十一話
夕闇が迫ってた。草しかない平原には風をさえぎるものもなく、野宿の場所選びに私を悩ませた。岩や木の一つぐらいあってもいいのに、あるのは地平線まで続いてそうなだだっ広い地面だけだ。粘って歩き進んでみたけど、結局景色は変わらなかった。鳥の姿も見えなくなって、じわじわと闇が私達に覆いかぶさろうとしてる。これ以上は限界かと、諦めて平原のど真ん中で野宿の準備をしようかと考え始めた時、ふと遠くへ視線をやると、闇に混じって黒い何かの影が見えた。
「……ねえエリス、あれ、何だかわかる?」
私は指をさして肩のエリスに聞いた。
――四角い影が見えますね。建物でしょうか。
もしそうなら住人に頼んで泊まらせてもらえるかもしれない。無人だったとしても、平原で寝るより少しは安全が確保できるだろう。
「もう暗いけど、見に行ってみてもいい?」
――構いませんが、くれぐれも気を付けてください。
私達は遠くの影の元へ向かった。近付くにつれ、夜の闇が濃くなって影は見えなくなっていくけど、一つの方向へひたすら進み、影の正体を確かめに行く。
「……あ、見えてたのは、これね……」
ある程度近付いたところで、それは見えてきた。ボロボロになった木の柱や梁、壁や屋根もあるにはあるが、ほとんど崩れてて何の役目も果たしてない。いわゆる廃墟だ。そんなものがいくつか並んで奥へ続いてる。エリスが言った通り建物ではあったけど、それは昔の話みたいだ。だけど建物には違いない。誰もいないなら交渉する手間もないし、今夜はここで休もう――そう思って廃墟に近付こうとした瞬間だった。
――待ってください。
肩のエリスが緊張を帯びた声を上げた。
「どうかした?」
――ここは、あまりよくない場所のようです。
「よくないって、何が?」
――アストリッドは感じませんか? 精神を逆撫でられるような、不快な感覚を。
私は廃墟の暗闇を見つめて探った。こういうところだから不気味さは感じるけど、不快な感覚まではわからなかった。それを知ろうと私はゆっくり歩を進めた。
――行くのなら、注意してください。すぐに逃げられるよう準備をしたほうがいいでしょう。
ここまでエリスが強い警戒を見せたのは初めてだ。一瞬進むのをためらったけど、私は意を決して前へ進んだ。よくないものとは何なのか、それを知っておきたかった。
「ここって、前は村とかだったのかな……」
――建物の数を見る限り、そのようですね。廃村となって大分時間が経っているのでしょう。
パッと見ただけでも廃墟は八軒以上ある。ところどころで伸びる雑草の下には、崩れた家の瓦礫が散らばってる。よく見れば焦げた石や農具なんかも転がってて、廃墟の柱も、家によっては焦げてすすが付いてるところもある。ここでかつて何があったかわからないけど、見てると集落での光景を思い出してしまう……。
「はっ……今、何か動いた……?」
私は足を止めて暗闇の奥の気配を探る。わずかに届く星明かりを頼りに姿を捜すけど、そこに動く何かは見当たらない。……おかしいな。いたと思ったんだけど。
「見間違い、だったかな……」
――いえ、います。
エリスの言葉に、どこにいるのかと聞き返そうとした時、私の顔の横を何かが通り過ぎたのを感じて、そちらへ目をやった。それはうっすらと白くて、寒い日に吐き出す息のようで、すぐに消えてしまいそうなのに、消えずにフワフワと白い尾を引きながら宙を飛んでた。
「……人の、幽霊……?」
ふとそんな感覚があったけど、すぐに自分で自分の言葉を疑った。私がこれまで見てきた人間の幽霊は、ほとんどが生前の姿を持って現れてた。そうでなくても光を放つ塊だったりしたんだけど、これは霧や煙のような姿……私は初めて見るものだった。
「エリス、これは――」
――急いでここを離れましょう。
「え? どうして? これ、危険なものなの?」
――そうです。ですから早く。
「もしかしてこれが、よくないもの……?」
浮遊する白い霧は私の周りをゆっくり飛んでる。そこに危険な印象はなかったけど、エリスに語気を強めてそう言われては従うべきだと思い、私は踵を返そうとした。
「っ! ……いつの間に……」
後ろに振り返ってゾッとした。白い煙が無数に飛び交ってた。二十、三十……それぐらいはいる。まるで虫がたかるように、私の退路を飛び回る霧がさえぎってた。
――囲まれてはいけません。反対の方向へ。
エリスに促されて私は廃墟の続く奥へ足早に向かった。
「私ヲ置イテ行クノカ」
「一人ダケ、ドコヘ行クノヨ」
「何デ、生キテルンダ。許セナイ」
後ろから、震えてひび割れたような声がいくつも聞こえてきて、私の背筋に凍り付く冷たさが走った。この声、普通じゃない……!
