第3章:守り続けた誇り
夜が更けていく。
古保留斗郎の目の前で、メインフレームの緑色の画面が淡く明滅していた。かすかに聞こえる冷却ファンの音が、深夜のシステム室に響いている。時計は午前2時を指していた。
「やっぱりこれじゃダメだ」
斗郎は画面に映し出されたテスト結果のログを凝視しながら、眉間にしわを寄せた。新システムへの移行テストで、データの整合性に問題が発生している。彼が何度警告しても、プロジェクトチームは「レガシーシステムの過剰な制約にとらわれすぎている」と一蹴してきた。
老眼鏡の奥で、疲れた目が僅かに痛んだ。斗郎は静かにため息をつき、メガネを外して目をこすった。かつては徹夜作業など何でもなかったのに、最近は夜更かしが本当にこたえる。
「ごめんな、また夜遅くなっちゃって」
ポケットから取り出した携帯電話には、妻からのメッセージが届いていた。『お弁当、冷蔵庫に入れておきました。無理しないでね』。優しい言葉に胸が温かくなる。
斗郎は再び画面に向かい、キーボードに手を伸ばした。わずかに震える指先。この頃、特に緊張すると手の震えが目立つようになってきた。若い頃のような正確なタイピングはできない。でも、この古いキーボードの感触は、40年の付き合いだ。目を閉じていても、指が自然と正しいキーを見つける。
「君とは長い付き合いだったな」
斗郎は、撤去が決まったメインフレームに向かって独り言を漏らした。この大きな箱型のコンピュータは、彼のキャリアの大半を共にしてきた相棒だった。来月には、新しいクラウドサーバーに置き換えられる運命だ。
「どれだけの危機を、一緒に乗り越えてきただろうな」
斗郎は懐かしい記憶に浸った。1999年末の2000年問題対策。2011年の東日本大震災での決済システム維持。数えきれない障害対応の夜。すべての危機で、このメインフレームは決して彼を裏切らなかった。
画面には、今も整然と並ぶCOBOLのソースコード。若い技術者たちからは「化石のような言語」と揶揄されるが、この言語で書かれたプログラムは、30年以上にわたって金融システムの心臓部として完璧に機能してきた。一行一行に、その時々の技術者たちの思いが込められている。
「先輩、また夜更かしですか?」
突然声をかけられ、斗郎は振り向いた。システム運用部の若手社員、中村だった。
「ああ、中村君か。君も遅いね」
「はい、新システムの環境構築でちょっとトラブってて…」
中村の表情には、疲れと焦りが混ざっていた。クラウド移行プロジェクトの若手メンバーの一人だ。
「何か困ってることでも?」
「いえ、大丈夫です。私たちの新しい技術で解決しますから」
その言葉に、少し突き放すような響きを感じた。斗郎は静かに頷いただけだった。
中村が立ち去った後、斗郎は古い手帳を開いた。そこには、数十年分の障害対応記録が、所狭しと書き込まれている。時間と日付、現象、原因、解決策…。技術は進化しても、システムの本質的な問題は、意外なほど普遍的なものだった。
「山本さん、木村さん、田中さん…」
手帳に記された同僚たちの名前を、一つ一つ指でなぞる。彼らは既に定年退職し、会社を去っていった。かつては賑やかだったシステム室で、COBOLを知る技術者は、今や斗郎だけになっていた。
「コボルさん、まだいたんですか」
今度は瀬川千尋が声をかけてきた。プロジェクトリーダーの彼女は、斗郎の存在を煙たがっている一人だ。
「ああ、ちょっとね。データ移行テストの結果を確認してたんだ」
「あら、私たちに任せておけないとでも?」
皮肉な口調に、斗郎は穏やかに返した。
「いや、君たちを信頼してないわけじゃない。ただ、これまでの経験から、確認しておいた方がいいと思ってね」
「経験、ですか…」瀬川は小さく舌打ちした。「コボルさん、時代は変わってるんですよ。いつまでも古い経験に固執してても…」
言葉の続きは飲み込まれた。しかし、その意図は十分に伝わってきた。
斗郎は黙って画面に向き直った。老眼鏡の奥で、文字がわずかにぼやける。キーボードに置いた指が、かすかに震えている。それでも、彼は打ち込みを続けた。
長年の経験が警告を発していた。データの整合性チェックが甘い。エラー処理の考慮が不十分だ。非常時の切り戻し手順が明確でない。しかし、彼の指摘は「過度に慎重すぎる」と一蹴されてきた。
「私の役目も、もう終わりなのかな」
独り言は、誰にも聞かれることはなかった。
深夜のオフィスで、メインフレームの冷却ファンの音だけが静かに響いていた。斗郎はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。都会の夜景が、星のように煌めいている。
その光の一つ一つが、どこかの会社のシステムを表しているのかもしれない。様々なシステムが複雑に絡み合い、この国の経済を支えている。その中心で、彼の会社のメインフレームも、黙々と計算を続けていた。
斗郎は再び席に戻り、キーボードに向かった。画面に映る自分の姿が、かすかに映り込んでいる。白髪交じりの髪、深いしわ、老眼鏡…。若かった頃の面影はもうない。
しかし、キーボードを打つ指の動きは、まだ確かだった。たとえ震えていても、40年の経験は簡単には色褪せない。
「これが最後の仕事かもしれない。だからこそ、きちんとやり遂げないとな」
斗郎は静かに呟いた。夜が明けるまで、まだ時間はある。彼は再び、テスト結果の確認に没頭していった。
メインフレームの緑色の画面が、変わらぬ光を放っている。それは、まるで斗郎の決意を見守るかのようだった。
キーボードを打つ音が、静かな夜のシステム室に響いていく。その音は、いつの日か消えゆく運命にあるかもしれない。しかし今は、確かな存在感を持って鳴り続けていた。
老人プログラマーの悲劇
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