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狭間の少女  作者: 柏木椎菜


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8/10

八話

 結果から言えば、この町でお母さんを見つけることはできなかった。それにしても町の人達は皆冷たい。たずねようと声をかけても、無視して立ち止まってくれもしない。それでも何人か足を緩めてくれた人もいたけど、私が町の住人じゃないからか、警戒の目で見るだけで話を聞いてはもらえなかった。これじゃ人には頼れないと思って、エリスと手分けして民家を一軒一軒見て回ったけど、そのどこにもお母さんの姿も、手掛かりさえも見つけられなかった。だからここはお母さんの故郷じゃないと判断して、私達は先へ行くことにした。

「またしばらく、歩く日が続きそうね」

 白い雲が流れる空の下、道にはまばらに歩く人がいて、私はその中の一人となってのんびり歩き進んでた。

 ――次の町まで、また何日か野宿をする必要がありそうですね。

 小鳥姿のエリスは私の肩で言う。

「私、野宿は嫌いじゃない。星空を見ながら寝られるし。閉じ込められてた時はそれすらも見られなかったから」

 ――そうですか。前向きなようでよかったです。けれど決して無理はしないように。

「うん。辛かったらちゃんと言うわ。でも今のところは大丈夫だから」

 エリスと話しつつ歩くこと数時間――気付けば辺りは夕焼けに染まって、木々や私の影が長く伸びてた。少し前まで前を歩いてた人達も、いつの間にかどこかへ行ってしまってた。分かれ道を曲がって行ったのかもしれない。

 ――そろそろ日が暮れますね。休む場所を探しますか?

「そうね。安心して休めそうなところは……」

 歩きながら周囲を見てると、左側の前方、木立の向こうにキラキラ輝く何かが見えて来た。

「……なんだろう、あれ」

 私は小走りで進む。手前の木立を越えると、それは視界いっぱいに飛び込んで来た。

「わあ、これって……川? それとも海?」

 夕焼けの光を反射して、ユラユラと揺れる水面はまるで宝石みたいに輝いて美しい。その上を滑るように吹いて来た風は、私の頬をふわりと撫でてくれて気持ちよかった。

 ――波も流れも小さいですから、おそらく湖でしょう。

「これが湖……私、初めて見た。こんなに広くて大きいのね」

 左右は切り立った崖に挟まれてるけど、奥はずっと遠く、景色がかすむぐらい先まである。どこまで続いてるんだろう……。

 ――気に入ったのなら、今夜はここで休みますか?

「うん。そうするわ。水の音を聞きながら寝るのもいいかも」

 決めた私は早速寝床の場所を探して歩く。環境はよくても寝心地が悪ければ台無しだ。できるだけ石とかのない、平坦で柔らかそうな土や草のある場所が最適だ。それで雨風までしのげれば最高だけど、そんな場所は滅多にないから、贅沢は言わず、いいと思った場所に即決めて休んだほうがいい。

「ここならいいかな。下草も短いし、ちょっと綺麗にすれば――」

 よさそうな場所を見つけて、その周りを確認してた時、視界の隅に人影が見えた気がして、私は顔を振り向けた。

「……女の人がいる」

 ――湖を眺めているのでしょうか。

 湖岸に一人の女性が立ってた。つばの広い帽子を被り、白いドレス姿で、こちらに背を向けて立ってる。その目はじっと湖の先を見つめてるように見える。きっとここが好きで、散歩でもしてる最中なんだろうと思って、私は寝床作りに戻った。

「……よし、できた。いい感じのベッドね」

 下草を踏み潰し、緑の敷布ができて私はその上に座る。うん、ほどほどに柔らかい。あとは外套を毛布代わりにして寝るだけと、準備を終えて何気なく湖のほうへ視線をやった。

 日が暮れて周囲は暗くなり始めてた。キラキラ輝いてた水面も光をなくして、黒く静かな水に変わってた。でもそんな湖を眺める影が一人……白いドレスの女性はまだそこにいた。多分位置も変わってない。私が寝床を作ってる間も、ずっと湖を見続けてたらしい。

「エリス、あの人、まだいるね」

 ――気になりますか?