「エリス、何なのあれ!」
――死んだ人間の無念や憎悪が残り、集まった存在……いわゆる悪霊というものです。
「悪霊……じゃあやっぱり人間の幽霊なのね」
――そうですが、彼らは憎悪が強過ぎるあまり、姿も正気も失い、もはや意思疎通はできません。触れようものならあなたもただでは済まないでしょう。
「そんなに怖い存在なの? わっ……」
目の前を悪霊が横切って思わず声が出た。周りを見ると、飛び交う数が増えてるように感じた。
「何か、囲まれ始めてる……」
――とにかく走って逃げるのです。
言われるままに私は走り出した。どこまで行けばいいかわからないけど、まずは廃村の外を目指して駆けた。が、真っすぐ走ろうとすると横から悪霊が飛び出し、私を足止めしようとして来る。
「逃ガサナイ」
「ドコヘモ行カセナイ」
「アナタモワタシト一緒ニイルノヨ」
それぞれが勝手なことを言ってる。私はその声に耳を塞いで走る。
「サア、死ヌンダ」
「オ前ハ生キテ帰サナイ」
「苦シミヲ味ワエ」
懸命に走っても悪霊は数で私の走りを妨害してくる。どうしよう、このままじゃ本当に囲まれて……。
――アストリッド、私に乗ってください。
急に言われて足を止めると、エリスは私の肩から地面に下り、小鳥の姿からそれよりも大きな何かに変身し始めた。
――さあ、乗って。
エリスは青い光を放つ馬に変わった。足を折り、乗りやすい態勢になる。私は驚く気持ちを抑えて背にまたがった。
――しっかりつかまってください。
たてがみの生えた首にしがみつくと、エリスは立ち上がり、そして颯爽と走り出した。
「すごい……速い!」
風を切り、エリスは廃墟の間を駆け抜けて行く。
「これで逃げ切れそうだね」
――どうでしょうか。彼らは執拗です。どこまで追って来るか……。
そう言われて後ろを見やると、確かに、まだ多くの悪霊が私達を追って来てた。
――はっ!
