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第1章:開戦前夜の静寂と予兆

第1章:開戦前夜の静寂と予兆

第1節:薄明の監視:千島の異変と情報戦の幕開け


20XX年〇月〇日、午前6時00分。北海道札幌市。陸上自衛隊北部方面隊司令部の地下深くに位置する統合情報分析室(JIAC - Joint Intelligence Analysis Center)。壁一面を埋め尽くす巨大なマルチモニターには、千島列島からサハリン南部にかけてのリアルタイム衛星画像、SIGINT(信号情報)解析データ、OSINT(公開情報)フィード、そして地上の兵力配置を示す戦術マップが、それぞれ異なる色と数字で明滅していた。室内の空気は、フィルターを通した冷たい空調の音と、キーボードを叩く乾いた音、そして通信ヘッドセットから漏れる微かなノイズに満ちている。誰もが顔色一つ変えずに、ただ眼前のデータに集中していた。


陸上自衛隊北部方面隊司令部所属情報部長、兼、統合情報分析室長、佐藤玲子二等陸佐は、分厚い眼鏡の奥で鋭い視線をモニターの最上段に固定していた。彼女の隣では、統合幕僚監部付のベテランSIGINT解析官、藤村一等陸尉が、ロシア語の生データを解析端末に猛烈な速度で打ち込んでいる。玲子の指先が、無意識のうちに机の端を規則的に叩く。その小さな音が、張り詰めた静寂の中で、なぜか彼女自身の心臓の鼓動のように響いた。


「サハリン南部、ホルムスク港からの部隊集結、規模が初期報告から30%増大。戦車T-80BV、BMP-3歩兵戦闘車、2S19ムスタ-S自走榴弾砲…識別コードから確認済み。先週から継続されていた**『ヴォストーク20XX』**演習部隊の規模を、明らかに超過しています」


玲子の班に所属する若手分析官、橋本三等陸曹が、緊張した声で報告した。スクリーンに表示された戦術マップ上の赤いシンボルが、その言葉を裏付けるように急増していく。玲子は眉根を寄せた。単なる演習にしては、あまりにも唐突で、そして迅速すぎる、まるでスクリプトを無視したかのような動きだ。演習名目は戦術核運用訓練であったが、兵器の構成は通常戦力の投射を明確に意図していた。


「択捉島と国後島における展開はどうだ?」玲子が尋ねる。彼女の声は抑揚がなく、まるで機械音声のようだった。


「両島の既存陣地、特に天寧テンネイ摺手スリテ両飛行場周辺に、新たな戦術部隊が展開。第18機関銃砲兵師団の一部と見られます。そして、最も異常なのは…」藤村一尉がヘッドセットを外し、声を潜めた。「燃料補給、弾薬の積み込みが、通常の演習時の五倍以上のペースで進行しています。特に152mm砲弾、戦車砲弾の搬入が顕著です。徹夜作業、しかも厳重な迷彩と灯火管制下で行われています」


玲子の胸に、不吉な予感が氷の刃のように突き刺さった。五倍。それは、即応展開態勢、つまり戦闘準備の速度を示す絶対的な指標だ。演習という名目で、ロシア軍は着々と侵攻のための準備を進めている。彼らは、自衛隊の警戒網を欺くために、高度な**情報戦(C4ISR - Command, Control, Communications, Computers, Intelligence, Surveillance, and Reconnaissance)**を仕掛けてきたのだ。


日本海、電波の嵐

同時刻、日本海沿岸に設置された航空自衛隊のレーダーサイトは、深刻な**電子妨害波(Electronic Warfare, EW)**に苦しめられていた。宗谷、襟裳、佐渡といった主要なレーダーサイトでは、スクリーンがノイズにまみれ、識別不能なゴーストターゲットが乱舞していた。


「航空自衛隊第3警戒隊(宗谷)、強力なECM(Electronic Countermeasures)を確認!周波数ホッピングとパルス変調を組み合わせた新型と推測されます。レーダーの有効範囲が50%まで低下!」


