痛みが恋に変わるまで
目の前には、白い液体の注がれたグラス。乳性炭酸飲料。いくつか氷が沈んでて、透明の小さな粒がグラスの中を舞っている。
ウーロン茶に飽きた私は、ぐーっと三分の一ほど飲んで、はあ、とひとつ息をつく。
二時間飲み放題の会社の飲み会も、宴もタケナワ。もうそろそろお開きの時間。
これを飲み切るころには、帰れるなあ。
「あれ、望野さん。それ、たぶん俺の」
「え?」
隣から声をかけられて、私は何のことだと顔を向ける。包原さんが、ちょっと困ったような顔で、手にしたグラスを私のほうに寄せてきた。そのグラスにもなみなみと、白い液体。
課が違うけど年が近い包原さん。ときどき話すことがあるだけの包原さん。特別仲良くないけど今日は偶然、隣の席になった包原さん。
そんな包原さんの背後で、店員さんがトレーから次々とグラスを皆に渡してるのが見えた。注文していたドリンクが、一気に届いたらしい。
「望野さん、ソフトドリンクのほうだよね。こっちがジュース。望野さんが飲んだの、サワーじゃなかった?」
「え!」
私は自分の飲んだグラスを見る。が、見たところで、わからない。
「ちょっと貸して」
包原さんは私の飲みかけのグラスに顔を寄せ、小さくうなずく。
「あ、やっぱこっち、サワーだ。お酒のにおいする」
距離が近くなった彼の言葉に、私は驚く。
飲んだけど、わからなかったな。アルコール、入ってた?
「え、どうしよ、私、包原さんの飲んじゃった。すみません……、新しいの、頼もうか?」
「いいよ俺それ飲むから」
ひょい、と。いとも簡単に包原さんは私の前のグラスをさらってしまう。
「お店の人、ジュースです、って、新しい方くれたし。はい、望野さんはこっち飲んで」
そして代わりに正しいジュースのグラスが私の前に。
え、私の飲みかけで、いいの?
間接キスとかそういうの気にしないの?
たくさん聞きたいことはあるけど、包原さんは何も気にしてない様子で、私の飲みかけていたグラスに口をつける。
「あー、これ、うっす」
彼は私にこっそりと囁く。サワーが薄い、のは、お店の人に聞かれたら、悪口になっちゃうかな。
いたずらじみた表情に、つられて私も笑ってしまった。
「望野さん、今日お酒、飲んでないんだ?」
改めて尋ねられて、私がうなずくその前に、彼は思い出したように、言葉を足した。
「あ、いつもウーロン茶か、そういえば」
「うん」
そうなのである。今日だけでなく、私はいつも、お酒を飲まない。
「え、車運転して帰るとか?」
包原さんは、心配そうに、ちらりと自分のグラスを見た。うっすいサワーだとしても、ほんのちょっとの量でも。お酒を飲んだら運転はしちゃだめ、絶対。まあ、その心配はないんだけどね。
「んーん、電車だから大丈夫、なんだけど」
何て説明しようかな、と考えていたら、彼に顔をのぞき込まれる。
「あ、体質? 飲めない?」
「ま、そんなとこ。あ、でも、飲めないわけじゃないし、飲んじゃいけないわけじゃないし……」
ごにょごにょ呟いてごまかしてたら、包原さんも大丈夫だと判断してくれたようで。それ以上のことは聞かれなかった。ありがたい。
なんとなく、説明しづらいんだよね。私がお酒を飲めない理由。悪いことじゃないから、はっきり言えばいいんだろうけど。なんとなく。
まあでもたぶん、さっきぐらいの量なら、何もないと思うんだけど。
うん、包原さんも、薄い、って言ってたし。大丈夫なはず。
私は気を取り直し、とりあえず。今度こそ正しいアルコールのない、乳性炭酸飲料のグラスを傾ける。甘酸っぱくて、しゅわしゅわしてる。飲み比べても、よくわかんないな。これはほんとに、ジュースなんだろうけど。
それから、飲み会がお開きの時間になるまで。私は包原さんとあれこれお喋りをした。仕事のこととか、料理のこととか。飲んでる乳性炭酸飲料の思い出話とか。
これまで、あんまり会社で接点がなかったから、挨拶程度しかしたことなかったけど。なんだかとても、話しやすい人だなあ。
◇
飲み会は終了しました。無事に。
だけど、解散になって、店を出て。私はひどく後悔。
んん、私は無事じゃないな、これ。