「そりゃなるでしょう。暗くなっても帰らないなんて……」

 綺麗な服装からして、帰る家がないってことはないだろう。ただの散歩にしては動かな過ぎるし――私は考えた末、立ち上がった。

 ――声をかけるのですか?

「ちょっと聞いてみるだけ」

 寝床を離れて女性に歩み寄り、私は恐る恐る声をかけた。

「あの……」

 抑えた声に女性はゆらりと動くと、こちらに顔を向けた。

「……何かしら」

 帽子のつばに目元が半分隠れた顔が私を見てくる。化粧した顔は若く整った美人で、ただ振り向いただけの仕草でも、そこはかとない気品を感じた。きっとこの人は上流階級の出に違いない。

「ずっとここにいますけど、何をしてるんですか?」

「私がここにいると、お邪魔かしら」

「い、いえ、そんなんじゃなくて、ただ、暗くなったのに帰らないのかなと思って……」

 女性は静かに微笑むと、湖のほうへ視線を戻して言った。

「人を待っているの。だからまだ帰れないわ」

「会う約束でもしてるんですか?」

「ええ。彼、軍人でね。戦地から戻ったら結婚しようと言ってくれたのだけど、まだ戻っていないみたいで……」

 軍人、戦地――その言葉を聞いて私は肩に乗るエリスを見た。

 ――彼女は、幽霊です。

 そうはっきり言ったエリスは、最初から幽霊だとわかってたみたいだ。それならそうと言ってくれればいいのに。つまりこの人は、戦争があった時代に生きてた人……。どうりで暗くなっても帰らないわけだ。

「そう、なんですか……早く、会えるといいですね」

「長いこと待っているのだけど、もう私のことなど、忘れてしまっているのかもしれないわね……ふふ、見ず知らずのあなたに言っても仕方のないことね。気にしないでちょうだい」

「は、はあ……」

 幽霊だとわかって、私は踵を返して寝床に戻る。そこに腰を下ろして、両膝を抱えながら立ち尽くしてる女性の後ろ姿を見つめた。

「……ねえエリス、軍人の彼は来てくれると思う?」

 ――わかりません。彼の身がどうなったかによりますので。

「昔の話なら、もう生きてないかもしれないよね」

 ――その可能性は十分にあるでしょうね。

「幽霊同士なら、すぐに会えるもんじゃないの?」

 ――私も、そこは疑問に感じたところです。物理的な障害はなくなるわけですから、すでに会えていてもおかしくはないと思うのですが……。

「じゃあ、彼はまだどこかで生きてるってこと? だとしたら、何で会いに来てくれないんだろう」

 ――彼女が言ったように、忘れているのか、あるいは、会いに行けない理由があるのかもしれません。

「結婚を約束した人なのに、会いに行けない理由なんてあるもの?」

 ――人間は複雑な心を持った生き物です。時に予想もしない行動を起こすこともありますから。

「エリスがわからないんじゃ、私もわからないな……」

 私は考えるのをやめて下草に寝転がった。地面に下りたエリスがこちらを見て聞く。

 ――休みますか?

「うん。おやすみエリス」

 ――おやすみなさい、アストリッド。

 私は自分の腕を枕にして瞼を閉じる。緩やかな夜風と共に、湖の控え目な波音が流れて来る。子守唄のように落ち着く音。でも何分経っても眠気は私を呑み込んでくれない……なぜか頭が冴えてる。私は仕方なく目を開けた。その視界に真っ先に映ったのは、話しかけた時と寸分違わぬ位置に立ってる、帽子と白いドレスの後ろ姿。会いに来ない彼の話を聞いたせいか、その背中はやけに寂しそうで、物悲しく見えた――眠れないのは彼女のせいかもしれない。私はきっと気になってるんだろう。なぜ彼は来ないのか、そして、それを待ち続ける彼女の身を。幽霊の身を気にかけるなんて意味のないことだろうけど、でも幽霊だろうと、元は生きてた人なんだ。見える私としては同情もしてしまう。

 ――どうかしましたか?

