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僕と少女と、そしてカラスと

作者: 中川聖茗

 僕はカラスが好きだ。

 あの、どちらかと言うと人に忌み嫌われる、あの、カラスが好きだ。

 道端に舞い降りてきたカラスと、たまに目と目が合うと、僕は、「こんにんちは」と、声をかける。すると、カラスはきょとんとした顔をして、じっと僕を見つめる。ーそんな時、そうだ、そんな時、そうしてじっと見つめられると、僕は無性に悲しくて、泣きたい気持ちに襲われる。

 そして、時に涙を流す。そう、悔恨の情にあふれた涙を、である。


 なぜか?それを説明するのには、時を遡らねばならない。


 そうだ、それは僕が中学生の時だ…。


 どんよりとした、今にも一雨降りそうな天候が、なにかしら良からぬ事の成り行きを予測させた。

 ここは東京都新宿区のY町である。

誠二は中学2年生、帰宅途中であった。m、ーいつもの下校路であった。アパートはもうそこの米穀店の角を曲がったところである。

「急ごう」

 そう思い、足を速めた誠二であったが、米穀店のほんの手前まで来ると、すぐに、いつもと違う異様な雰囲気を感じ、そこで立ち止まった。

 ーなにやら騒々しいのだ。

 米穀店の前まで来ると、そこに広がった目の前の光景に、誠二はようやく何かここで事件が起こったのだということに気づいた。

ーパトカーが止まっているのである。赤色灯が屋根の上で賑やかに回転している。

 誠二のアパートは、米穀店から続く路地の奥にあるのだ。路地は車一台が通れる広さしかない。

 路地の突き当りは向け道がなく、だだっ広い駐車場となっている。誠二のアパートは駐車場と接した二階建ての木造の古いものであった。

 駐車場の入り口を塞ぐような格好で、そこにパトカーが一台停車していた。

 そして、パトカーの手前には十数人もの野次馬たちが腕を組んだり、あるいは隣のものと言葉を交わしたりしながら、体を揺らしているのである。中には背伸びをして、駐車場の方を何とか詳らかに見ようとしているのもあった。


 アパートに接した駐車場で何か事が起こったのは間違いなかった。

「まさか…」

 誠二の心に不安が過った。

「ーーー」

 直感的に、いやほぼ本能的と言ってよかろうか?自分に関連した何かしら良からぬ出来事が起こったのだという、妙な確信が心に持ち上がったのだ。

 何が起こっているのか確かめようと、誠二はそうーーー思って、野次馬を掻き分け前へ進んだ。しかし駐車場に足を踏みいれよとしたところで、若い警察官に、誠二はその行く手を遮られた。

「ここから先は入れません!」

 と、その警察官は誠二を制した。職務に忠実であろうと懸命な姿勢が、その険しい表情と厳し口調ににじみ出ている。

 誠二は一瞬たじろいだが、我が家の目

の前での出来事である。このままそうですかというわけにもいかない。そこで彼に言った。

「僕はここの住人です。家に入れないのですか?」

 パトカーはアパートの入り口近くを塞ぐように止められていたのである。

 警察官は、誠二の「ここの住人です」という言葉を聞くと、厳しい表情から一転、思案顔になり、続いて「ここの人ですか」と、呟くと、彼の手を引いて、野次馬のいないところまで彼を連れていくと、小声で誠二に尋ねだした。

「君は制服を着ているから、中学生だね、ここの何階に住んでるの?」

 こうして1対1で尋問されると、誠二の不安な気持ちはいっそう膨らんだ。しかし、ここはむしろ、この警察官からいったい何が今起こっているのか聞くチャンスであろう、とも彼は考えた。

 そう見定めると、誠二は大きく深呼吸をしてから、続いて冷静に返答を始めた。

「そうです。101、一階の一番手前の端っこの部屋です。そこです」

 彼はそう言うと、アパートを指さした。要するにパトカーから一番近いところの一階、その角部屋の一室である。すぐそこに家の窓が見える。

 ーもっとも、今、家には誰もいない。

 誠二の両親は自営業で、ここから電車で30分ほど離れた、山手線の駅のほんの近くで店を営んでいる。さらに兄は大阪の高校の寄宿舎で生活しており、深夜まで、誠二はこのアパートの一室で、ただ一人の気ままな時間を過ごす毎日だったのである。