こんなことなら、さっきのお店にもうちょっといたらよかった。さり気なく振り返って確認した、お店の看板はすでに小さい。けっこう歩いちゃってるなあ。
これだと、戻るより、素直に駅に向かった方が近いかな。
このあたり、コンビニが意外とないんだよね。私は頭の中の地図を探索。そしてふと、思い出す。
駅の方向とは少し道がそれるけど。そこの道曲がってすぐのところに、公園があったはず。
そしてその公園には、あるはずだ。夜の公園……は、できれば避けたいけど。それ以上に避けたいことが今の私には迫っている。
あとから思えば、それが最善策だったかどうかは疑問なんだけど。とにかくこのときの私には、それが一番だと思えたのだ。
腹痛は、冷静さを人間から奪う。
私は少し小走りに、公園を目指すことにした。
おなかが痛い。トイレに行きたい。
私、アルコールを摂取すると、おなかが痛くなるのです。
これも立派、……立派? な、アルコールによる健康障害なんだけど、大っぴらには言いにくくて。食事してる場所で排泄の話は避けたほうがいいよねえ。
あのサワーぐらいだったら大丈夫、と、思ってたけどダメだった。
薄くてもちゃんとアルコールだったんだね、いた、いたい、いたたたた。
とにかくトイレ。
そう、思って、よたよたと公園に向かっていたところで。
後ろから、声をかけられた。
「あれ、望野さん。駅行くんじゃないの?」
内心、ぎゃ、と叫んで逃げたかったよね。
私はそれでもなんとか、まだなんとかギリギリ、平気なふりをして表情を整える。
振り返ったら、包原さんが駆け寄って来た。
なんでここに彼がいるの。
「ん、ちょっと、あの……」
もごもごと、心持ち体を「フ」の形に折りながら答えたら、包原さんの眉間にしわ。
「大丈夫? って、聞かなくても大丈夫じゃない顔してる、大丈夫?」
「大丈夫じゃなくて」
会話をしつつも、私は目的地へと足を進める。ああ公園、ああ、トイレ、見えてきた。もう少し。
「え、さっきのサワー、やっぱよくなかったんじゃ?」
包原さんは本気で心配してくれている。ありがとう、やさしい心遣い。だけどできることならば、気づかず通り過ぎて欲しかった。
「ちがうちがうけど、ちがうけどそう。おなかいたい。トイレ行きたい」
私は半ば涙ぐみ、口早に伝える。
聞き取りにくかったと思うのに。包原さんはしっかり、聞いてくれていた。
「トイレって、公園の?」
「そう」
暗くて怖いかもだけど、清潔さもよくわからないけど、でも、切羽詰まっているのです。
「待って。望野さん、待って、ってば」
急いでるのに、包原さんに片手をぐっと引っ張られた。私は驚いて足を止める。
「えっ、待てない!」
包原さんに引き止められて、私は上ずった声で小さく叫ぶ。
「トイレ。そっちより、こっちがマシ、こっち」
彼は涙目の私に、そんなことを言う。そして、ぐい、と、さらに手が引かれた。私はもう逆らう力もなくて、彼に従いついていく。
もしかしたら、何かご存知のトイレがあるのだろうか。近くに、包原さん行きつけのトイレがあったりするんだろうか。だったら助かる。それならば一刻も早くよろしくお願いしたい。公園のトイレよりもいいところ。どこ。そこはどこ。
「ここ、俺んち。この上。行こ」
包原さんはそう言って、すぐそばの建物に私を連れ込んだ。ちょうど一階にいるエレベーターに乗って。いくつか数字が上がって。扉が開いて、通路に出て。
数歩先の部屋。彼は鍵を開けドアを開くと、どうぞ、と私に手で示す。
「上がって。トイレすぐ右」
もう、ここまで連れてこられてこの状況で。
ええ、包原さんの部屋にぃ、上がっていいんですかあ、とか。ためらうこともできぬまま。
私は彼の言葉に甘えて、そのまま部屋に上がらせてもらう。そして、そのまま。トイレを借りることになった。
それはもう、公園のトイレより抜群に安心して座れること請け合いの場所で……。
◇
私はピンチを乗り切ることができたけれど。
すべてのことを終えたあとも、すぐには、個室を出ることができずにいた。
まあ、トイレね。
入って、間に合って、天国だ助かった神さまありがとう、むしろ包原さんありがとうって思ったあと。