 身体を起こした私に側にいたエリスが聞いてくる。

「あの人が気になって、眠れなくて……話を聞いて来ようかと思って」

 ――そうですか。もう暗いですから、足下には気を付けて。

 聞いてどうするんですか? とか言われて止められるかと思ったのに、エリスは意外にも了承してくれた。外套を着直してから、そんなエリスを肩に乗せて、私はゆっくり女性に歩み寄った。

「……あら? あなた、まだいたのね」

 足音で気付いたのか、女性はふと振り向いてこちらを見ると、軽く笑みを浮かべた。

「は、はい。実はあっちで野宿してて、でも、眠れなかったもので……」

 これに女性は大きく丸い目を瞬かせる。

「野宿? 何か事情があるの?」

「まあ……今はお母さんを捜してる最中なんです」

「そうだったの……あなたにも、会いたい人がいるのね」

 今夜は雲が多いのか、どこも闇が濃い。それでもたまに雲間から半月がのぞいて、白い光が湖面と女性の横顔を瞬間的に照らし出してた。

「……あの、よかったら、あなたと待ってる彼のことを、聞かせてもらえませんか?」

「私に、興味でもあるの?」

「はい。お二人がどんなふうだったのか、知りたくて……」

 そう答えると、女性は不思議そうに見てきたけど、すぐに優しく微笑んだ。

「まあいいわ。待っている間の暇潰しにはなるでしょうから。でも大した話ではないわよ?」

「構いません。話してくれるなら……。まずは、お二人はどうやって出会ったんですか?」

「出会いは、ある夜会で初めて会ったの。いわゆる社交パーティーね。お互い貴族の家に生まれて、私はその年に両親に連れられ、社交界デビューをしたの」

 気品あるたたずまいは、やっぱりそういう人だったからなんだ。私の目に間違いはなかった。

「そこで彼――ヘドワースが、緊張してる私に挨拶に来てくれてね。とても気さくで、けれども丁寧に接してくれる、素敵な印象の男性だったわ。ふふっ……でもね、そう思ったのは彼も同じだったらしくて。後で聞いた時、初めて私を見た彼は、一目惚れをしたって言うのよ。本当かどうかわからないけど、でも嬉しい言葉だったわ」

 口元に手を添えて、女性は幸せそうに笑う。

「それをきっかけに、恋人になったんですか?」

「ええ。彼から交際を申し込まれて、それを喜んで受けたわ。毎日が楽しくて、時間が足りないぐらいだった。会えない時は手紙を送り合って、いつも彼の心に触れていた。同じように彼も私の心に触れて、温かな愛を常に送ってくれていたわ。本当に、至福の日々だった……」

 女性は笑顔から表情を陰らせると、小さな溜息を吐いて続ける。

「けれども、そんな日々を断ち切るように、ヘドワースに召集令状が届いたの。貴族の男子たるもの、国王陛下のために働いてこそ一人前――私達の中ではそれが常識だったから、彼は躊躇もせずに戦地へ向かったわ。その直前に、彼は私に約束してくれたの。戦地から戻ったら、僕と結婚してほしいと。返事をしようとした私を止めて、プロポーズは改めてしたいから、その日は思い出の場所で待っていてほしいと言われたの」

「その場所って、ここですか?」

 女性は頷く。

「ええ。この湖のほとり……ここで私は、交際を申し込まれたの。私達が恋人同士になった、思い出の場所……」

 約束した場所だから、ずっとここに立って……離れることができないんだ。

「彼から何の知らせも届いてないのに、それから私は毎日のようにここへ来たわ。ヘドワースが無事に戻るよう祈りながら。でも戦地からは、なかなか彼の様子が届かなくて、せめて無事かどうかの一言だけでも欲しかったのだけど、それすらもなく、音信不通が長く続いたわ」