 警察官は、誠二が協力的なのを見て、安心したのか、やや安堵の表情を浮かべると、さらに質問を続けた。

「ここの二階の佐藤さんなんですが…」

 そこまで聞くと、誠二は軽いめまいに襲われた。そして続いて、すべて心に抱いていた直感的、本能的不安が的中しつつあるのを知って、愕然とした。

 彼は爆発せんばかりの不安と焦燥感で、それまでの穏やかな口調から一変、強い口調で警察官に問いただした。

「一体何があったんですか!」

 誠二は今や冷静さを失っていた。顔は青ざめ体はがくがくと震えていた。

 警察官がそんな彼を落ち着かせようと、彼の肩に手をかけた。「まあ、まずは落ち着いて」というジェスチャーである。そして続けてこう言った。きわめて厳かな口調で…。

「佐藤さんの娘のしおりちゃんが亡くなられたのです…」

 誠二はこれを聞くと、感情のコントロールを失った。「亡くなった」という言葉は、彼にとって、それだけは是非とも聞きたくない言葉だったのだ。

 彼は荒々しい声で、そして半ば涙声で、警察官に「亡くなったって!なにがあったんですか!教えてください!」と問い詰めた。

「まあまあ、落ち着いて!ともかく落ち着いてください!」

 警察官が、感情の爆発を抑えられない誠二の反応を見て、今度は声で彼を宥めた。努めて淡々と、しかし強い口調で…。

 この警察官の行動も、、誠二のいら立ちを鎮めるには、効果はなかった。

「いいから!とにかく、死んだって、一体何があったんですか!早く教えてください!」

 誠二は追及を続けた。そんな彼の苛立ちを見て、警察官は漸く、ここの駐車場で起こった出来事のあらましについて語りだした。努めて冷静に、誠二を宥めるように優しい口調で…。

「実はね…。彼女はこの駐車場の崖から転落死したようなのです。崖下の道で遺体が発見されました。その道を通行していた近くの住人から通報があったのです…」

 

 聞きながらいつしか激しく涙している誠二がそこにいた。いや涙なしには聞けなかった、が適切なのか?


「…というわけで、我々も何があったのか、そもそも事故なのか自殺なのか、今懸命に調査しているのです」


 警察官の説明をこうして聞き終わると、悲しみは極まり、続いては強い悔恨の情が誠二の心を埋め尽くし、そこで彼はひとしきり声を上げてわんわんと泣くと、その場にへたりこんだ。呆然として、全身の力が抜けていくのを感じた…。


「しおりちゃん…」


 その名前を心の中で、何度も繰り返し、叫び続けるうちに、彼女の笑顔と、一切の、共に過ごした思い出が、一気に脳裏に浮かびあがり、溢れ、続いてぐるぐると頭の中を駆け回りだした。すると次には、彼はひどい頭痛と吐き気を催し、最後には視界が狭まり、目の前が真っ白となり、ついにはその場にへたりこんでしまった。そして、続けさまに仰向けになって後ろに倒れた。


「大丈夫か!君!」


 警察官の叫ぶ声が耳元で聞こえる。しかし、それもどんどんと声は遠のいていく。

 薄れ行く意識の中で、彼の目にはどんよりと曇った空だけが見えていた、ぼんやりと…。しかしその視界も、遠のく意識と共に、まさに失われようとした、その時である。

「カラスだ」

 そうだ、彼の目にはっきりと見えたのである。空高く、一羽のカラスが頭上を羽ばたき横切っていくのを、である。

「幻?」

 と、思いを巡らせるや、目の前が真っ暗になった。「君!しっかりしたまえ」と、巡査が叫ぶ声も、徐々に遠ざかっていくのを感じながら、彼は、しおりがカラスに転生し、天に向かって羽ばたいて行ったのだと確信した。ーそうだ、彼女は自らが鳥となり、崖から飛び立ったのだと…。


 その後のことは記憶がない。気が付いた時は誠二は病院のベッドの上に身を横たえていたのであった。


 さて…。

 話はさらに1年前に遡るとしよう。


 偶然といえば偶然だが、大きい視点から見れば、ひょっとすると必然だったかもしれない。ーそんな出会いから、この物語は始まるのである。


 そう、それは1年前のある一日であった…。


 学校から帰った誠二は、いつものように、まずは普段着に着替えて、次に宿題をやり遂げると、友人を誘って遊びに行こうと、玄関へ向かった。

 と、その時である。

「コンコン」

 とドアを叩く音がする。ー誰かが扉をノックしているのだ。

「誰だろう…」

 不審に思いつつ、玄関の方に赴いた。赴いた、と言うと、どれだけ大きい家だと思われるかもしれない。実際は、部屋全体で、わずか、六畳、三畳の部屋、そして名ばかりの台所の、狭い狭いぼろアパートの一室である。

