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あなたはこの物語を知らない

作者: 詩上紗鳥

 あなたはこの物語を知らない。

 あなたがまだ学生であった時のことだ。あなたは夜八時頃、冷蔵庫を開けて何か大切な物が足りないことに気がついた。それは風呂上がりに飲むビールや牛乳だったかも知れない。あるいは何か切らしておくと困る調味料だったかも知れない。あなたはその何かを買うために、上着を羽織って外に出た。冬のある日のことだ。

 あなたが学生時代を過ごした場所は、都会と呼ぶには店も人も少なく、しかし田舎と呼ぶには開かれすぎているような、中途半端な街だった。その郊外にある一軒の借家、アパート、あるいは学校の寮にあなたは住んでいた。郊外とはいえ、あなたが急な買い物をしようと思うコンビニには歩いて数分で行くことができた。

 あなたはいつも使っているコンビニで目当てのビールか牛乳か、あるいはソースかケチャップかを買うと、コンビニ袋を下げて帰路についた。しかしその途中で、ふと思い立って、行きとは違う、普段使わない道を通ってみることにした。

 とはいえ、家とコンビニの間はそれほど長い道程ではないので、道に迷うような難しい選択ではなかった。あなたの家とコンビニの間には小さな公園があった。砂場とブランコとトイレ、そして一本の電灯ぐらいしかない小さな公園だった。いつもあなたはコンビニから来て公園へ突き当たると、公園の右側の道を選んで、公園を左手に見ながら帰った。その方が家には近かったからだ。

 その日の選択というのは簡単で、公園に突き当たった時に左に折れ、公園を右手に見ながら歩こうというものだった。若干遠回りになるものの、いつも通る道は公園を挟んで向こう側、それこそ公園を横切ってすぐにでもいつもの道に戻ることができた。それなら夜のちょっとした気まぐれにちょうどいいとあなたは思った。

 あなたは公園に突き当たって、考えていたとおり左の道へ入った。家に帰るまでせいぜい百メートルといったところだろうか。散歩というにも短すぎるその選択は、しかし意外にも思わぬ偶然をあなたにもたらした。

 あなたは左側の道に入って、ほんの少しの間公園を見ていた。もう夜中といって差し支えない時間帯で、周囲に立つ同じような民家やアパートには優しい光が灯り、大きな通りも夜中やっているような店も離れたその公園に何かあるはずもなかった。もしこれが怪談なら、きっとたった一つの電灯に照らされたベンチに髪の長い女の人が俯いて座っているところだろうと思ったが、あいにくそんなことはなかった。その公園にはなぜかベンチがなかったのだ。

 あなたは公園を見ていることにも飽きて、左手へと視線を移した。そこには個性に乏しい二階建ての綺麗な民家が淡い光を灯した窓をもって建っている。あなたはそこに誰が住んでいるのかもちろん知らなかったし、おそらく民家に住んでいる人も、隣の家に住んでいる人が男か女か、子持ちか独身かも知らない。いつから住んでいて、いつ去っていくのかも知れない。そんな場所だからこそ、あなたはそれを見つけることができたのかも知れない。

 あなたは民家と民家の間に、妙に明るい路地があることに気がついた。狭い路地だった。人が一人通るのがやっとといった様子で、車が通ることなどいくら小型車でも無理だろうと思われた。妙な道だった。その辺りの民家というのは隣家と庭と庭、塀を挟んで接しているもので、もし家と家が離れているとすればそれは車が通行するための道が通っているからだった。車の通れない、それでいて接している家とは塀で確かに区切られている、民家の庭の一部ではない路地などというものが存在するはずがなかった。

 しかしあなたは確かに、その路地から明かりが漏れているのが見えた。これが怪談だったら、きっとその先には提灯が二つ下がった玄関のようなものが見えて、その明かりの前で二人の女の子が黙ったまま遊んでいるのが見える、あなたは不思議に思いつつもそこへ近寄ることはなかった、と続くのだろうが、そうはならなかった。あなたは路地に抵抗なく入ることができたのだ。

 あなたは不思議に思った。その明かりはどう見ても小さな家の窓から漏れてくるものだった。女の子が遊んでいるようなことはなかったが、近づいてみるとそれはガラス張りのスライド式の戸、形だけいえばあなたが先ほど買い物をしたコンビニと変わらなかった。ドアの横には同じようにガラス窓があり、顔を近づけて中を覗き込むと、家の中には古めかしい本棚が並んでいた。

