十四話
小さくて質素な木造の家。その玄関の左右には大小の鉢植えがいくつも並べられて、それぞれ葉や実を揺らしてる――ここがきっとそうだ。お母さんが生まれ育った実家のはず。胸がドキドキするのを感じながら、私は古めかしい扉を叩いた。お母さん、出て来るかな……何も反応がないからもう一度叩いてみる……しばらく待ってみても、やっぱり誰も出て来ない。留守なのかな。少し迷ったけど、扉を押してみた。すると鍵がかかってなかったのか、あっさり開いてしまった。勝手に入るのはまずいよね……でも、誰かいないかちょっとのぞくだけでも――私は半身だけ中に入って部屋の様子をうかがった。
「……お母さん!」
左の奥の部屋を眺めた時、そこにあるベッドに横たわったお母さんの横顔を見つけて、私は咄嗟に中へ駆け込んだ。
「お母さん……でしょう?」
ベッドの傍らに膝を付いて顔をのぞき込んだ。でもその顔はやけに青白くて、私の記憶の中のお母さんより大分痩せこけてた。だから一瞬、この人が本当にお母さんなのか疑いそうになったけど、広い額に通った鼻筋、小さい口なんかは、間違いなく見憶えのあるお母さんのもので、ようやく見つけることができた嬉しさと安堵で、私は少し泣きそうになった。
「ねえお母さん、起きて。私……アストリッドが来たんだよ。びっくりした?」
話しかけてもお母さんの目は開かない。こんなに近くで呼んでるのに……。
「……お母さん、起きてよ。私だよ? ねえ――」
肩を揺らそうと思い、手を伸ばした……のに、私の手はお母さんの肩をつかめずに空を撫でた。その不思議な光景に、私は首をかしげる反面、頭からつま先へ冷たい何かが駆け抜ける戦慄を覚えた。
そんなはずない――私は静かに呼吸を繰り返しながら、もう一度、恐る恐るお母さんの肩に手を伸ばした。指先が触れる瞬間、感触が伝わるはずの私の指は、肩をすり抜けて下のベッドへ……それさえもすり抜けて、私の手はシーツの下に隠れた。
「……何、これ。どうなってるの……?」
指先をいくら動かしても、お母さんにも、ベッドにも触れられない――今まで、こんなことはなかった。私はちゃんと物に触れてたはずだ。それが何で急に……。
――自覚し始めているのではないですか?
肩に乗るエリスが言った。一体何を――そう聞き返そうとした時だった。
背後から足音が聞こえて私は振り返った。反対の奥の部屋から年の行った女性が現れて、こちらへ向かって来る。他にも人がいたとは気付かず、私は驚いて固まった。黙って家に入ったことを怒られるかと思って身構えたけど、女性は私には見向きもせず部屋に入って来た。そしてベッドの横に置かれた椅子に座ると、暗く悲しげな表情でお母さんを見つめる。
「ジェマ……」
名前を呼んで、女性は目に涙を溜めてた。それを指で拭いながら、どうにか泣くのをこらえてる感じだった。気まずい雰囲気だけど、私は思い切って話しかけた。
「あの、こんにちは……わ、私は、アストリッドって言います。この人の娘で……あなたは、お母さんの友達ですか?」
相手に聞こえる声で聞いた。でも女性はお母さんを見つめ続けてる。まるで私の声が聞こえてないみたいに……。また全身に戦慄が走った。そんなわけない。違う。私は、私は――
「何か言ってください。私のこと、見えるでしょう?」
立ち上がって私は聞いた。この狭い寝室で、目の前に立つ私のことが見えないはずはないんだ。こっちを見て、何か言って――そう望んでも、女性はちらりとも見てくれない。私という存在は、彼女の目には一切映ってない――それを受け入れるなんて、到底無理なことだ。
そこで私はふと、教会のリゼットさんのことを思い出した。あの人も私の声が聞こえてなかったけど、思えばこっちを見ることも少なかった気がする。……そうだ。この人もリゼットさんと同じで、耳や目を悪くしてるんだ。それで私の存在に気付いてないんだ。それなら――私は女性に歩み寄って、その腕に手を伸ばした。
「あの、こんにち……」
驚かせないよう優しく触れようとした。でも私の手は女性の腕をするりと通り抜けてしまった。私は息を呑んで、ゆっくり手を引っ込めた。女性の視線はお母さんに向いたままだ。静かに後ずさって、力が抜けそうな身体を懸命に支えながらエリスに聞いた。
「さっき、自覚とか言ったけど……それって、どういう意味なの?」
――この状況から、何か感じ取ったことがあるのでは?
あくまで冷静なエリスに、私は思わず唇を噛んだ。
「はっきり答えてよ。エリスは何を言いたいの?」
――何も言うべきことはありません。ただこれが、先ほどの少年の言葉の答えかと。
「私は、幽霊で、もう死んでるって言うの……?」
――あなたは、そう思うのですか?
「聞いてるのはこっちよ? エリスは私が幽霊に見えるの?」
――私にそんなことを聞いても無意味です。大事なのは、アストリッド自身がどう思うかです。
「どうって……私は幽霊なんかじゃないわ。だってこれまでいろんな人と話せたし、食事もして、ベッドでも休んで……そんなこと、幽霊じゃできないことでしょう?」
――そうですね。ですが、それらのことは今も詳細に思い出せますか?
「え? と、当然よ。ちゃんと憶えてるわ」
――では、教会で出された食事を、あなたはどのように食べましたか?
「野菜の入った、あのシチュー? スプーンですくって全部食べたけど。すごく美味しかった」
――食べ終えた後の食器はどうですか?