 それでも我が家であることに間違いはないのだが…。

「こんな時間に…」

 ドアの前に立つと、やはりノックの音が鳴り続けている。

「さてどうしたものか」

 居留守を使う手もあったが、まずは、誰か、尋ねてみようと思った。

「どなたですか?」

 そう問いかけたが、しかし返事がない。

 ドアの横に台所の喚起のためだろう、窓がある。いつもそこを少し開けて、来客と対応するのが誠二の常であった。そして必要と判断すればドアを開けるのである。

  コンコン、とノックの音はなり続けた。

「仕方ないか」


 誠二はそう判断すると、窓を少し開けてみた。するとどうであろう。そこにあったのは少女の姿であった。おそらく小学生であろうか。

 -こんな来客は初めてだ。

 誠二は戸惑った。そして次には戸惑いつつも、咄嗟にこう尋ねた。

「誰ですか?」

 ほかに聞きようがあるはずもない。

 するとどうであろう。窓の下の彼女は、臆することなく、誠二の顔をしっかりと見据えてこう言った。

「おにいちゃん、おにいちゃん、こんにちわ。私、二階に住んでいる、しおりって言うの。おにいちゃん、一緒に遊ぼうよ、ねえ、だめかな?」

 いきなりの直球だった。誠二は戸惑った。瞬間、呆気にとられたが、悪意のある訪問者ではないと知れると、誠二はまずは話を聞いてみようと、玄関ドアを開けた。そして言った。

「とにかく、まずは中に入って…」

 ドアを開けると彼女はうれしそうに中に入ってきた。

「うちと同じ作りだね、思った通りだ」

 そう言うと、続けさまに靴を脱いで、ずかずかと奥の部屋まで入っていった。そしてそこにちょこんと座ってしまった。


 きょろきょろ周りを見回すと彼女は徐にそう呟いた。そして、間髪入れずに誠二を再び見据えるとこう続けた。

「私ね、おにいちゃんと遊びたいの。だってね、うちのおにいちゃん、全く遊んでくれないから、だから、だから、お兄ちゃん、時間があったら、私と遊んでほしいの」

 そこまで言うと、今まではしっかりと顔をあげ、誠二を見据えてまんじりともせずにいたのが、今度は顔をうつ伏せると、下を向いたままもじもじしている。

「恥ずかしんだな… 」

 そう察した誠二ではあったが、彼も実際のところは彼女と同じぐらい、心の内では恥ずかしかったのだ。

 とは言っても、それは男女の仲の話という意味ではない。


「どうしようか…」

 誠二は努めて冷静に考えた。

 拒絶は簡単である。しかし、この少女の一直線の純粋な気持ちを察すると、無下には断れまい。

「迷惑ではあるが…」

 当然であろう。

 中学生には中学生の付き合いがある。そこに小学生が入ってくるって、それそのものが、ちゃんちゃら可笑しいではないか?

「え、お前さ、小学生と何遊んでんの?」

 友達からそう揶揄されるに決まっている。

 無論、分かってる、そんなもの、決して彼女からの愛の告白ではない。ただ「遊びたい」って、無邪気に言ってるだけじゃないかと。


 誠二は少女に視線を向けたまま、さらに思案を続けた。

 断るのは簡単である。

「いやー、そんなことは中学生男子の沽券にかかわるから無理だね」と。

 しかしそれはあまりにも残酷ではないか?