おなか痛いのが、すっかり治まったら。
これからどうすればいいんだろうって、困惑である。
包原さんのおかげで、安全に用は足せたんだけど、そうだよ、ここ彼の家だよ包原さんの家だよ。
トイレを借りてしまったよ。
どうする、これから。
変な音漏れてなかったかな、一応、ピンチだったとはいえ、気をつけてたつもりだけど、大丈夫かな。
万が一聞こえてたとしても、彼は気にしないだろうけど。
ああ、いろいろ考えてたら、恥ずかしくなってきた。
べつに生理現象だし、気にすることないんだよ。ほんと排泄バンザイ大事なことだから。
なんかでもやっぱり私もこのまま流れていきたいぐらいの気持ちになるんだけど。
実際に流れたら大迷惑で大問題だからしないけど。
ああでも、あんまりここに私が長居しても、だめだよね。よけいに心配されちゃいそう。
いつまでも占拠してたら、今度は彼も困るかもだし。ここは彼のトイレなんだから。
っていうかこのあと彼が入るとして、大丈夫かな。備え付けの消臭スプレー、ありがたく勝手に使わせてもらったけど、大丈夫かな。
いかにもやばいことになってたので、完全消臭させていただきましたみたいな状態だけど、大丈夫?
いやもう、人間から何が出るかなんてお互い様だし。フローラルなマシュマロを生む人はいないだろうし。え、いないよね? 私が知らないだけでいたりするのかな。いないよね?
私はどこかの誰かに確認しまくるけど、誰も答えてくれない。自問自答にキリはなし。いいかげん、ここから出なくちゃ、と。ついに諦めることにする。
私はおそるおそる、トイレのドアを開けた。
小さく、テレビの音が聞こえてきた。私はなんとなく、安堵する。トイレの中にはあの音聞こえてなかった、ってことは。あっちにはトイレの中の音は聞こえてなかった、ってことでよろしいか?
「ありがとう」
私はリビングに向かって声をかけてみた。テレビの前、ソファーにいた包原さんが、こちらを向く。目が合って、ドキドキした。いろんな意味でドキドキした。アウトだろうかセーフだろうか。
「あ、大丈夫?」
「大丈夫」
「落ち着いた?」
「落ち着いた」
ので、帰ります、と。私はすぐに逃げるつもりだったけど。思いがけず、包原さんに手招きされる。それは彼の座ってるソファーの、隣の席。
トイレを借りた恩があるし、彼の指示には逆らえないというか。
私は素直に、そちらに向かう。
トイレの個室内には消臭スプレーを使ったけど。私自身は大丈夫なんだろうか、とふいに思って焦るが、もう手遅れ。開き直って座るしかない。
座ると、ふわりと、膝に毛布が掛けられた。
「おなか、ぬくめとこ。これ、ひざ掛け使って」
「ありがとう」
アウトだったかセーフだったか。彼の態度からはわからない。
けど、なんだかいたせりつくせりで。すごく、すごく、ほっとした。
「なんか、あたたかいものとか飲める? 水分補給しといた方がいいよ。休んでって」
私をソファーに残し、包原さんが立ち上がり、キッチンへ。おかまいなく、と止めようとするけど、彼はスムーズな動きで、マグカップをトレーに用意している。
「望野さん、嫌いじゃないといいけどな」
聞こえてきたのは、彼の独り言? それとも私への問いかけか。いったい何が出てくるのだろう。ある意味切羽詰まった状態のくせに、心はわくわくしてしまう。
少しして、戻って来た彼が、ソファーの前のテーブルにトレーを置いた。マグカップの中はうっすらと濁った緑色。ほくほくと湯気が立っていて、あたたかそう。
これは。
「梅昆布茶。ちょっと薄め。どうぞ」
「いただきます」
私は遠慮なく、カップを手に取った。というか、これを飲まないことにはきっと帰れないのだ私。ならば飲むの一択だろうし。
それに、ほんとに、おいしそうで。飲みたかった。
「おお」
一口飲んで、声が出る。すっかり疲労困憊だった体に染みわたるやさしい味。このやさしいは、味が薄いを褒め言葉に変換したやつじゃなくて、ほんとにしんみり、伝わってくるやさしい味。心から褒めてる。
「おいしい」
温度のこともあって、私はちびちび、それをいただく。たぶん、腹痛終わりの胃には、それぐらいゆっくり飲んだほうがよさそうだし。
