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鏡越しのメッセージ

※自分の誕生日記念として投稿した短編です。

誕生日おめでとう俺。

 転びかけた体を、走る脚が無理矢理起こす。

 切れる息が自分の余裕のなさを言いつけているようで、聞いてたまるかとさらに風を浴びた。

 肺が裂けるように痛く、横腹も釘が刺さったような痛さだ。足だってもうこれ以上は。でもここで足を止めれば後悔すると分かっている私の頭は、自分の体に鞭を打つ。


 蒸した青臭さが鼻腔を通る。足首を冷たい泥が掴む。高草が肌を切りかかる。小さな羽虫がのどに張りつき思わず咳き込む。顔に蜘蛛の糸がまとわりついたような気がしているが一向にかまわない。

 何かから逃げるように、私は汗まみれの不細工な形相で夜の小道の先へと走り続けている。


 なんでこんなことになってるのかわからない。走ることは好きじゃないのに、走らずにはいられなかった。

 ただ、自分が数分前までいた場所から少しでも離れたい一心だった。

 全部を捨て去る思いで、私は何かから逃げてきたのだろう。そうでなきゃ、こんな必死になるわけがない。


 でも、何から?

 私は何に怯えて逃げている? それとも何にしがみつこうと追いかけている?


 なぜ走っているのかさえわからなくなった頃。懐かしさを覚える場所に行きついた。

 小さい頃、友達と走り回って遊んだことのある神社。とはいうものの、こんな暗さではまるで別の世界にでも迷い込んだかのようだ。

 ようやく走る気力も体力も尽きたのか、いざなわれる様に入口の階段を数段上っては賽銭箱の前に座った。


「あれ、こんな夜更けにどうしました?」

 飛び上がり、頓狂な声を上げる。我ながら情けなくもびくつきながら振り返った。


 賽銭箱の裏――そこに何かがいるのはわかった。ただ、夜の闇に飲まれ、顔や姿まではわからない。

 ただ直感的に人間だと思ったのは、そうであってほしいと無意識に願ったのか。だが、人間も人間で怖いと感じた私は、むしろ何も見えない方が良かったりと思う。

 発したその人間の声は若々しく、どこか天真爛漫さと愛嬌があり、一切の警戒をしていないと分かる。ただ、男とも女ともいえない声色に、どこか神秘的なものを感じたのも気のせいではないだろう。


「もしかして迷子です?」と無邪気な声は気兼ねなく話しかけてくる。

「いや、ここ知ってる場所なので」と慎重に返す。

「そうなんですか。息も切らして疲れてるようですけど」

「まぁ、いろいろあって」

「よかったらここでお話しませんか。ちょうど退屈してたとこなんです」

 その場を濁したことを察してはくれず、少々面倒なことになった。ただこの非日常的な一時が貴重な気がした。もう少しいてやろう。


「ここの近くに住んでるんですか?」

「ええ、まぁ」

「ここって風が気持ちいいですね。虫の声も心地いいですし。ちょっと蒸し暑いですけど」

「そうですね」と聞き流す。

「あ、食べ物持ってます? よかったらおすそ分けしてほしいんですけど」

 やっぱり。なんとなく思っていたことが当たっていたようだ。

 この若さで路頭に迷うとは不運だとは思う。でも、自分とは関係ない。その人の人生に干渉しないほうが身のためでもあろう。話すくらいはいいとして。

「あの、まさかと思うんだけど、ここに住んでる? その、ホームレスまでじゃなくともなんていうか」

「住んでませんよー。ちょっとお借りしてひと眠りしていただけです。明かりのついた家にお邪魔しても全然ご飯出してくれませんでしたし」

 そりゃそうだろう。浮浪者であることに変わりないと思った瞬間、この時間が無駄に思えてくる。ただ、帰る気になるはずもなく、行き場のない気持ちが頭上を泳いでいるだけだった。

 それにかまわず、浮浪人はわきまえもなく訊いてくる。


「そういえば、なんでここに来たんですか? それもおもしろい顔で走って。熊にでも追い掛け回されないとあんな顔できませんよ」

 そんなひどい顔してたの、と両の頬に手を当てる。「おもしろいは失礼でしょ」と後から気づいて呟く。もなにかと気に障る一言を言うやつだ。どんな顔してるのか見てやりたいくらいだが、走りつかれた体をもう一度立たせるほどのことでもなかった。

「わからない。気が付いたら行先なく走ってたし、気が付いたらここにきてた」

「じゃあ僕と出会えたのはまさに運命ですね!」と嬉しそうな声。子どもみたいなやつだ。なんなら本当に子どもかもしれない。

「たまたまでしょ」

「偶然だって運命ですよ。あ、いま良い事言ったかもしれないです」

「至って普通のこと言っただけだから」

 さっきからなんなんだこいつは。うんざりする一方、ここまで気を遣わないで話すこともなかったことに気づく。


「そういえば、お名前なんて言うんですか?」

 ただ私のへそが曲がっている原因は紛れもなく背もたれている賽銭箱の反対側にいるであろうめんどくさい奴のせいだ。

 大人げなく、私は返した。

「それ言わなきゃいけないこと?」

「もしかして反抗期ですか」

 ムッとする。そうではない。いや、そうといえばそうだけど認めたくない。

「なんでそうなる。……はぁ、名前は――」

「じゃあナナシさんで!」

「いや勝手に決めんな」

「え、匿名のトクさんの方がよかったですか?」

「そういう問題じゃないから」

「じゃあナナシさんで!」

「……もう勝手になんとでも呼んで」

 はぁ、とため息が夜空に消える。前を見れば真っ暗。かろうじて夜空の明かりで照らされているも、足元はほぼ見えない。正直、今の状況は捉え方次第では怖いのだろうが、友好的で、それでいて変わっている奴が背中越しにいるだけで、そんな気持ちは吹き飛んでいた。それに、鈴虫のような虫や蛙の鳴き声やどこからともなく聞こえるので、不思議と孤独は感じなかった。