防空指揮所(DCG - Air Defense Command Group)から、悲鳴に近い報告が入った。ロシア空軍機、特にSu-34フルバックやSu-35SフランカーEといった最新鋭の戦闘爆撃機が、過去にない頻度で日本の防空識別圏(ADIZ - Air Defense Identification Zone)ギリギリを飛行し、強力なジャミング波を発信しているのだ。一部のレーダーは完全に機能不全に陥り、通信回線の一部では断絶も発生していた。自衛隊の**統合防空ミサイル情報システム(JADGE)**は、異常な負荷に耐えかね、一部機能が停止していた。


「玲子、この電子妨害波は尋常じゃない。向こうは本気で俺たちの目を潰しにかかってるぞ。C3Iシステム(Command, Control, and Communications, Intelligence)の麻痺を狙ってるんだ」


情報分析官の一人が、額の汗を拭いながら言った。玲子は深く頷いた。その通りだ。これはただの演習ではない。これは、宣戦布告前の電磁パルス(EMP)攻撃や大規模なサイバー攻撃に先立つ、実戦を想定した予行演習だ。彼女の脳裏には、数年前に防衛省のシミュレーションで予測された、恐ろしい**「冬の北海道電撃侵攻シナリオ」**が鮮明に蘇った。冬の北海道は、豪雪と凍結に閉ざされ、部隊の機動を困難にする。しかし、それは同時に、奇襲攻撃にとっては、自衛隊の防御態勢を崩す絶好の条件でもあった。


太平洋艦隊の影:海からのプレッシャー

そして、最も懸念された情報がもたらされた。ロシア太平洋艦隊の艦艇群が、北海道東岸へ向けて速度を上げながら接近していることが確認されたのだ。その中には、強襲揚陸艦**『イワン・グレン』級**の影も複数確認された。艦隊は、単なる示威行動ではなく、明確な上陸作戦を企図していると見られる艦隊編成だ。


「宗谷海峡、対馬海峡を経由せず、太平洋側から直接展開…」玲子はつぶやいた。これは、日本の海上自衛隊の主要な警戒網を回避し、奇襲効果を最大限に高めるための動きだった。


日本の領空・領海への侵犯事例は、夜明け前から異常なほど増加しており、一部では日本の漁船に対する威嚇射撃のような事例も報告され始めていた。海上保安庁からの緊急無線がひっきりなしに入電し、事態の深刻さを物語っていた。


玲子は、顔を上げた。冷徹な分析官としての彼女の直感が、警鐘を鳴らしていた。これは、間違いなく来る。彼女は、モニターの隅に表示された時刻を確認した。午前8時50分。開戦まで、刻一刻と時間が迫っていた。彼女は、すぐに北部方面隊司令部へと直通回線を繋いだ。


司令部の緊迫と緊急指令:雪中の部隊展開

午前9時00分。北海道札幌市。陸上自衛隊北部方面隊司令部。地下深くの作戦会議室は、鉛筆の走る音と、時折聞こえる無線通信のノイズ以外、重い沈黙に支配されていた。中央の大型モニターには、北海道の地形図と、そこに配置された自衛隊の部隊マークが映し出されている。だが、それらの配置は、広大な北海道の防衛にはあまりにも脆弱に見えた。


陸上自衛隊北部方面隊司令部作戦部長、神崎拓也一等陸佐は、会議室の一番奥に座り、各班からの報告に耳を傾けていた。彼の短く刈り込んだ黒髪は、ここ数日の不眠と緊張でわずかに乱れている。日焼けした精悍な顔つきは、冷静さを保っているが、その目の奥には、疲労と、そして抗えない覚悟の光が宿っていた。彼は、左手の腕時計をちらりと見た。午前9時ちょうど。