「ヘドワースさんからの知らせは、いつ届いたんですか?」

 聞くと、女性は力なく首を横に振った。

「結局、私の元には何も届かなかったわ」

「一通も?」

「一通も。もしかしたら、彼のご両親の元には何かしら届いていたのかもしれないけど、私はそれを確かめることができなくなってしまったから」

「どうして確かめられなかったんですか? 聞きに行くだけのことなのに」

 私の言葉に女性は切なげな笑みを浮かべた。

「命を、落としてしまったから……風邪をこじらせて、ベッドから起き上がれなくなるほど悪化してしまって……。自分の身体がこんなに弱いなんて知らなかった。知っていれば雨の日も雪の日も湖に出かけて行ったりなんかしなかったのに。今さら気付いても遅いことだけど」

 恋人が戦地から戻る前に、この人は病死してしまったのか。だから彼がどうなったかがわからず、だけど約束を信じてここで待ち続けて……。

「あれから随分と時間が経ってるから、私のことなんて忘れられてるのかもしれない。けれど、そうだからってここを離れることもできないわ。だって、もし彼が急に思い出して、慌ててここに来た時、私の姿がなかったらがっかりさせてしまうでしょう? そんな寂しい思いはさせたくないの。だから、彼がいつでも来ていいように、私はここで待ち続けるわ」

 もう何十年と待ち惚けてるのに、それがまったく苦じゃなさそうに女性は明るく言った。これは一週間前とか一ヶ月前の話じゃない。時代をまたぐほど昔の話なんだ。ヘドワースさんが忘れてたとしても、今さら思い出すとは到底思えない。それ以前に、戦地から無事に戻って来れたのかという疑いもある。恋人の女性に手紙の一通もよこさないなんて、何かあったと思うのが普通だと思う。はっきり言ってしまえば、彼はもうこの世にはいないんじゃ……。でも、それを女性に言ってしまうのは酷なんだろう。心の底から約束を信じて待とうとしてるんだ。そんなことまで私が言うべきじゃない。だけど、永遠に来ないかもしれない人を待ち続けるのかと思うと、やっぱり彼女の行く末が気になってしまう。余計な質問だってわかってるけど、私は聞かずにいられなかった。

「その、もし、彼が来てくれなかったら、どうするんですか……?」

 恐る恐る聞いた私に、女性は一瞬無表情になったけど、またすぐに笑みを浮かべた。

「そんなことはないと思う。だって約束してくれたのだから。ヘドワースなら、いつか必ず私の元へ来てくれるわ。どんなに時間が経とうとも、絶対に……」

 力強い口調には彼への疑いや不安など微塵も含まれてなかった。女性の心には芯が通って揺るぎない。そうわかって、私はこれ以上話を聞くことはできなかった。

「約束を破る人じゃないなら、そうですね、必ず来ますよね」

「ええ。彼は私を裏切ったりしないもの。だから、こうして待っていれば会えるわ」

「早くその時が来るといいですね……じゃあ私は、向こうで休みます。お邪魔してすみませんでした」

「あなたと話したおかげで彼との思い出がよみがえって、いい時間を過ごせたわ。おやすみなさい」

 月明かりがさえぎられた下で笑顔を残すと、女性は湖へ視線をやり、再び暗闇の中にたたずむ人影に戻った。私はその姿から離れて、自分の寝床に戻った。

「恋人が来なかったら、あの人、どうなっちゃうと思う?」

 横たわりながら私は地面に下りたエリスに聞いてみた。

 ――来ないとは考えてもいないようでしたから、待ち続けたとしても変化はないのでは?

