第6章:技術の継承
システム復旧から一週間が経過した金曜日の朝、古保留斗郎は普段より早めに出社していた。この一週間、彼の机の周りには若手エンジニアたちが絶え間なく集まり、質問の嵐が続いていたからだ。少しでも静かな時間を確保しようと思ったのだが、すでに数人のエンジニアが待ち構えていた。
「おはようございます、コボルさん!」
かつて揶揄の意味を含んでいたその呼び名が、今では尊敬の念を込めて呼ばれるようになっていた。斗郎は苦笑しながら、早朝から待っている若手たちに会釈を返した。
「君たち、随分と早いじゃないか」
「はい!昨日の続きで、バッチ処理の待ち合わせロジックについてもう少し詳しく教えていただきたくて...」
斗郎は静かに頷きながら、自分の席に着いた。デスクの上には40年分の手帳が積み重ねられ、付箋が無数に貼られていた。この一週間、彼はこれらの記録を基に、若手たちに過去の障害対応の経験を説明し続けていた。
午前のミーティングで、瀬川千尋が立ち上がった。
「先週の決済システム障害の総括を行います」
会議室のスクリーンには詳細な分析結果が映し出される。若手たちが必死で原因を探る中、結局のところ、古いシステムに組み込まれていた堅牢なエラー処理の仕組みが、新システムでは適切に実装されていなかったことが原因だった。
「これについては...」瀬川は一瞬言葉を躊躇った後、続けた。「古保留さんの40年に渡る経験と知見なしには、解決できなかったと認めざるを得ません」
会議室は静まり返った。瀬川は深く息を吸い、斗郎の方を向いた。
「そこで提案があります。古保留さんの持つ知見、特にシステムの歴史と、その中に込められた様々な哲学を、きちんとした形で記録として残したいと思います」
斗郎は思わず眉を上げた。瀬川は続ける。
「新旧システムの架け橋となるプロジェクトチームを発足させたいと思います。リーダーは私が務めますが、古保留さんには特別顧問として参加していただきたい」
会議室からどよめきが起こった。つい先日まで「老害」と呼ばれていた斗郎が、今や新プロジェクトの重要な位置を占めることになるとは。
斗郎はゆっくりと立ち上がった。手帳を開き、その日付を確認する。2024年の春、彼の定年まであと9ヶ月。
「面白い提案だね」斗郎は穏やかな口調で答えた。「老害と呼ばれた身には過分な話かもしれないが」
会議室で笑いが起こる。かつては痛みを伴った言葉が、今では自虐的なユーモアに変わっていた。
「ただし」斗郎は真剣な表情に戻った。「私の経験を伝えるのは構わない。でも、それを単なる歴史の記録にしてはいけない」
彼は会議室を見回した。
「技術は進化する。それは素晴らしいことだ。でも、その根底にある考え方、システムを守るという思想は、言語や環境が変わっても変わらない。私が伝えたいのは、そういった普遍的な価値観なんだ」
瀬川は深く頷いた。「まさに私たちが学びたかったことです」
その日の午後、斗郎の机の周りには、またしても若手エンジニアたちが集まっていた。しかし今回は、単なる技術的な質問だけでなく、システム開発に対する考え方や、技術者としての心構えについても、熱心に耳を傾けていた。
「なぜこのような形でエラー処理を実装したのか」
「なぜこのような運用フローを採用したのか」
「どうやってシステムの信頼性を維持してきたのか」
質問は技術的な詳細から、次第により本質的な内容へと変化していった。
斗郎は自分の古い手帳を開きながら、静かに語り始めた。
「このシステムはね、単なるプログラムの集まりじゃないんだ。これは、何十年もの間、多くの人々の信頼を守り続けてきた、私たちの誇りなんだよ」
若手たちは真剣な眼差しで頷く。その表情に、斗郎は確かな希望を見た。
夕暮れ時、斗郎は瀬川と二人で、窓際に立っていた。
「本当に申し訳ありませんでした」瀬川が突然、深々と頭を下げた。「『老害』なんて...私の偏見でした」
斗郎は穏やかな笑みを浮かべた。
「気にするな。あの言葉のおかげで、私も随分と考えさせられたよ。技術は確かに進化する。でも、その本質を理解し、継承していくことは、どの時代でも変わらない。そのことに、私自身も気づかされたんだ」
外では、夕日が企業群のビル群を赤く染めていた。その光の中で、新旧のエンジニアが肩を並べて立つ姿が、一つの象徴的な光景として映っていた。
老人プログラマーの悲劇
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