「情報班からの最終報告です」佐藤玲子2佐が、静かな、しかし張り詰めた声で口火を切った。「現在のロシア軍の動きを総合的に判断すると、このままでは、24時間以内にロシア軍が北海道へ侵攻する可能性が高いと結論づけられます。特に、択捉・国後島からの精密誘導巡航ミサイルによる飽和攻撃、及び函館・苫小牧方面への大規模空挺部隊降下、海軍による沿岸部への両用作戦(上陸作戦)が予測されます。電子戦及びサイバー攻撃により、C4ISRシステムの一部麻痺も考慮されます」


会議室に、凍り付くような沈黙が降りた。24時間。それは、大規模な防衛態勢を構築するには、あまりにも短い時間だった。北海道の広大な土地、冬の厳しい気候、そして散在する自衛隊の部隊。全てが、彼らに不利に働く。特に、冬の北海道における大規模な兵力移動は、積雪と路面凍結により、通常期の数倍の時間を要する。


神崎は、ペンを静かに置いた。彼の部下たち、そして、この北海道に暮らす約500万人の住民たちの顔が脳裏に浮かぶ。彼はこの土地を愛し、守るべき故郷だと思っていた。


「各師団、現在の防衛ラインと、即応態勢の状況を報告せよ」神崎の低い、しかし有無を言わせぬ声が響いた。


各師団の司令官からの報告が続く。防衛ラインは脆弱であり、即応態勢も完璧とは言えない。何よりも、冬の豪雪地帯での大規模な部隊移動は、それ自体が困難を極める。道路状況は悪く、重車両の移動はスリップや立ち往生のリスクを伴う。


「第7師団、機甲部隊を道南に再配置せよ。苫小牧方面を最優先。冬の移動は困難を極めるが、時間がない。各部隊、全速で展開せよ!特に第71戦車連隊は、即座に主力を苫小牧港周辺に展開、上陸阻止態勢を確立せよ」


神崎は、力強い声で指示を出した。**陸自第7師団(機甲師団)**は、自衛隊最強の機甲部隊だ。90式戦車や10式戦車といった最新鋭の戦車に加え、96式装輪装甲車など、高い機動力を持つ車両を多数保有している。彼らを道南に集結させることは、ロシア軍の機甲部隊上陸に備える上で不可欠だった。雪深い道を、重々しい履帯の音を響かせながら、戦車部隊が移動を始めている様子が、無線を通じて報告された。その轟音が、既に遠くで響いているかのように感じられた。


「第2師団(旭川)には、即応態勢を指示、特に日本海沿岸の防衛を強化せよ。宗谷岬方面からの上陸も警戒が必要だ。特に、稚内分屯基地の地対艦ミサイル部隊は、最大限の警戒態勢を維持せよ!」


千歳基地から轟音が響き渡った。航空自衛隊F-15Jが、青白い冬の空へ向かって次々と飛び立っていく。彼らは、既に24時間体制の警戒任務に投入され、エンジンの轟音が司令部まで届いている。彼らは、北海道の空を守る最後の砦だ。道内の全ての自衛隊基地が、今、訓練ではなく、**「戦闘配備」**に移行していた。兵士たちの顔には、緊張と、そして来るべき戦いへの覚悟が刻まれている。それぞれの持ち場へと走る足音が、司令部中に響き渡る。


神崎は、防衛大臣への直通回線をつないだ。彼は、首相官邸との協議を求め、自衛隊の「防衛出動」の事前承認を要請した。防衛大臣は、その重さを理解しつつも、国際社会の反発や国内世論への影響を考慮し、判断を保留する姿勢を見せた。


「大臣、時間がありません。このままでは、開戦後の初動が決定的に遅れ、取り返しのつかない事態になります。国民の命、そして国土を守るため、今すぐの判断が必要です。躊躇している時間はない!」


神崎の声は、普段の冷静さを失い、強い感情がこもっていた。防衛大臣は、一瞬の沈黙の後、重々しく答えた。「……承知いたしました。首相官邸の了解を得たと、各方面に伝えます」