 本屋、それも古書店のようだった。あなたはとっさに明治、大正、昭和のようなセピア色の写真を想像した。まさにそのような雰囲気がその店にはあった。全国チェーンの大規模な古本屋が国道沿いに建つ時代に、住宅地、それも狭い路地の奥にそんなものがあるとは信じられなかった。

 あなたはこれが怪談ではなかったとしても、どうやら尋常ではないと考えた。おそらくこの路地は明日には無くなっていて、自分は妙な夢を見たのだと納得するのだろうと思った。あなたは大変冷静だった。どの程度冷静だったかというと、そのままガラス戸を開けて中に入るだけの判断力があった。無くなってしまう店にその時入らずにしていつ入るのかというのがあなたの考えだった。

 外から見た古めかしさに反して、店の中は綺麗に掃除整頓され、本棚に並んでいる本も全国チェーンの古本屋とさほど変わらない品質を保っているように見えた。少なくとも触っただけでぼろぼろと崩れていったり、あるいは日焼けして読みづらいほど痛んでいたり、堅く固まって開くだけで苦労するような本ではない。

 店に入ってすぐ右手に、古い言い方をすれば勘定台、会計カウンターがあった。それは木製の横長の机をガラス戸にくっつけるように置き、その上にそろばんが乗っかっているだけのものだった。その奥、カウンターの中、一人の青年が座っていた。

 さすがのあなたもこの時は驚いた。まさか人がいるとは思わなかったのだ。この手の怪異では人が住んでいる様子はあるが姿は見えないというのが定石だと思っていた。だから青年が眼鏡を掛けているのを見て再び驚いた。眼鏡が一般に普及したのはいつ頃だっただろうかと考えたが、ただの学生であったあなたが知るはずもなかった。あなたとそう年が変わらないように見える青年は、今でいう甚平のような古い和装を着ていた。冬にそれでは寒かろうと思ったが、店の中は空調も利いていない様子なのに快適な温度で保たれていた。

「今時客が来るなんて、珍しいこともあるもんだ」

 青年はあなたを見上げるようにして微笑んだ。その顔は現代の好青年そのもので、その店の異常さとはどうにも不釣り合いのような気がした。店は古くからあるが青年は時代の変化を感じているのだろうかとあなたは考えた。しかしさすがにその時青年に聞くことはできなかった。

「好きに見ていくといい」

 そう言って青年は手元へと目を落とし、文庫本を読み始めた。まさに店番のようだった。青年の言葉のままに、あなたは店を見て回ることにした。ガラス窓に面した場所には膝あたりの高さの棚があり、何かの本が平積みされていた。あなたはその一つ一つに目を通すのだが、なぜかその内容が何なのかを理解することはできなかった。壁にはあなたの手がなんとか届く高さの棚が並んでいて、店の中央には一つ、両側に本を入れた本棚が立っていた。

 本はやはり綺麗で、中には数年前に作られたとしか思えないような綺麗な本もあった。しかしやはりどれを見ても、その内容を想像することはできなかった。平積みにされた本は表紙を、棚に並んだ本は背表紙を、それぞれ見て文字を読むことができているはずなのだが、その文字があなたの中で意味を持ってこないのだ。喩えるなら、古典文学を開いている時に似ていた。文字を追うことはできる。だが意味が分からない。

 そんな中で、あなたは一つの本が目についた。それはガラス戸から一番遠い、店の一番奥に当たる本棚の中程に並んでいた。朱色の背表紙が見えた。いつの間にか、あなたはその一冊を抜き取り、手に取っていた。表紙には何も書かれていなかった。ただ朱色だけが文庫本サイズの本を彩っていた。

「見つかったようだね」

 眼鏡の青年が隣に立っていた。柔らかな微笑みを崩していなかった。あなたは青年がそこにいることを疑問に思わなかった。あなたは青年にその本の値段を尋ねた。するとあなたが想定していた通りの答えが返ってきた。