エリスの驚いた声がしたのと同時に、私の身体は前へ大きく傾いた。まずい、と思った時にはもう間に合わず、しがみ付いてた両手は離れ、私は宙を飛んで地面に放り出された。
「痛……い……」
草むらの中に仰向けで倒れたまま、私は強く打った背中の痛みをこらえる。一体何が起きたのか……。
「何カイルゾ」
「モウ一人イル」
「捕マエロ」
草の間から不気味な声のするほうをのぞいてみれば、青い光を放つエリスが悪霊達に取り囲まれてた。でも囲んでウロウロするだけで、馬の姿のエリスに気付いてないような素振りもある。これまで会った幽霊は皆エリスが見えてなかった。この悪霊達も同じということなんだろうか。エリスもそれがわかってるのか、近付きそうな悪霊を避けながら逃げ道を探ってた。するとその目が私を見つけて言った。
――アストリッド、無事ですか? 無事なら声を出さず、頷いてください。
悪霊に気付かせないためなんだろう。私は草むらの中から頷きを返した。
――よかった。落としてしまってごめんなさい。悪霊に足を引かれ、転んでしまいました。触れられたせいか、気分があまりよくありません。
その言葉通り、馬の姿は時折、輪郭を歪ませたり収縮したりしてた。悪霊のせいでエリスに何らかの支障が起きてるみたいだ。私がもっと側に行かないと――
――来てはいけません。悪霊はあなたを見れば取り憑いて危害を加えるでしょう。ですが今はあなたの姿を見失っています。この隙に逃げてください。
何を言ってるのか。エリスを残して逃げたら、霊力が得られないエリスはますます逃げられなくなるのに――私は声が出せない代わりに思い切り首を振って拒否した。
――大丈夫。私はこの者らには見えない存在です。あなたが追われないよう誘導してから逃げます。
誘導? どこかへ連れて行くってこと? でもこれ以上離れたら私の霊力がエリスに届かなくなるんじゃ……。
するとエリスは姿を元の球体に戻すと、いつかの泥棒に向けてやった、小石や落ち葉を地面に向けて飛ばし始めた。
「ココニイルノカ」
「ドコダ、ドコニイル」
「捕マエテ殺セ」
動きや音に反応した悪霊達が動き始めた。それに合わせてエリスも移動を始める。……駄目だ。私から離れたら霊力が!
――アストリッド、逃げるのです。
その一言を残して、エリスは悪霊と共に廃村の奥の暗闇へ消えて行った。私は草むらから飛び出して追おうとした。けど、恐怖が全身を引き止めた。見つかれば悪霊の群れに追われる。捕まったら命を奪われるかも……それじゃエリスがしてくれたことが無駄になる。私を助けようとしてくれてるのに――静かに方向を変えて、私は言われた通り逃げ出した。雑草や廃墟に身を隠しながら廃村の外を目指して進む。
でも、ふと足を止めて考えた。ここに来たのは私だし、エリスの言葉を無視して入ったのも私だ。こんなことになった責任は私にある。それなのに巻き込んだエリスに助けてもらって、私だけ逃げ出すなんて、あまりに身勝手で薄情だ。エリスの行動が無駄になる? そんなの自分への言い訳だ。私はただ怖いだけだ。怖いから逃げ出したいだけ……でも、一人で逃げるなんてやっぱりできない。エリスを置いて行ったら私は後悔するってわかってる。引き返せ。引き返してエリスと一緒に逃げるんだ。怖かろうと危険だろうと、そんなのは関係ない……!
私は来た道を戻った。雑草をかき分けて足を動かす。でもその動きは鈍い……身体はやっぱり正直だ。私は悪霊に近付くのが怖かった。取り憑かれたらこの身はどうなってしまうのか。少なくとも無事じゃいられないのは確かだろう。少し触れられただけのエリスでもああなんだ。大量の悪霊に襲われれば、多分この命はなくなる……。
「……勇気を、出せ……」
私はそう何度も呪文のように呟いて自分を奮い起こす。悪霊なんかより、エリスをこんなことで失うほうがもっと怖いんだ。だから早く――針金でも入ったような動きの足を無理矢理前へ進め、私はエリスの消えた奥の暗闇へ向かった。
物音を出さないよう忍び足で進んで行くと、前方にちらほらと悪霊が飛び交ってるのが見えた。あの辺りにエリスはいるんだろうか。いるなら青く光る姿が見えるはずだけど……。それを捜して私は横から回り込むように進んだ。
「あの建物……やけに悪霊が集まってる……」
少し進むと、廃墟とは違って壁も屋根も残ってる建物を見つけた。これは石で造られてるからか、見た目はかなり汚れてるけど、一応建物の形は残ってる。その周りを白い霧達がフワフワと飛び回ってた。
「ドコヘ行ッタ」
「ココイラデ気配ガスルゾ」
「見ツケ出セ。逃ガスナ」