「全部食べたんだから空っぽよ。それをリゼットさんが取りに――」
そこまで言った時、私の頭に食器を回収するリゼットさんの姿がよぎった。その手に持ったスープ皿には、シチューがなみなみと入ってる――これは、何だ? 食べたはずなのに空じゃない? 記憶が、おかしい……。
「エリス……私、変だ。知らない記憶が――」
バタンと響いた大きな音で、私の思考はさえぎられた。そしてドタドタと急ぐような足音が寝室のほうへ近付いて来た。
「ああ、お義母さん」
部屋の入り口に現れた人物を私は二度見した。黒い短髪に切れ長の茶色い目、厳しい表情を浮かべてる顔は、私が記憶してるお父さんと何も違わなかった。集落で、死んでなかった――その驚きだけで私の頭は真っ白になった。
「……グレアムさん、お帰りなさい。それで、話はどうだったの? 何か聞けた?」
「ええ。先日向こうから戻って来た人がいて、通りすがりで見たっていう集落のことも聞けました」
「どんな様子だったの?」
「家が燃やされて、あちこちに死体があったと……ひどい有様みたいです」
「そんな……じゃあ、襲われたっていう噂は本当に……だけど誰が襲ったのかしら。あの辺りに盗賊なんているの?」
「いや、多分西に住むやつらです。前から俺達に対して執拗に嫌がらせして来てたから……あいつら、とうとう一線を越えやがったんだ。住人を殺しに来るなんて……」
「あの子は、アストリッドはどうなってるの? 地下室に閉じ込められたままなんでしょう?」
自分の名前が呼ばれて、私は我に返った。そして目の前に立つお父さんを見上げる――こんなに近くにいるのに気付いてないんだ。どうせ私のことなんか……。
「それが幸いして、やつらに見逃されて生きてる可能性もあります」
「行く気なの?」
「行かないと。わずかでも可能性があるなら……娘を、助けないと」
私は耳を疑った。娘の私を助けると、そう言ったの? 監禁中は一度も会いに来てくれなかったのに、どうして今は助けようとするの? 私のことを見捨てたんじゃなかったの? わからない。お父さんの気持ちが……。
「でも、今はジェマといられる最後の時間よ。その時まで、側にいてあげたほうが、この娘も喜ぶんじゃ……」
……お母さんといる、最後の時間?
「お気持ちはわかります。ですが、ジェマなら助けに行けと言うはずです。自分より何より、アストリッドを愛してましたから。集落を出たのも、それが理由ですし」
私を愛してたから、集落を出た……? やっぱり愛想を尽かしたからじゃなかったんだ。
「そうね……そうかもしれないわね。この娘はそれだけアストリッドに愛情を注いでたものね」
するとお父さんはベッドに近寄り、眠るお母さんに顔を近付けた。
「ジェマ、しばらくの間、俺は離れるけど、許してくれ。集落が大変なことになってるらしいんだ。アストリッドもどうなってるか……でも生きてると信じて助けに行くよ。君の前に連れて来るから、だから、それまで待っててくれ」
お母さんの頬を優しく撫でると、お父さんは額に口付けて離れた。
「……じゃあ、行って来ますんで、ジェマのこと、よろしくお願いします」
「グレアムさんも、くれぐれも気を付けるのよ」
わかりましたと言ってお父さんは足早に部屋を出て行く――私はここにいるのに、私を助けに行ってしまった。そんな状況に呆然としてると、肩のエリスが話しかけてきた。
――付いて行かないのですか?
「……付いて行って、どうするの?」
――お父さんはあなたを助けに行きました。付いて行けば、あなたが生きているのか、死んでいるのか、判明するのでは?
「私は、死んでなんか……」
――今も確実に、そう言えますか?
……言えない。手がお母さんをすり抜けて、誰にも存在に気付いてもらえないのに、自分は幽霊じゃないなんて、はっきり言うことはできない。だけど、私は死んだ覚えもないんだ。それだって事実……。
――早く行かないと、お父さんを見失ってしまいますよ?
「エリスは、私をどうしたいの?」
――どうするつもりもありません。けれど、真実を知ってほしいとは思っています。
「私が、もう死んでるってことを?」
――それは、アストリッドが答えを出してください。
やっぱりエリスは大事なところだけは言ってくれない。答え……それをズバリ出せないのは確かに気持ち悪い感じだ。これを引きずってたって答えは自然に出るものじゃない。お父さんに付いて行くことで答えがわかるっていうなら、エリスの言う通り、私は付いて行くべきか……。
視線を上げると、椅子に座る女性がさっきと同じようにお母さんを暗い表情で見つめてた。この人はお母さんのお母さん……つまり私のお婆ちゃんなんだろう。記憶の中じゃ初めて会うけど、多分小さい頃にもう会ってるのかもしれない。
ベッドに近付いてお母さんの顔をのぞき込む。痩せて、青白くなった顔……病気なんだろう。それも悪い病気。やっと会えたのに、笑顔も見れず、声も聞けないなんて……。お母さんに触れようとしたけど、私はハッとして動きを止めた。そうだった。すり抜けちゃうんだった。
「……じゃあ、またね」
おそらく聞こえてないだろう二人に一旦別れを告げて、私は家から出た。
――付いて行くことにしたのですか?
「うん。だって、そうすれば答えがわかるんでしょう? 今の自分が何なのか、はっきりさせたいから……」
村の中を進んでると、遠くの民家の陰にたたずむマイルズの姿があった。痛々しい姿で私を目で追って来る。自分のほうへ来ないか警戒でもしてるんだろう。彼は私を幽霊だと言った。彼にはそう見えるのかもしれない。でも私は幽霊だっていう自覚がない。他人を信じるか、自分を信じるか――村の入り口へ行くと、すでに先の道を歩くお父さんの後ろ姿を見つけて、私はその後を追って走った。信じてなかったお父さんに、答えを出してもらうんだ。