私の様子を見て、包原さんが目を細める。
「よかった。おなか痛いときって、梅食えって、小っちゃい頃言われなかった?」
「梅、何にでも効きそうだよね」
民間療法。梅とアロエは万能薬感、ある。
「梅昆布茶、料理にも使えるし、便利」
「そうなんだ」
「ダシになるから」
なるほど包原さんは料理をするヒトなんだなあ、などと思っていたところで。
隣から、すっと、手が伸びてきた。
私はマグカップを両手で包んで持ってるから。されるがまま。だから。
「おなかもう痛くない?」
って、毛布の上から、彼の手が私のおなかを撫でるのを、どこか他人事のような気持ちで見ていた。
これは、もしかして。包原さん、酔ってるのかな。
にこにこしてるけど、酔ってるのかな。
毛布越しだから、あんまり、はっきりとはわからないけど。でもそれでも、彼の手が私のおなかを撫でる感覚はちゃんと伝わってくる。
間接的で、とても、やさしい。このやさしいも、褒め言葉。ちゃんと褒めてる。私は包原さんの行動が、嫌ではない。
「痛いの痛いの、とんでいけ」
包原さんの口からこぼれた呪文に、私はつい、笑う。
「久しぶりに聞いたなあ、それ」
「ね。これ、痛いの、どこにとんでくんだろーって、考えたことない?」
ある。小さいときは、悪い人のところにとんでいくんだと思ってた。
でも、痛みを誰かに押しつけるぐらいなら。たとえそれが悪い人であろうと。なんだか、申し訳ないので。
だったらとんでくのは、誰かのところじゃなくて、消えてなくなるのがいい。
「トイレに流れていくんだよ、たぶん」
「いいな、それ」
私が答えると、包原さんがにこりと笑う。
私の恥ずかしいのも一緒にとんで、トイレに流れて消えてください。ぜひぜひ。
「も、大丈夫。痛くない」
おなかを撫でられていることが、今は一番恥ずかしい。ほんとはずっとでも撫でててほしかったけど、痛くもないのに介抱されてることに罪悪感。
包原さんは、そっか、って言って、手を離す。
「望野さん酔っぱらったら、どんな感じだろーとか考えてたけど。おなか痛くなるなら飲ましちゃだめだねえ」
彼の言葉に私は苦笑いを返しつつ。でも、包原さんに酔っぱらいな私を予想されてたのか、なんて思ったら、かああと熱が上がりそう。
それをごまかしたくて、私も彼の印象を吐露する。
「包原さんは、今、酔っぱらってて。ちょっとテンション高い気がする」
ふだんの包原さんは、人畜無害な感じ。今は少し、いつもより強引だ。
「あー、テンションは、高い……、自覚ある。はは」
包原さんはなるほどとうなずいて、少し笑った。
そのうちに、ゆっくり飲んでた梅昆布茶が、なくなって。マグカップの底が見える。
よし、ごちそうさまを伝えたら、帰らなくては。
そう決めた私に、彼が問う。
「俺もトイレ行っていい?」
「どうぞ?」
なんでそんなことを私に尋ねるんだろう。ここは包原さんのおうちなのに? と、一瞬考えて。
だけどそれこそが、最大限の、彼の気遣いだと察して。私は顔を伏せて答える。
「シューってしましたので、たぶん大丈夫」
あれから少し時間も経ったし。きっともう、いろいろ、大丈夫。
「あ、そういうのは気にしなくて大丈夫」
包原さんからまた、やさしい言葉。
「気にするよ」
「いーよ、ぜんぜん」
「気にするし」
「大丈夫だって」
私のぼそぼそとした呟きを聞き流しながら、彼はすたすたとトイレに向かった。
聞き耳を立てるとか最低ですけどね。どうしたって、気になる、彼の動向。
さすがにトイレに入った途端にショック状態になるとかそんな大げさなことはないだろうけど。気になるし。
ああでも、音。音は、大丈夫。トイレの音、聞こえないねえ。耳をすましても聞こえない。耳すましちゃだめだけど。これは、大丈夫。私も大丈夫だったな、これは。よかった。
私はものすごく安堵した。今確実にセーフだったと判定をいただいた。ほんとよかった。
水を流す音はちょっとだけ聞こえるなー、とか、思って、だから耳をすましちゃだめだってば、と自分を戒めて、でもやっぱり、ほっとした。