耳を済ますと、風に乗って悪霊達の声が聞こえて来た――エリスはあの建物の近くにいるかもしれない。でも今のところ青い姿は見当たらない。……もしや建物の中にいたりするんだろうか。中へ逃げ込んだとすれば、こんなに囲まれてしまった状況で逃げる方法がなくなったことも考えられる。何せ私と離れて霊力が得られてないんだ。思うように動けないでいるかもしれない。確かめてみたほうがいいだろう。
でも、こんなに集まってる悪霊に気付かれずに、どうやって近付けばいいのか。草むらに隠れながら行くしかないんだろうけど、これだけ数がいると、少しの音や動きでも反応されそうで怖い。この暗闇にもっと紛れ込めればいいんだけど――考えながら腕を組んで視線を落とした時、私は自分の服装を見た。赤紫色のワンピースに、その上には灰色の外套……灰色……これは使えないだろうか。そんなに明るい色じゃないし、頭から被れば多少ごまかせそうな気もする。気休め程度にしかならないかもしれないけど、他に隠れて近付く方法が思い付けないんだ。怖いけど、やってみるしかない。
私は外套を脱いで、それを頭から被ると、低い姿勢で四つん這いになる。周囲に悪霊がいないのを確認してから、草むらの間をのそり、のそりと亀のように進んだ。頭上を飛ぶ悪霊からは何か動いてるとわかっても、すぐに人間だとは気付かないだろう。灰色の謎の物体があると思ってさえくれれば――
「イタ。生キテルヤツダ」
「ココダ。ココニイル」
「殺セ! 殺セ!」
全身の血が引く声を聞いて私は頭上を見た。無数の霧が私の周りに集まって来てた。まったく通用してない。失敗だ。殺される! ――外套を抱えて、私は一目散に目的の建物に駆け込んだ。そして真っ先に目に留まった長椅子の後ろに身を隠した。こんなことしたってすぐに見つかることはわかってる。でも殺される恐怖でとにかく隠れることしか頭になかった。膝を抱えてうずくまり、苦しむ時に備えてギュッと両目を瞑る。抑えようとしても手足は小刻みに震え続ける。もう何も考えられない。ここで全部、何もかもが終わる――そうして覚悟してたのに、その瞬間はなかなかやって来ない。おかしい……完全に見つかったのに、悪霊が全然襲って来ない。どうして……?
私は目を開けて、恐る恐る長椅子の裏から顔を出した。
「……入って、来てない……?」
暗い建物の中を飛ぶ霧はどこにもなかった。そして入り口のほうへ目を向けると、その外にはフワフワとうごめく無数の悪霊達の姿がある。どういうことだ? 入り口は開いてるのに誰も入って来ようとしてない。入り口がわからないんだろうか。いや、そんなわけない。私が入り込んだのを見てるはずだし、追えば自然に入れるのにそうしない……入れない、入りたくない理由でもあるんだろうか。
悪霊が来ないのがわかり、外套を着直した私はひとまずホッとしながら建物内を見回してみた。暗くてよく見えないけど、辺りには朽ちた長椅子がいくつも並び、高い天井には傾いた照明器具がぶら下がってる。どうやらここは普通の民家じゃなさそうだ。どういうところなんだろうと歩き回ると、壁際に置かれた大きな台の上、倒れた燭台の間に木で作られた天使の像を見つけた。カビなのかすすなのか黒く汚れて、片方の翼は折れてしまってる。他にも大小の木像が転がってたけど、割れたり欠けたりして何の像か判断できない。ただ唯一わかった天使の像からして、ここは多分、教会とか礼拝堂なんだろう。村の人達は神様に助けを求めて、ここでお祈りしてたに違いない。
「……そうか。神聖な場所だから、悪霊達は入れないのかも」
一向に入って来ない理由を見つけて私は納得した。こんなに荒れてボロボロでも、神聖な力はまだ残ってるんだろう。
――アスト、リッド……。
どこからか捜してた声が聞こえて、私は後ろへ振り返った。
「エリス! いるの? どこ?」
――こちら、です。
後ろじゃなく、横から聞こえる。そっちへ目を凝らし、姿を捜す。
「どこなの? 教えて」
――そのまま、真っすぐ……床に、います。
その通りに進んで私は床を探った。土や瓦礫が散乱した中に、小さな木像が転がってた。よく見ればそれはかすかに青い光を放ってる――エリスだ! 私はすぐさま拾い上げた。
「エリス、この中にいるの?」
――ええ。この神像には、多少の霊力が保たれていたので……。
「無事なの? 身体は大丈夫?」
――無事、とは言い難いですね。辛い状態と言えます。ですが、あなたが来てくれて、その霊力で幾分か動けそうです。
動けるとは言っても、その声は大分弱って聞こえる。
「動かなくていいから。まだこの中にいて。私が運んであげるから」
――ありがとうございます。それにしても……なぜ逃げずに、戻って来たのですか?