 僕の目の前に座している少女の顔は真剣である。そのことだけは何かしらひしひしと伝わった。ただ遊び心に、誠二の家まで尋ねて、来て、彼にとんでもない要求を無心しているのではないと、少なくともそれは、十分に誠二には感じ取れた。



「この真剣な少女の思いを踏みにじるのどうか」

 僕は暫くの思案の後に、返答した。

「いいよ」と…。

 これを聞くと、彼女は顔を上げるや、誠二に晴れ晴れしい表情を見せた。そして笑顔で言った。

「ありがとうね、おにいちゃん」

 誠二も笑顔で応えた。

 取引成立である。

 -しかし

 誠二の心は複雑だった。ーただ「遊びたい」って…。その対象に選べれた僕は、やはり少女から見れば、ある意味、初恋の男の子に近い存在なのだろうか?ー少なくとも誠二はそんな感傷を心に抱いたのである。

 

こうして、中学2年の誠二と、小学6年のしおりとの奇妙な兄妹関係が始まった。


 そう、しおりは小学校6年だった。同年代の女の子に比べればやや「ませた」というのだろうか、小柄ではあるが、言葉も巧み、知恵もそこそこあり、時には誠二がやり込められるほどの口達者でもあり、誠二も決して付き合っていて退屈するようなことはなかった。いや、むしろ途中からは、遺影に訪ねてくるのを心待ちにしている自分に気が付いて、ハッとすることすらあった。

 いろんなところを二人で冒険した。


 いろんな所…。

 そうだ、この物語の舞台の説明をまずはしておかねばなるまい。

 舞台は東京新宿であることは既に述べた。

 二人のアパートはその新宿区内、Y町にある。

 環境はと言えばーまず南の方角には、近くに有名な出版社もあり、西は閑静な住宅街に接しているという、いわば文教地区的側面もあるが、一方で、北は路地の多い住宅密集地域であり、東に目を転じれば、神楽坂という歓楽街も近接しているという、まことにユニークな町と言えた。いわば、お上品さと、下町さと、さらには若干の猥雑さが入り混じった雰囲気と言えばいいだろうか?

 そんな町に誠二が引っ越してきたのは去年の春だ。大阪の小学校を卒業と同時に両親と3人、この大都会に引っ越してきたのだ。

 大阪では下町の長屋暮らしだったから、この転居による急激な環境の変化は、誠二にはとてもつらいものだった。言葉の壁も大きかった。引っ越した当初、大阪弁は口にするのも恥ずかしい思いに駆られたものだった。丸坊主の頭も恥ずかしかった。

 そんな、ギャップをようやく乗り越えて、中学2年の新学期を迎えた、2年目の春の出来事であったと、ここではそこまでの事柄を追記しておくに留めておこう。


 話を元に戻そう。 


 彼らは、誠二のアパートでトランプをするだとか、適当に室内で時間をつぶすこともあったが、たいていは近くの神社、お寺、公園、などなど、いくつかの遊び場所を転々としながら、夕暮れまで過ごしたりするのであった。

 東は飯田橋、西は早稲田、市ヶ谷あたりまでだろうか、あてもなく、その辺りを散策するだけのこともあった。

 でも、いつも少女はとても満足そうだった。

 無論、毎日ではない。誠二は誠二で、中学校の友人との付き合いがある。だから、その隙間で少女と会うわけで、結局週に1-2回だろうか?でも少女は少女で、その日を楽しみに、いつも満足そうに誠二との時間を過ごしていた。


 そんな奇妙な交友が続く中で、誠二はしおりのことに関して、ざっと以下のあらましのような情報を得た。

 ー彼女は母親と二人暮らしであること。

 ー母親は夕方から仕事に出かけ、帰宅は深夜遅くになること(おそらく夜の仕事についているのだろうと、誠二は中学生なりに想像したが…)

 ー近日中に、母親は再婚するらしい、相手は長距離トラックの運転手をしているらしいこと。

 などである。


「しおりちゃんも大変だね」

 誠二はまだまだ幼い、この小学生の家庭環境に思いをはせて、ひそかに彼女に深い同情の念を寄せたのでもあった。


 さて…。 季節は夏へと移った。

 そしてしおりの母親は先述の運転手の彼と結婚した。ーさらには、しおりから聞いたところでは、新しく父となった彼は、優しい人だし、よく遊んでくれて、安心していると、お母さんも喜んでいるとのことであった。

 そして、安堵の表情を浮かべながら、淡々と近況を報告してくる彼女の思いを、誠二もしっかりと受け止め、彼女に共感の念を、笑顔を通じて送るのであった。


そんなある日…。それは夏休みに入って後、すでにお盆を過ぎたころであったか…。

 