「だといいけど。あんな綺麗な人が怨霊とか悪霊に変わるのなんて見たくないわ」

 ――あの女性にはまだ希望の心が残っているようでした。それが失われない限り、悪霊に変化することはないでしょう。

「希望の心か……それだけ恋人のことを愛してるんだね、きっと」

 ――人間の、誰かを愛する心というのは、時に苦難をものともせず、自身を強くしてくれるものです。彼女の心は、恋人への愛が支えてくれているのでしょう。

「私は何にも手伝えないけど、でも……二人がちゃんと会えるといいな」

 胸の中でそんなことを願いながら、私は真っ黒な夜空を眺めつつ眠りに落ちて行った。

 次に目を開けた時、視界は真っ青に染まって明るかった。もう朝だ。ついさっきまで夜だった気がするのは、よく寝られた証かもしれない。

 ――今日は少し、長めのお休みでしたね。

 横を見ると、寝床の上にいるエリスがこちらを見てた。私はゆっくり身体を起こして両腕を空へ伸ばしながらあくびをする。

「……昨日はあの女性と話して、その分寝るのが遅くなったからね」

 視線を湖岸へ向けると、白いドレスの背中が変わらずたたずんでた。私は立ち上がって、髪や服を軽く整える。それを終えるとエリスが肩に乗って来た。

 ――もう出発しますか?

 私は二回目のあくびを噛み殺しながら言う。

「うん。行こうか……」

 そう言った私が見てるものに気付いたエリスが聞いてきた。

 ――あの女性に、別れの挨拶をして行きますか?

「……それは、やめとくわ。もう話せることもないし、邪魔はしたくないから」

 少し迷ったけど、そう答えた。

 ――そうですか。では、行きましょう。

 私達は湖岸のほうへ出て、女性の後ろ姿を横目に見ながら、静かにその後ろを通り過ぎた。あの人は、あとどれだけ待ち続けるんだろうか。恋人が来ると、いつまで信じ続けられるだろうか。死後もそんなことをさせてる現れない恋人は、自分の罪深さを知らないままなんだろう。彼女の心を奪って離さない彼……どんな人なのか、一目見てみたいもんだ。

 太陽の光で輝く湖の景色は爽やかで本当に綺麗だ。私は最後に目に焼き付けようと、足を緩めてそれを眺めた。すると、それをさえぎるように目の前を横切る人影があった。背中の丸まった白髪の老人で、杖をつきながら危なっかしい足取りで湖岸に向かってる。

「あのお爺さん、大丈夫かな。今にも転んじゃいそうだけど……」

 ――大丈夫ではなさそうですね。生命力が弱まっているのを感じます。

「え? そんなことわかるの?」

 ――ええ。あらゆる生き物は命から波動を発していますから。その強弱でどのような状態かはわかります。あの方の場合は、高齢に加えて何か病にもかかっているようですね。見た目からも、力の入っていない足腰や速い呼吸、肌艶の悪さで判断できます。

 言われて私はお爺さんを観察してみた。汚れもしわもない、きっちりした服装。そこから紳士的な雰囲気は感じるけど、ピタッと立っていられないのか、足下はわずかに震えてる。杖がなければすぐに倒れてしまうだろう。肌の見える手や首を見ると、エリスの言うように艶はなく、少し浅黒い。健康的な日焼けの黒さとはまた違う感じがする。

 するとお爺さんは咳き込み始めて、背中をさらに丸める。上着のポケットからハンカチを取り出し、口元に当てるけど、咳はなかなか治まらない。そのうちお爺さんは地面に両膝を付き、かがみ込んでしまった。何だか苦しそうだ――私は思わずお爺さんの元へ駆け寄った。

「大丈夫ですか、手を貸し――」

 横で身をかがめて顔をのぞき込んで、私は思わず言葉を失ってしまった。駆け寄る前は死角になってて見えなかったけど、お爺さんの顔右半分は大きくえぐれてた。目の下から頬にかけて、あるはずの肉がごっそり削られたようにない。右目も普通に開けられないのか、わずかに開いてる程度で、瞼の上には刃物で切られたような傷跡があった。

 ――ひどい傷の跡ですね。

 肩でエリスが呟く。私はそれに反応できずに驚いてると、お爺さんは杖を使ってゆっくり立ち上がった。咳は治まったみたいだ。ハンカチをしまい、湖のほうへ視線を向ける。

「しばらく来られなかったが、今日は来たぞ……」

 力のない、語尾のかすれた声だ。そこからも体調がよくないのがうかがえる。

「何せ、君の命日だ。必ず来ないとな。だが……あと何度、ここへ来られるか……」

 お爺さんは湖を見つめながら独り言を話してる。

「私も、そろそろ君の元へ行けそうだよ。そうしたら、たくさん謝らせてくれ……君との約束を、破ってしまったことを……」

 約束――そう聞いて私は、お爺さん越しに見える遠くの白いドレスの女性を見た。何だかあの人の話を思わせるけど……そのまさかなの?