包原さんがトイレから出てくる気配を察知して、私は空になったマグカップをトレーに戻し、ソファーに座り直す。ひと息ついたし、そろそろ帰らなきゃ。時計を見たら、まだ終電までは余裕がある。おなかの痛みもぶり返しそうにないし、自力で帰れそう。
緊急事態だったから、包原さんの好意に甘えたけれど。これ、よく考えたらなかなか際どいシチュエーション。
飲み会のあと、同僚の部屋に上がり込んでふたりきり、って。
まあ、私は心配かける恋人も配偶者もいないから、そういうところは気にしなくてかまわないけれど。
そしてなんとなく、包原さんも同じなのでは、と、部屋の様子や会社での言動から察したりもして。少なくともこの部屋、ひとり暮らしなのは確定だよねえ。どこにも恋人を隠すスペースもなさそうだし。いや、いたらいたで、隠す必要もないよね。
というわけで、包原さんに、そろそろ帰ります、とお礼を言おうとしたら。
先に、彼の方から、言われてしまった。
「これからどうする? 泊まってっても、いいけど」
これは完全にからかわれてるな、と。私は苦笑して、ソファーから立つ。借りてたひざ掛けを簡単にたたみながら、返事。
「帰れます。もうおなかも大丈夫です。ありがとうございました」
それに明日はまだ平日。私も包原さんも仕事じゃないか。いや、休みでも、泊まっちゃだめだよ。さすがにそれは、私でもわかる。
「誰か迎えに来てくれたりする?」
「いいえ、自力で帰ります。家、ひとりだし」
「そっか。じゃ、タクシー呼ぶね」
「え、電車で」
しかしそこも、包原さんが早かった。すぐにスマホを用意して、何やら操作。それがタクシーを呼ぶアプリだったり、何なら支払いまで包原さんがやってくれるやつだったっていうのを知ったのは、このあと、私が無事に家にたどり着いてからのことなんだけど。
「ちゃんと帰れたか心配だから。着いたら、連絡ちょうだい。これ俺の番号」
「あっ、ハイ……」
私は包原さんの勢いに促されるままに、自分のスマホを彼に見せる。手早く交換された彼の番号と私の番号。
それから私はマンションの入り口まで、包原さんに付き添われて。
「おやすみー」
って、タクシーにのせられて見送られた。
包原さんは心配性なんだな。というか。
すっごいやさしいな、と、ドキドキしてしまう。泊まってもいいよとかそんな冗談言われたら、やばいって。ああいう冗談も言う人なんだな。知らなかった。酔ってたからかな。
これまで、包原さんのこと、意識とかしたことなかったのに。私の中で一気に、気になる人になってしまった。
急上昇というかいきなり、誰の気配もなかったその席に、するりと居ついてしまった、な。
◇
「望野さん、ちょっと」
翌朝。昨日の飲み会のダメージなど全く残らない体で出勤したら。
同じ課の先輩に呼び出された。あれ、私何か、仕事忘れてたかな、と。ちょっと怯えて給湯室に向かう。
秘密の話をするときは給湯室か、休憩室か、廊下の隅か、使われていない会議室、もしくはひと気のない倉庫だと相場が決まっている。けっこうあるな、場所。
「ね、昨日。包原さんと一緒に帰ったって、ほんと?」
「え」
私はすぐには答えられない。一緒に帰った、けど。それ以上の意味が、質問にはあるような気がしたから。
「付き合うことにしたの?」
「どういうことですか?」
質問に質問を返したら、どうやら、昨夜飲み会をした店を出てから、私を自分のマンションに連れ込む包原さんの姿を、誰かが見ていたらしい。
確かにそれを見ちゃったら、誤解されるのも仕方なし。だけど。
私は包原さんの名誉のためにも、きちんと間違いを正しておかなければ、と、胸を張る。
今は食事の時間ではないから、排泄の話だってふつうにできるし。
「あれは、私がおなか痛くなって、トイレ借りただけです」
「トイレ」
先輩は目をぱちぱちさせて、それから、えーって、なんだかつまらなさそうな声を上げる。
「トイレなんてその辺にもあるよね、なんでわざわざ」
「なかったんですよ、手頃なトイレが」
と、説明してるところで、始業のチャイムが鳴った。タイムアップ、仕事しなくちゃ。
「えー、トイレって、えー」