 いつものように、近くの神社の境内で、ベンチに腰かけている二人がいた。

 暑い日だった。

 今年は例年になく暑い日が続き、誠二もややばて気味であった。もちろんしおりも同様である。

 近頃、しおりに以前のような快活さを見ないことにも、そんな暑い日々の影響であろうと、誠二は一人推測し、それ以上気に留めることもなかったのであるが…。

 誠二は当然半袖であった。一方しおりは長袖のシャツを着ている。ーと言っても、これは夏中いつものことだったので、そのことそのものには誠二はそれほど気を留めていなかった。

 夏でも長袖を着る女の子って、それはおよそ、女子、という名前の付く限り、今も昔も、それはそれほど珍しいことでもなかったからである。

 さらには、今と違って、その当時の東京の夏は、木陰に入れば涼しかったし、夜はクーラーが無くても眠れないほどの熱帯夜は滅多になかったからである。

 しかし…。

 その日はかなり暑かった。

「暑いね、おにいちゃん」

 と、言うと、しおりは右手で左腕を覆っているシャツの袖を、まくり上げた。

「?」

 誠二は少女の動作を目でなにげなく追っていたが、露わになった少女の腕を見て、これは何だろうと、疑問に思うと共に、そこに目が釘付けになった。

 あざがあるのだ、二か所、青地んでいる。一か所は手首に、もう一つは手首と肘との真ん中である。

 少女は、暑さのあまり、無意識に袖をまくったのだろう。露わになった自らの腕にあざが残されていることに気が付いていなかったようである。

 はっと気が付くと、誠二が自分の腕をまじまじと見つめている。ーそれに気が付くと、彼女は慌てて袖を下ろしてあざを隠した。

「……」

 しおりは下を向いて黙ったままでいる。

 誠二はどうしたものかと思ったが、見なかったことにしよう、そのまま無視するのも、何だか気まずい感じがしたので、少女にこう声をかけた。

「どうしたの?怪我でも下の?」

 声を掛けられて、しおりはベンチから立ち上がった。そして、誠二の方を向くと、ぎこちない笑顔を見せつつ、こう返答した。

「昨日で、転んで打っちゃったんだ。どうもないから安心して」

 そう言うと、駆け出して神社拝殿の方へと走り去った。

「?」

 誠二はいぶかしく思ったが、それ以上追及するのもどうかと思い、そのまま、しおりが境内のハトを追っかけている姿をそのまま見つめていた。


 しかし…。誠二はその日の夜、寝床にな行ってから考えた。「腕はともかく、手首にあざがあるのはなぜだろう。それもリング状に…。そうすればそんな怪我するのだろうか?」考えても答えが出ない。ーいや今の誠二なら推理が働くであろう、どういうことか。しかしまだ若干14才である。社会の闇を、大人の世界の闇を、知りようはずもない。

 

その後、同じようなことが何度かあったが、その都度、少女は同じ答えをするばかりであった。

 誠二は何か得体の知れない不安を抱きつつも、それ以上追及することもなく、二人の関係はその後も続いた。


 そんな微妙な緊張関係が、二人の間に続いていた、ある日のことであった。

 夕暮れ時…。

 二人は、二人のアパートの駐車場から、北側に広がる東京の下町の街並みを、見つめていた。

 駐車場の北側は、低い崖となっていて、そこには低い土塀が転落防止のためか、設けられていた。二人はそこに手をついて体をもたれさせ、並んで、眼下に広がる街並みを眺めていたのである。

 しおりの、最近の何やら元気のない、態度、仕草、物言いに、得も知れぬ不安を感じていた誠二であったが、遠く、眼下に広がる景色を見やりつつ、明らかに不安な表情を隠せないでいる、このあどけない少女に対して、はたして、どのように声をかければいいのか、実際のところ良く分からなかった。

 そんな誠二の心持を察したのであろうか、この大人びた少女は、誠二に向って言うのでもなく、ぼそっと、こう呟いた。

「私、空を飛べればいいな」

 誠二はそんな少女のため息交じりの囁きに、どう対応していいのか分からず、黙っていた。

 すると、そんな二人の傍らに、正確に言えば、しおりの立っていた左手の土塀に、突如、カラスが舞い降りたのである。

「あっ」

 と、思うや、誠二は体が固まった。誠二の母は大のカラス嫌いであった。

「私はね、カラスが嫌いなんだよ。母の葬式の時にね、カラスの群れが、埋葬に向かう棺にね、飛び掛かってくるのさ、それはそれは恐ろしい光景だった。あの時以来、私はね、カラスが怖くて、怖くて、憎くて憎くてどうしようもないのさ」