「エリスを助けるために決まってるでしょ! あなたを失うなんて絶対に嫌だったから……」
――危険をかえりみず、無謀なことをしましたね。
「無謀なのはエリスも同じじゃない。悪霊を引き付けて私から離れるなんて。霊力がなくなっちゃうのに、その後どうするつもりだったのよ」
――霊力はなくとも、ゆっくりとなら移動はできます。ですから、悪霊の静まる朝まで待ち、それから逃げようと考えていました。
「私が助けに来ることは考えなかったの?」
――そうですね。あなたには逃げてもらいたかったので。まさか戻って来るとは思いませんでした。
「私ってそんなに薄情に見える?」
――そうではありません。アストリッドは怖がりなようですから、戻る勇気があるとは思わなかったのです。
言われて、それは確かにと自分でも思ってしまった。
「何かに追い立てられると、人って自覚してない勇気が出るみたい。だけどそれで怖さが吹き飛んだりはしないけど。今も怖くてたまらない……」
入り口や壊れた窓の外を見れば、悪霊の群れがこちらの様子をうかがうように飛び交ってる。ここにいれば襲われないとわかってはいるけど、取り囲まれた状況を考えれば恐怖しか感じない。
――悪霊の中には、私の存在に気付く勘のいい者もいたようで……油断しました。
「これからどうする? 朝まで待って逃げたほうがいいの?」
――それが最善なのでしょうが……こちらが持たないかもしれません。
「え? エリス、そんなに辛いの?」
――アストリッドの霊力は得られているのですが、それ以上に、悪霊達の瘴気が……ここに留まっているだけでも私の体力を削っていくのです。
「私の側にいても元気になれないの?」
――向こうの数が多過ぎて、回復が追い付いていません。できれば、長居したくありませんね。
この場にいるだけで体力が減らされる……エリスにとっては命に関わる危険な状況みたいだ。だけど――
「こんなに囲まれてたら、逃げたくても逃げられないよ。どうすれば……」
窓にも入り口にも飛び交う悪霊達が待ち構えてる。その様子からは、彼らが諦めて去るにはまだ時間がかかるように思えた。ここを出るのは朝じゃないと無理そうだけど……。
――このままいても、私の状況が悪くなるだけならば……アストリッド、あなたも危険にさらしてしまいますが、一か八か、やってみてもいいでしょうか。
「何か、考えがあるの?」
――考えというほどのものではありませんが……。
そう言うとエリスは、手元の神像からふわりと抜け出ると、床に着地して変身を始めた。いつもより不安定で、時間をかけながら変わったのは、先ほどと同じ馬の姿だった。
――私に、乗ってください。
「でも、弱ったままじゃ……」
――大丈夫。全力を振り絞れば、走れないことはありません。今は、この身の速さで、悪霊達を振り切るしか方法がありません。危険な賭けになりますが……。
それで一か八か……。さっきみたいに悪霊に転ばされたら、エリスも私も今度こそ助からないかもしれない。だけどここで待ってたってエリスは消耗して助からないかもしれないんだ。だったら危険な賭けだとしても、エリスのために私はやるしかない――側の長椅子に神像を置いて、私は馬のエリスにまたがった。
――こんなことをさせてしまい、申し訳ありません。
「違うわ。謝るのは私のほうだから。エリスを弱らせたのは私のせいでもある。だから、私も逃げられるように全力を出す」
両手でたてがみをギュッとつかみ、振り落とされないよう構える。