先輩は納得いかない感じで、私を解放してくれたけど。どうなんだろうなあ、この噂が流れてくるたびに、あれ、トイレ借りたんだって、って、先輩は皆に説明してくれるんだろうか。
えー、それはそれで、私がおなか痛かったのが言いふらされるのか。うーん。
やだなあ、とは思うけど。私のせいで、変な噂に巻き込まれる包原さんのことを考えると、そうも言ってられない。
午前中、噂のことを気にしつつも、それ以上は誰も私に言ってこなかったので、ふつうに働いた。お昼休みになり、スマホを見て、メッセージに気づく。
それは、包原さんからだった。
一緒にお昼、と誘われて、これはあれだな、包原さんも、先輩の言ってた噂を聞いたんだな、と思う。
ここは当事者同士で、意志の疎通をして、今後の対策を練ることが必要だろう。
私は彼の誘いに乗ることにした。
指定されたのは、会社近くの広い公園。ランチタイムに合わせて、何台かキッチンカーが来てたから、美味しそうな店を選んでお弁当を購入。それを持って、東屋のベンチに座った。
「望野さんも噂、聞いた?」
お弁当を食べながら、包原さんと質疑応答。彼の話は、やっぱり昨日の「お持ち帰り疑惑」だった。
「私たちが付き合ってるっていうやつなら」
私が答えたら、包原さんが困った顔で笑う。
「どこから見られてたんだろ、ね」
「まあ、でも。誤解だって説明したら、わかってくれるだろうし」
トイレを借りただけ、貸しただけ、って。正直にほんとのことを話せばいいのだ。
「望野さんは、それで大丈夫? 理由、広まるの、やじゃない?」
「ん、大丈夫。包原さんに迷惑かけるよりいい」
すでにトイレを貸してもらって迷惑かけたし。助けてもらった人に、恩を仇で返すみたいなこと、したくない。
「俺は迷惑じゃないけど」
そうやって、やさしく笑ってくれる人に、これ以上迷惑をかけては……、と。
ふと、私は顔を上げる。
包原さんが迷惑じゃない、のは、いったい何を指してるのかな、って。
考える間に、彼は次のセリフ。
「まあ、噂が消えるのは、七十五日だっけ」
そういえば、そんなことわざがあったなあ。私は頭の中で計算する。七十五日って、二カ月半か、長いような短いような。
「たぶんすぐだよ、皆そんなに暇じゃない」
SNSで流行った話題なんか、それこそ数日で忘れ去られてしまう。まあ、次から次へと新しいネタが流れてくるから、ところてん方式で追いやられてしまうんだろうなあ。
「望野さんのこと狙ってたやつとかは、怒ってるだろうね」
「いればね」
そんな架空の存在を言われましても、と私は苦笑い。と、同時に。
そっか、じゃあ逆に、といまさらながら、思うこと。
「包原さんのこと好きな子も、今ごろ焦ってるよねえ。ほんと直接言ってきてくれたら、説明するけどなあ」
「それこそ、いればの話。あとは、望野さんが好きな相手が、誤解してなかったらいいな」
「私の好きな相手」
包原さんの言葉を繰り返して、私はゆっくり瞬きをする。
そうだね、そんな相手がいたら。私はもっと慌ててたかも。でもいないし。
「私は大丈夫。包原さんは? 大丈夫?」
「あー、俺の好きな相手、かあ」
包原さんは一瞬私の方を見て、それからすぐに目をそらす。
「まあ、大丈夫」
まあ、ってところが気にならなくもないけど。本人が大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろう。
それ以上、気にしようがないからね。
噂の話はそこまでで、私は包原さんに言いたいことがある。
「昨日助けてもらったお礼と、あと、タクシー代。返したいんだけど」
「いいよ、それは」
「ほんとは、今日のお昼とかごちそうして、相殺したかったんだけど」
気がついたらそれぞれ支払っちゃってたし、キッチンカー。
「望野さん、義理堅い」
「え、お世話になったらお返しするよね」
「お返し、かあ」
包原さんは笑って、私に少し顔を寄せる。距離、近いんですけど。
「お返しならご飯じゃない方がいい」
「え、なにをお望みでしょうか」
「今度ほんとにうちに泊まって」
「は?」
私はしばし、その場で瞬き。これは冗談? お礼なんていらない、を、包原さん流の冗談でまろやかに包んだやつ?
