第5章:受け継がれる思い
障害発生から3時間が経過していた。
「開発環境の構築に時間がかかりすぎます!」
若手エンジニアの叫び声が響く中、斗郎は目の前の端末に集中していた。現在稼働中のシステムに直接アクセスできる端末は、もはやこの一台だけ。
「取引先からの苦情が殺到しています!」
システム運用室に駆け込んできた若手社員の声が、緊張感の漂う空気をさらに重くした。古保留斗郎は、老眼鏡の奥から青ざめた表情で画面を見つめ続けていた。新システムへの移行作業中に発生した大規模な決済エラーは、すでに収束の目処が立たない状況に陥っていた。
「え、えっと…再起動を…」
「それはもう試しました!」
「じゃあ、バッファのクリア…」
「それも!何度も!」
若手エンジニアたちの焦りの声が飛び交う。斗郎は黙って耳を傾けながら、40年の経験から似たような状況を思い出そうとしていた。
瀬川千尋がヘッドセットを外し、苛立たしげに立ち上がった。「このままじゃ、市場に深刻な影響が…」
その時、斗郎は静かに口を開いた。「瀬川さん、データの整合性チェックの仕組みを一時的に元のシステムに戻してみませんか」
「は?今さら古いシステムなんて…」瀬川の声には明らかな軽蔑が含まれていた。しかし、斗郎は淡々と続けた。
「新システムは効率を重視しすぎています。私たちが築いてきた安全機構を軽視して…」
「コボルさん」瀬川が言葉を遮った。「そんな古い考えを持ち込むから、こんな事態に…」
「環境構築なんて、そんな時間はありません」
斗郎は断固とした口調で告げた。若手エンジニアたちが困惑した表情を浮かべる。
「でも、本番環境にはアクセスできないし、テスト環境もないし…」
「直接、本番のバイナリを修正します」
瀬川が目を見開いた。「そんな…危険すぎます!」
「私なら、できます」
斗郎は深いため息をつき、古びた手帳を取り出した。表紙には「システム障害記録 1984-」と手書きで書かれている。「1992年にも似たような事態がありました」
周囲からは懐疑的な視線が注がれる中、斗郎はページをめくり続けた。「当時は為替相場の急激な変動で、デッドロックが発生。でも、私たちは二重チェックの仕組みを…」
「今はそんな悠長なことを言っている場合じゃない!」瀬川が声を荒げた。しかし、斗郎の落ち着いた態度は変わらなかった。
「瀬川さん、新しいものが必ずしもベストとは限りません。私たちが築いてきたシステムには、40年分の教訓が詰まっているんです」
斗郎は画面に向かい、バイナリエディタを起動した。指先が躊躇なくキーボードを叩く。
「ちょ、ちょっと待ってください!」瀬川が慌てて制止しようとする。「それは本番システムのコアモジュールです!間違えたら取り返しが…」
「1バイトも間違えません」
斗郎の声には絶対的な自信があった。老眼鏡の奥の目は、無数の16進数の羅列を見つめている。
「まるで…まるでマトリックスの世界を見ているようです」若手エンジニアの一人がつぶやいた。
「これは職人技ですよ」別のエンジニアが感嘆の声を上げる。「僕たちなら、開発環境とデバッガがないと何もできない」キーボードを打つ手が少し震えている。若いエンジニアたちは、その姿を黙って見つめていた。
「ここに、私たちが作った非常時のバックアップルーチンがあります。これを新システムのAPIと組み合わせれば…」
瀬川は腕を組んだまま、斗郎の説明に耳を傾け始めた。画面には古いCOBOLのコードと新しいクラウドシステムのインターフェースが並んで表示されている。
「このエラーハンドリングの仕組みは…」瀬川の目が少しずつ見開かれていく。「こんな緻密な…」
斗郎は黙々とキーボードを叩き続けた。老眼鏡の奥の目は、若かりし日の輝きを取り戻していた。
「待ってください」突然、瀬川が身を乗り出した。「その非常時ルーチン、新システムのAPIと連携させれば…」
斗郎はかすかに微笑んだ。「そうです。新旧の良いところを組み合わせれば…」
瀬川は急いで自分のキーボードに向かい、コードを入力し始めた。周囲の若手エンジニアたちも、次々とPCに向かう。部屋の空気が、確実に変わり始めていた。
「コボルさん、このバッファの処理はどうすれば…」
「あ、それなら89年の時にね…」
かつては老害扱いされた「コボルさん」という呼び名が、今や尊敬の念を込めて発せられている。斗郎の手帳に記された過去の教訓と、若いエンジニアたちの新しい技術が、少しずつ融合し始めていった。
斗郎の指が最後のキーを押した瞬間、画面上の数値が一斉に変化し始めた。
「信じられない…エラー率が下がってきました!」
「取引の滞留も解消されつつあります!」
歓声が上がる中、瀬川は斗郎の横に立っていた。「申し訳ありませんでした。私たち、あまりにも傲慢でした」
「本番環境のバイナリを直接…しかも1分以内に…」瀬川の声が震えていた。「これは、まさに伝説的な…」
斗郎は首を横に振った。「いいえ、私たちも変化を恐れすぎていました。大切なのは、両方の良さを活かすこと。それがエンジニアの知恵というものでしょう」
システムの復旧作業は、まだ完全には終わっていない。しかし、部屋の空気は確実に変わっていた。若手エンジニアたちは、斗郎の周りに集まり、古い手帳に記された知恵に耳を傾けている。瀬川も、真剣な表情でメモを取っていた。
「コボルさん、この時のバッチ処理の方法について、もう少し詳しく…」
「ああ、これはね…」
斗郎は嬉しそうに説明を始めた。手の震えも、老眼の不自由さも、今は気にならない。技術者としての誇りが、彼の背筋を伸ばしていた。
窓の外では夜が明けようとしていた。新しい一日の始まりと共に、世代を超えた技術の継承が、静かに、しかし確実に進んでいた。斗郎は、自分の手帳に新しいページを開いた。
そこには、こう記されている。
「2025年1月31日 - 新旧システムの統合に成功。若いエンジニアたちと共に道を切り開く」
かつて「老害」と呼ばれた男が、今や「最後の守護神」として、新しい時代への橋を架け始めていた。
老人プログラマーの悲劇
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