日本の自衛隊が、本格的な戦闘態勢に入るための法的なプロセスが、ついに動き出した瞬間だった。しかし、その決断は、平和な時代が終わりを告げる、痛ましい序章でもあった。


交渉の破綻:最後通牒の重みと外交の終焉

午後2時00分。東京・霞が関。外務省は、緊迫した空気に包まれていた。ロシア政府からの声明が、全世界に衝撃を与えたのだ。それは、国営テレビを通じて世界中に配信され、瞬く間に世界中のメディアのトップニュースを飾った。


「ロシア連邦政府は、本日、日本政府に対し最終通牒を発する。日本政府が米軍基地を即時閉鎖し、我々との安定した外交交渉のテーブルに着かなければ、我々はロシア国民の安全保障を確保するため、適切な措置を取ることを躊躇しない」


その声明は、もはや宣戦布告に等しい、あまりにも傲慢で一方的な ultimatum(最後通牒)だった。内閣総理大臣、高村浩二は、首相官邸の執務室で、その声明文を握りしめていた。彼の顔には、長年の政治生活で刻まれた細かな皺が深く刻まれ、その表情からは、国家の重責が滲み出ている。


「ロシア側は、通告を繰り返すばかりで、対話の余地は一切ありません。駐日ロシア大使は、我々の抗議を嘲笑うかのように、一言も返さず、ただ通告を読み上げるのみでした」


外務大臣が、悔しそうに報告した。即座に駐日ロシア大使を呼び出し、強く抗議したが、ロシア側は一切聞く耳を持たなかった。彼らは、外交チャネルを完全に閉ざし、対話の意思がないことを明確に示していた。すでに、国際社会も混乱に陥り、国連は緊急安全保障理事会(UNSC - United Nations Security Council)の招集を検討し始めていた。


高村首相は、窓の外の東京の街並みを見つめた。市民は、まだこの差し迫った危機を知らない。午後の平和な光景が、信じられないほど遠いものに感じられた。この国の平和は、常に綱渡りの上に成り立っていた。彼は、国際社会からの支持を得るため、アメリカ大統領との緊急首脳会談を試みたが、米国の姿勢は依然として慎重だった。


「日本政府の自主的な判断を尊重する。そして、日米安保条約の義務は履行する」という米国の公式声明は、聞こえは良いが、高村にはそれが「まずは日本が対応しろ。そして、米国は自国の国益を最優先する」という遠回しなメッセージに聞こえた。彼は、外交で時間を稼ぎ、事態を打開しようと試みたが、ロシアの意思は固く、その努力は水泡に帰した。ロシア側は、数年前から情報機関を通じて、日本の主要インフラや政府機関へのサイバー攻撃を繰り返しており、その都度、警告を発してきたが、日本側がそれらを真剣に受け止めなかったという口実を作る準備も万端だった。


彼は、電話を手に、防衛大臣と再び協議した。


「大臣。防衛出動の事前承認。決定してください。これ以上、時間を稼ぐことはできません。国民は、戦場となる可能性のある地域から避難する時間さえ、十分に与えられていません。我々が彼らを守るためには、直ちに自衛隊を動かす必要がある」高村の声は、重く響いた。彼の目は、疲労で充血していた。


防衛大臣は、一瞬の沈黙の後、重々しく答えた。「……承知いたしました。首相官邸の了解を得たと、各方面に伝えます。防衛大臣命令により、自衛隊は即時、防衛出動準備態勢に入ります」


日本の自衛隊が、本格的な戦闘態勢に入るための法的なプロセスが、ついに動き出した瞬間だった。自衛隊法に基づく防衛出動は、事実上の宣戦布告であり、平和な時代が終わりを告げる、痛ましい序章でもあった。この決定は、今後の国際情勢、そして日本の歴史に、深い爪痕を残すことになるだろう。高村の心は、重い鉛のように沈み込んだ

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