――では、できるだけ身を低く、悪霊に触れないように。
言われた通りに上体を下げ、目の前の緊張を感じながら走り出すのを待つ。エリスは入り口の先を見据えて、飛び出すタイミングを計ってるようだった。そして――
――行きます。
悪霊の姿がまばらになった瞬間を狙い、エリスは建物から飛び出した。
「出テ来タゾ」
「殺シテシマエ」
「誰モ許スナ」
おぞましい声が私の耳をかすり、通り過ぎて行く。エリスは言った通り、全力で駆けてた。進路に出て来る悪霊を右へ左へ避けながらひた走る。弱ってることなんか少しも感じないぐらい、きっと必死に走ってくれてるんだ。
「ケケケッ、待ッテタゾ」
不敵な笑い声に前を見れば、悪霊が正面で待ち構えてた。エリスは走りながら軽やかな足取りでそれを避けようとする。が、その瞬間、白い霧は霧散するように広がり、さらにエリスの前へ張り出して来た。ぶつかる――その恐怖に私は頭を下げてたてがみにすがった。
――くっ……。
嫌な気配が通り過ぎた。それと同時にエリスが小さなうめき声を漏らした。
「エリス、大丈夫?」
――少し、触れてしまいましたが……どうにか。
そう言いながらエリスは変わらない速さで駆け続けてる。私は一安心した。
多分、五分も走ってないと思うけど、それ以上長く走ってたような感覚だ。周りを見れば廃墟の景色はなくなり、宵闇の中の野原と薄い光の散らばる夜空が広がってる。たくさんいた悪霊の姿も消えてた。廃村から出られたみたいだ。
「……エリス、上手く行ったわ。私達逃げられたみたい。少し休んで――」
――すみません。もう、限界が、来て――
徐々に四本の足の動きが遅くなり、やがて完全に止まると、エリスの変身が突然解けて、私は地面に落ち、尻もちをついた。でも痛がってる場合じゃなかった。足下で球体の姿に戻ったエリスだったけど、明らかに様子がおかしかった。放つ青い光が弱いし、大きさもいつもより小さくなってるようだった。
「ど、どうしたの? 苦しいの?」
――再び悪霊に触れて……まずい、ですね……。
話すのも辛そうな口調に、私は焦った。せっかく逃げられたのに、こんなところでエリスを失うなんて、絶対に嫌だ……!
「私は、どうすればいい? 何をすればいいの?」
――この、まとわり付く瘴気を、浄化、して、くれませんか……。
「浄化? って、どうやれば……」
――簡単な方法は、聖水を浴びることで、できるでしょう。
「聖水……あの、巡回で来てた神父様が使ってた、綺麗な水のこと?」
――ええ……ありそうな場所へ、私を、連れて行ってもらえませんか……自分ではもう、動けそうに、ありません……。
「わ、わかった。すぐに運んであげるから、だからもう少し頑張って!」
励ましの声をかけて、私は地面で動かないエリスにそっと両手を伸ばす。こんなふうに触れるのは初めてだけど、両手で包んで持ち上げたエリスは、冷たくも温かくもなくて、ふんわりとした感触だけのする不思議な手触りの身体だった。その頼りない身体を押し潰さないようにしながら、私は外套の胸元を開き、そこにエリスを入れた。こうすれば雨が降っても当たらないし、何より私の一番近くにいられる。
「聖水……神父様……まずは教会を探さないと……」
深まる夜と暗闇の中を、私は当てもなく歩き出す、この先に町や村があるかもわからないけど、進まないことにはエリスを助けられない。まずは広い道に出て、それに沿って進むことを考えて、私は早足で歩んだ。