 と、母からよくそういう話を聞かされていた誠二であったから、一瞬体が硬直したのは言うまでもなかろう。

 ところがである。

 しおりは、その傍らのカラスをしばらく見つめていたのであるが、突如、カラスに手を差し伸べると、カラスの頭を撫でたのである。

「しおりちゃん!」ーそんな危ないことしちゃ駄目だ!ーと言おうとしたのであるが、ところが、どうであろう。

 カラスは大人しく、しおりのなすがままにされている。

「?」

 誠二はただ、事の成り行きを眺めていた。

 まるで、犬や猫が飼い主に頭をなでられているように、カラスは大人しくしおりのなすがままに頭をなでられているのだ。ーしかもまことに気持ちよさそうに…。

 しおりも心地よさそうであった。すると次には彼女はにこりとカラスに微笑んだかと思うと、カラスは、ばたばた、と音を立てて飛び立った。

 二人はカラスの行方を目で追った。カラスは北の方角に、どこまでもどこまでも飛んで行った。そして、やがて、真っ赤な夕焼けの景色の中に、その姿を消した。

 しばらくそうしてぼんやりと、土塀のところで立ちすくしていた二人であったが、やがて、しおりが徐に口を開いた。

「私、カラス、大好き。今度生まれ変わったらカラスになりたいわ 」

 誠二は驚いた。

「カラスになるって、よりによって、どうして、あんな嫌われ者がいいのさ」

 そう問いかけると、少女はきりっと、顔を誠二に向けるや、それはほぼ大人の口調であったと言えよう、こう言い放った。

「嫌われものだからいいの。でも、どんなに嫌われていても、どんなに一人ぼっちでいても、自由じゃない。自由に空を飛び回れるって、うらやましいじゃない!自分だけの世界を、一人ぼっちでも、嫌われながらでも、自由でいられるって!」

 そう言いながら、彼女は途中で泣き出した。そして、くるっと背を向けると、アパートの2階へと、走り去ってしまった。

 あとに残された誠二は茫然自失の体で、しばらくそこに佇んでいた。

 カラスが、今度は群れになって、彼の頭上を飛び回り始めた。

 その鳴き声を聞きながら、少女の言い残した言葉の真意を、いまだに呑み込めないままに、誠二も1階の自室へと帰って行った

のである。


 さて、秋から冬へと、季節は移ろいでいき、二人がいつも遊ぶ神社の境内にある銀杏の木の見事な黄葉も、その幹の周囲に次々とその鮮やかな黄金色の葉を落としていくのであったが…。


 実はすでに10日以上になるだろうか。少女が誠二の部屋を訪ねてこなくなったのである。

「どうしたのかな」

 誠二は不安に思ったが、こちらから少女の家を訪ねるのも何だか気が引けて、ただ、様子を見守っていた。

 そうこうしているうちに、期末試験が近づいてきた。

 誠二は試験準備に追われて、少女のことを心配しつつも、彼女のことは後回しにして、毎日を試験対策に没頭していたのである。


 そして、事件は起こったのであった…。


ここにS新聞の記事がある。1971年12月10日と日付にある。引用しよう。


「昨日、新宿区Y町にある、アパート〇△▢に隣接した駐車場の崖下で、そのアパートに住む、〇△しおりさん、11才の死体が発見されました。通行中の近隣住人が発見され、警察に通報があったとのことです。飛び降り自殺なのか、それとも事故による転落死なのか、警察はさらに殺人も視野に入れ調査中です…」