「代金なんていらない。その本があなたを選び、あなたはここへ来てその本に出会ったんだ。好きに持って行くといい。ただ」

 と、青年はもったいぶって、

「あなたはそれを読んだ後、もう一度この店へ来るだろう。その時にあなたがいらなくなった何かの本を持ってきてくれ。使い古したノートでも、読み込んだ文庫でも、去年の手帳でも、何でもいい。それを代金として受け取るとしよう」

 そうしてあなたは店を出た。路地を出て、一度だけ振り返った。やはり路地の奥には光が漏れていたが、少ししてガラスの揺れる音がしたかと思うと、ふっと光が消えた。店じまいしたのだろうとあなたは思った。

 家に帰って、冷蔵庫にコンビニで買ったものを入れた後、先ほどの店はなんだったのだろうかと考えた。幽霊だろうか。古書店の幽霊。明治何年とかにあそこには小さな古書店があって、一人の青年が店番をしていた。だが時がその店の存在を許さず、やがて店はなくなったが、あの青年と古書店のあの時間だけはあの場所に残っていて、あなたのような気まぐれで覗き込む人間を誘い込む。そして本を与えるのだ。

 馬鹿らしいと思いながら、その晩あなたは眠りについた。夢を見た。あなたはあの店の外からガラス窓を覗いている。青年が本棚の整理をしている。ところどころ一冊だけ抜き取ったかのような間が空いている。思い返すと、あなたが店にいた時にも確かにそんなところがあったように思えた。青年はその間を他の本や、あるいは本の間隔をずらすなどして埋めようとはしなかった。むしろその間が他の本が倒れるなどして埋まらないように本を支えていた。その間にはきっと入るべき本があるのだとあなたは思った。

 目が覚めて、その日はちょうど一日何の用事もない休日であることを思い出した。

 あの本はあなたの手元にあった。あなたは洗面と朝食を済ませ、お気に入りの飲み物を用意すると、こたつに足を突っ込み座椅子に深く腰掛けた。

 あなたは本を開く。そこには読む人全てが感動せずにはいられない、悲しく美しい物語が、筆舌にしがたいほど技巧に優れた文章で記されていた。

 あなたが頬を流れる涙に気がついた時、窓の外は暗く静かだった。時計は夜の八時前を示していた。あなたは一日中その本とその物語に夢中になっていたのだ。それだけの魔力がある物語だった。あなたは夢を思い出した。その物語を自分だけが持っていてはならない、その本は元あった場所へ返さなければならないとあなたは思った。同時に、青年の言葉を思い出した。あなたは本棚を見渡したが、その本を一日借りた代金に足る本は無いと思った。しかし青年の言っていたとおり、もう不要になった去年の手帳を手に家を出た。

 古書店は変わらずそこにあった。カウンターに座っていた青年は、あなたが店に入ると何もかも分かっているかのように手を差し出した。あなたはそこに朱色の表紙の本と手帳を重ねて置いた。青年は本を机の上に置き、手帳をめくっていった。あなたはそれでいいかと尋ねた。すると青年はこう答えた。

「もちろん。これはいいものだ」

 その言葉の意味をあなたは分からなかった。あなたは聞いてはいけないことのように思いつつも、どうしても聞きたくなってしまった。あなたは青年に、青年と、そしてその古書店は何なのかと聞いたのだ。

 青年は首を横に振ってこう答えた。

「あなたは確かにこの店に来て、この本に出会い、その物語を読んだ。これは紛れもない真実だ。だが残念なことに、あなたはこの一日に起きたことを全て忘れる。だから、あなたはこの店が何なのか知ることはないし、物語の内容を語ることもない。あなたは何も知らないのだ」

 あなたは店を出た。路地を出るまで数歩、ゆっくりと歩を進めた。路地を出たところで振り返ると、ガラスの揺れる音がして、ふっと明かりが消えた。手にはコンビニ袋が下がっていた。

 だから、あなたはその物語を知らない。

 比較的面白みのある話。最後の一文が全てとも見える。

 「完全な二人称小説は存在しえない」と聞いて書かれた。というのも、昔から非常に大きな影響を受けているMOONSTONE「何処へ行くの、あの日」の冒頭部が「あなた」であり、またそれを真似た私の処女作は読者自身である「あなた」が本を開くという形式だったから。もっとも、今思えば「どこあの」の「あなた」は作中主人公のことにすぎないのだが。

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