「こんな傷だらけの私でも、君は受け入れてくれただろうか……私は、君に拒絶されるのが何よりも恐ろしかったんだ。すべては私の心の弱さのせい……今は後悔ばかりが残っているよ。君を信じ切れなかったことを、許してほしい……」

 お爺さんは声を震わせて、傷跡の上に涙の筋を作ってた――この人がそうなのだとしたら、恋人は今も、たった今も、あなたのすぐ側で待ってることを教えてあげないと。それにはまず確認を。

「あの、もしかしてあなたは――」

「戦争などという無益な争いが、私達の人生を狂わせたんだ……いくら勲章やメダルを貰ったところで、君を失えば何も意味を成さない」

 私の声を無視して、お爺さんは独り言を続ける。いや、もしかしたら聞こえないのかもしれない。高齢のせいか、あるいは病気か怪我のせいか。

「次は、争いのない世界で、君と共にいたい……ロザムンド、最後の時を、一緒に過ごしたかったよ」

 さめざめと泣きながら、お爺さんはまた取り出したハンカチで涙を拭う。何だか声をかけづらい雰囲気になってしまい、気後れした私はそっと後ずさって、代わりにエリスに話しかけた。

「……エリス、この人って――」

 ――おそらく、あの女性の待つ恋人でしょうね。

 やっぱり。エリスも私と同じ見方をしてるようだ。

「ヘドワースさんなら、教えてあげたほうがいいよね。恋人がこんなに近くにいるんだし……」

 私は湖岸沿いに立つ女性を見やった。今も湖の先をじっと見つめてたたずんでる。そこでふと疑問が湧いた。

「でも、恋人が側まで来てるのに、どうしてあの人は気付かないんだろう。ヘドワースさんの話しぶりじゃ、何度かここに来てるみたいだけど……」

 ――恋人だと認識できないのかもしれません。顔の大きな傷で、人相は大分変わったでしょうから。

「じゃあ、あの人は永遠に恋人だと気付かないままなの?」

 ――そうはなりません。お互いが同じ存在……幽霊となれば認識できるでしょう。死後の姿は本人が望めば、傷などを消した元の姿にできるとも聞きます。

「へえ、それじゃあ気付かない心配はいらないか……でも、二人が会えるなら早く気付かせてあげたいな」

 ――その必要はないでしょう。

「何で? 二人とも喜ぶことだよ?」

 ――そもそも、二人は幽霊と人間で、女性のほうは相手を認識できても、男性の側はそれができないでしょう。それではきっと話が混乱してしまいます。それに、こう言っては何ですが、男性の命はそう長くはなさそうです。本人も自覚しているように、遠くない日に肉体を手放す時が来ます。無理に気付かせることもないでしょう。

「もうすぐ会えるから、余計なことはしないほうがいいってこと?」

 ――簡潔に言えば、そうです。

 教えてあげたい気持ちはあったけど、私は従うことにした。全部エリスの言う通りなんだろう。わざわざお節介をして話を複雑にすることはない。待ってれば、二人は自然に再会できるんだから。あとは時間がどうにかしてくれる。

 ヘドワースさんを見ると、ブツブツと独り言を言いながらハンカチで目元を拭い続けてた。涙が止まらないぐらい、想いが強いんだろう……。

「会いに行かなかったことを後悔するほど、あの人のことを今も愛してるんだね。それがわかっただけでもよかった。気持ちが変わったわけじゃなかったんだって知れて」

 ――二人の心は、どんな形になろうとも、つながり続けていたのでしょう。

「うん。ここでは一緒になれなかったけど、心はずっと一緒だったんだね」

 私は距離を置いて立つ二人を眺めた。どちらも相手の存在にまだ気付いてない。だけど、この距離もいずれなくなるんだ。二人が笑顔で再会し、喜び合う姿を想像しながら、私は湖岸を後にした。

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