最終章:最後のコンパイル
朝日が昇る前、斗郎は静まり返ったオフィスの机に向かっていた。定年まであと3ヶ月。暗い画面に映る自分の姿が、どこか懐かしく感じられた。
「おはようございます、コボルさん」
振り返ると、瀬川が立っていた。かつての敵対心は消え、深い敬意を込めた響きがその声にはあった。
「ああ、おはよう。今日はいよいよ最後の移行リハーサルだな」
キーボードに手を置くと、わずかに震える指が目に入る。しかし、その震えは今では恥ずかしいものではなくなっていた。40年の経験が宿った手の証なのだから。
「斗郎さんの移行計画は完璧です。新旧のシステムを理解している人は、もう誰もいない。でも、あなたが作ってくれたドキュメントのおかげで、私たちは安心して前に進めます」
瀬川の言葉に、斗郎は静かに頷いた。この3ヶ月、彼は自分の人生をかけた仕事のすべてをデジタル化していた。手帳に残された無数の障害対応記録、真夜中の緊急出勤、システムの不具合と向き合った長い歴史。それらは今、新しい形で生まれ変わろうとしていた。
「私たちの新しいクラウドシステムに、『KOBOLU』というコードネームを付けることにしました」
瀬川の言葉に、斗郎は思わず目を見開いた。
「あなたの残してくれた知恵を、これからも大切にしていきたいんです」
斗郎は古いメインフレームの前に立った。かつて「レガシー」と蔑まれた彼の親友は、今では「歴史」として認められていた。その証拠に、1階のロビーに「金融システムの進化の象徴」として展示されることが決まっていた。
「最後のコンパイル、始めましょうか」
キーボードに手を伸ばすと、懐かしい打鍵音が部屋に響いた。画面には40年前と変わらないCOBOLのソースコードが流れる。しかし今、それは新しいシステムへと橋を架ける存在となっていた。
定年前日、斗郎は最後の仕事として、自分の全記録が収められたデジタルアーカイブの登録を完了させた。若いエンジニアたちが集まってきて、「最後の守護神」と呼んでくれる。その言葉に込められた感謝の気持ちが、胸に染みた。
「これからは、君たちの番だ」
斗郎は立ち上がり、デスクの引き出しから一冊の手帳を取り出した。それは40年前、新入社員だった彼が最初に書いた業務日誌だった。表紙には、若かりし日の彼が書いた言葉が残っている。
『システムに魂を込めて』
斗郎はその手帳を瀬川に手渡した。
「これが最後の遺産だ。君なら、きっと理解してくれる」
瀬川は黙って頷いた。その瞬間、オフィスに朝日が差し込んできた。古いキーボードの打鍵音が、新しい時代への序曲のように響き渡る。
斗郎は最後にもう一度、画面に向かって指を動かした。
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IDENTIFICATION DIVISION.
PROGRAM-ID. LAST-COMPILE.
ENVIRONMENT DIVISION.
DATA DIVISION.
PROCEDURE DIVISION.
DISPLAY "Thank you for 40 years."
STOP RUN.
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画面に最後のメッセージが表示される。斗郎の目に、わずかな涙が光った。それは別れの涙であると同時に、新しい始まりを祝福する涙でもあった。
「さようなら」と斗郎は呟いた。「そして、ありがとう」
その言葉は、古いメインフレームに向けられたものなのか、これまでの人生に向けられたものなのか、誰にもわからない。ただ、その瞬間、部屋の空気が確かに震えた。それは、40年の時を経て、ついに完結した物語の終わりを告げる鐘の音のように響いていた。
老人プログラマーの悲劇
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