふ、信じられませんか? しかし、私の告白を否定しようなど無意味なことです」
夫人は顔をさらに強張らせ、次のように話を続けた。
「私には殺人者となる素質があります。幼い頃から、そのように感じていました。今まではあえてそれを抑えていただけです。そして、自分が行ったことのすべてを語りました。さあ、少しの猶予を差し上げます。今度は貴方の方から私を殺しに来るべきです。さもなくば、次に寝入ったとき、夢の中において、私の分身が今度は貴方を刺し殺すことになるでしょう」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。他にも多くの短編作品がありますので、できればそちらもご覧ください。よろしくお願いします。