いや、だけど、なんか。
冗談にしては、顔が真剣。
「なんか昨日から、望野さんのことめちゃくちゃ気になってて。それまではそうでもなかったんだけど」
正直だなこの人、と、ちょっと呆れながらも。それは私も同じだと、思う。
私も。
昨日、間違って、彼の乳性炭酸飲料のサワーを飲んでしまうまでは。包原さんはただの、同僚、だったのに。
ぐっと、距離が、近くなって気になってしまうようになったのは、私が一番無防備な姿を、この人に晒したからだろうか。
人間は腹痛の前では無防備になりすぎる。
「弱ってる望野さん、介抱してたら。一生守らないといけないような気になって」
それは錯覚ですよ、と、ちょっと言いそうになりつつも。
恋愛なんて、脳みそが錯覚しまくる現象に過ぎないしなあ、と、思ったりもして。
「望野さんのこと考えたら、心臓、ぎゅってなるんだよね」
ふう、と。包原さんがため息をつく。その表情には恋の気配。
痛いの痛いのとんでいけ。とんでいった痛みは、消えてなくなってはくれなくて。
形を変えて、どうやらぷすりと、彼の心に突き刺さってしまったのでした。
……って、ことなのかな。
「包原さん、まだ酔ってるんじゃないですか」
「しらふ。何なら昨日もそんな、飲んでないし。酔ってないし。頭の中ずーっと、望野さんのことが、ぐるぐるしてるし」
それはアルコールより、タチの悪いものなのでは。
もしかして私は昨日彼の家のトイレで、そういうタチの悪いものを産み落として、その結果それが包原さんに寄生しちゃったとか……、いや、そんなわけないよなあ。
あり得ないことを考えて、ちょっと現実逃避しかけたら、包原さんがひそひそと囁く。
「ね、噂が消えるのと、俺たちがほんとに付き合うのと、どっちが先だろうね」
一目惚れではないけれど。こんな恋の始まり方も、あるのかもしれない。
「一晩で、こんなに気になる存在になったのに、二か月半たったら、どうなってるんだろう」
包原さんの呟きに、私も興味を引かれる。そうだね、それは、私も、知りたいところ。
乳性炭酸飲料が好き、っていうのは、昨日見つけたお互いの好きな共通点。
これから一緒に、ちょっとずつ、そういうのを見つけて。
ちょっとずつ、好きになるか嫌いになるか。嫌いなところも、好きになれるか、どうか。確かめながら、過ごせたら。なんか楽しそうではある。
「飽きられないように、がんばります」
私が覚悟の言葉を述べると、彼があははと声を上げて笑う。
「俺も、がんばります」
◇
それからどうなったか、と言いますと。
私と包原さんがどーの、なんていう噂は、数日も経てば耳にしなくなり。
七十五日もかからなかったねえ、と拍子抜けしながらも。
「なんかあの噂がきっかけで、付き合うことになりました」
と。とりあえず先輩には後日報告することになった。
包原さんが一緒だと、会社の飲み会があっても、まず、彼が毒見……というか、ちゃんとアルコール入ってないか見極めてから、私にドリンクを回してくれたりするので。
あれから、間違えてアルコールを摂取して、腹痛に悩まされる、なんてことはなくなった。
けど。
おなかが痛くなくても。
「望野さん、一緒に帰ろ」
って。彼の部屋に連れて行かれは、するんだけどね。
「今日はおなか痛くないから、家、帰れるよ?」
「知ってる。でも、俺が帰したくないし。いっぱい撫でたいし」
「そうですかぁ」
お酒を飲まなくても、彼と一緒に歩くと千鳥足。楽しくて、ふわふわする。
七十五日は過ぎたけど、これからも末永くよろしくお願いします。
(痛みが恋に変わるまで/終)