 さて誠二は、冒頭に述べたように救急車で病院に運ばれたが、すぐに意識を回復し両親に迎えられて自宅へ戻ったのはその日の夜遅くであった。

 母は仕事を休んで、彼に付き添っていた。帰宅後も念のため、翌日まで安静を命じられていたのである。

「それにしても可哀そうだね、何があったんだろうね」

 そう、彼に問いかけると言うのでもなく、呟いている母の独り言を聞きながら、彼は、しおりの手首にあったあざを、幾度となく脳裏に思い出し、描いては、悶々としていた。

「このことを誰かに伝えるべきであろうか」

 母に伝えるべきか?ーしかし彼はよくよく考えて、このことは胸にしまっておこうと結論付けた。

 告白することが大変恐ろしいことのように思われたからである。

 読者諸君、彼を責めてはならない。

 いかんせん、まだ、未成年の14才の中学生なのである。

 しかし…。

 事件ののち、数日が経過した…。

 誰にも言うまいと心に決めて、日々を過ごしていた誠二であったが、一向に彼の心は晴れなかった。いや、むしろ、どんどん心の闇は増していくばかりであった。

 そして1週間後、彼はニュースで、この事件に関連して、しおりの義理の父が、任意で警察に聴取を受けているということを知った。普段から虐待があったとの疑惑があり、そのことが事実かどうか、また、事実ならそのことと、今回の転落死について、義父が関与していたかどうかについて、取り調べをしているのであるらしい。

「やはり、あのあざは…」

 誠二の心に大いなる疑念が湧き出した。堰を切ったようにそれは溢れ、かれはいてもたってもいられなくなった。

 しかし、彼は躊躇した。

「あざのことを、たとえ今、警察に言ったところで…」

 何になろうーそう考えたのでもある。

 心は、しかし揺れた。

「知っていることはやはり全部話しておこうか」

 そんなことも反面、思ってみたり、彼は数日悶々した日を送った。

 そんなある日…。

 学校が終わって、アパートの近くまでたどりついた彼の頭上を、突如、カラスの大群が飛び回った。ーすさまじい鳴き声と共にである。

「!」

 誠二は言いようのない恐れを抱いて、慌てて自室へと飛び込んだ。しかし、その後もカラスは泣き止む気配がなかった。

「許して!許して!」

 彼は心で叫び続けた。カラスがともかくも自分を罰しにやってきたと、そう思ったからである。

 数分?

 カラスの鳴き声はいつしか遠ざかって行った。しかし誠二はいつまでも、耳をふさいで、うつ向いたまま、心で「許して」といつまでも叫び続けていた。

 翌日…。

 U警察署の門をくぐる誠二の姿があった。

「あの、〇△しおりさんの件で、お話ししたいことがありまして…」

 誠二は堂々と受付の警察官に伝えた。


 その後、しおりの義父は逮捕された。約1か月後である。容疑は、義娘への身体的虐待である。誠二を含め、複数人からの証言によってであった。さらに、後日、鉛筆書きで残された、しおりのメモが見つかり、それには、これ以上義父の暴力に耐えられない旨の走り書きがあり、転落は、義父からの暴力的虐待から逃れるために、自ら命を絶ったものとも、警察は結論付けたのであった。


 そう、もうあれから幾年たったであろうか?

 誠二はしばらくぶりに、かっての我が家のアパートを訪れた。

 駐車場もそのままであった。土塀もである。

 季節は夏であった。今年は猛暑である。

 駐車場では子供たちが鬼ごっこをして遊んでいる。半袖半ズボンだ。

 ふと彼は長袖姿のしおりを思い出した。さらに、あの時のあのあざを…。

 言いもしれぬ感傷に心を痛めながら、彼は土塀に近づいた。そして、塀に手をつくと身をかがめ、眼下を見やった。続いて遠方を。

 すると…。

 どうだろう!一羽のカラスが彼の傍らの土塀に舞い降りたのである。そして、続けさまに彼を見上げるや、かー、と鳴いたのだ。

「やあ、カラスくん」

 表現にしがたい親近さをなぜだか覚えると、彼はカラスの頭をそっとなでた。すると、カラスはなんだかうれしそうに、再び、かー、と声を上げると、元気よく虚空へと羽ばたいた。そして、彼方へと飛び去りやがて姿を消した。

「しおりちゃんだね…」

 妙な確信を抱きつつ、彼ははるか地平線を眺めやった。

 そして思った。

 僕もカラスになりたいと。

 そして、しおりちゃんと二人、いや二羽か?空を自由に飛びまわってみたいと。

 人から嫌われるカラスだろうがなんだろうが…。

 はるか大空から見れば…。

 きっと、人間の地上世界はとってもちっぽけなものに見えるだろう。

 そして二人は、いや二羽は、爽やかな上昇気流に身を任せつつ、目と目を合わせてこう思うだろう、微笑みを交わしながら…。

 きっと、人間の世界は…。

 そうだ、所詮は人間世界なんて…。

 とっても、とっても、よごれた忌み嫌うべきものに違いないんだって…。

 


 

 


 


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