「さっきの話を聞いてやっぱりと思ってたんですけど、ナナシさんは迷子ですね」

 鼻でため息。「それどういう意味」

「そのままの意味です」

「ここは近所なの。何を根拠にそんな」

「迷ってますよ」

 風が吹けば吹き飛んでしまうような軽い奴かと思っていたが、その一言だけは妙に私の胸の中でずしんとのしかかった。言葉の力ともいえるかわからないが、どことなくそんな気にさせたのは、やはりそいつの言葉に何かしらの魔力があったのだろうか。

 そんな気持ちをお構いなしに、その人は世間話でもはなすかのように話し続ける。

「どこに行けばいいかわからなかったみたいですし、それにこの暗さです。僕だったら、寂しくて怖くてじっとしてられなくて、どこか明るいところに少しでも早くいこうって思いますね。だから汗だくになってここに来たのかなって。違いました?」

「……なんだよわかった風な口きいて。何にも知らないくせに」

「そうですね、ナナシさんのことなーんにもさーっぱりわかりませんし、迷ってて道を知りたいって思ってても、帰りたいって思ってても僕は知りませんし、そもそも知ったことでもありません」

 意外と薄情な奴なんだな。でも、簡単に同情してくるやつよりかはまだいいか。

 そう思ったときに、寒気だつ風が肌を撫でた。汗も引き始めてシャツも冷たくなり始めている。


「僕はちょっかいをかけることしかできませんから。ほら、この風みたいに」

「いや、どういうこ――へっぶし!」

「冷えた夜風が花粉か何かを運んできたみたいですね。こういうことです」

 いたずらを楽しむような声。くしゃみして出た鼻をすすりながら、首を横に向けた。

「だとしたら本当に余計なお世話だよ」

「あっははは、でも風って気持ち良かったりしませんか」

 話も転々としていて、つかみどころないというか、勝手というか。その傍若無人さとこの夜風を照らし合わせた私はなるほどと心の中でつぶやく。

「要は、気まぐれってことをいいたいの?」

「そうです、その通りなんです! すごいですナナシさん! 詩人になれますよ!」

「大袈裟だってーの」

 しかしなんの嫌味なく褒めてくる声色。だとすれば純粋なバカに違いない。得体のしれない浮浪人の時点でろくでもないやつだとはわかってはいたけど。

 ただでさえ気持ちももやもやとしていて、体も疲れ切っているのに。さらに疲れたような気がしたにもかかわらず、くすくすと笑い声が聞こえる。あまり誌的な表現が苦手な私だが、鈴の音が転がるといっても差し支えないようなかわいらしい声。心穏やかならそれが癒しになったろうが、いまはムッとさせるだけだ。


「なに笑ってんだよ」

 すると笑い声の主は嬉しそうに話す。

「今日は本当に素敵な日だなって。こうしてナナシさんと出会って、お話しできたんですから」

 不意を衝かれたような間に草むらのこすれる音が横入りする。

 え、それだけ?

「話しただけじゃん」とあきれるような一言を返すと、

「それがいいんですよ。いろんな人に会ってお話ししても知らんぷりばっかりですし、お家にお邪魔してもぜーんぜん気づいてくれませんし。ここずっとひとりぼっちでいる気分でしたね」

 でたらめなことを。そう思っているも、なぜだかウソのようには思えなくて、その言葉を反芻するほど、おかしいことに気づく。

 気づいてくれないって、それってつまり。


「それってさ……え、人間、なんだよね?」

 今回ばかりは私の意図を読み取ってくれたようだ。笑って返されたのがどっちの意味なのか分かるまで血の気が引く思いをしたが。

「あっはは、別に幽霊でも妖怪でもなんでもないですよ。僕はちょっぴり影が薄いだけです」

 安心していいのか、それともやっぱり警戒するべきなのか。しかし、これ以上触れない方がこの穏やかな世界のまま過ごせると思った私は、話題を今すぐにでも変えようと質問を考えた。

「ひとりって、やっぱ寂しいって思う?」

「ずーっと旅をしてるのでもう慣れっこですけど、見つけてもらえないのは少しだけさびしいなって思います」

 そう元気に返ってくる。

「旅人なんだ」

「ナナシさんの思う浮浪人とそう変わりないですよ」と珍しく自虐した。

「旅人はひとりでする人が多いかもしれません。でも人が住む場所に着けば気持ちは昂っちゃいますね。でも、皆さんの目に僕は映っていないんですね」

「……どうして」とつぶやき落とす。「どうしてでしょう」と笑って返される。

「活気のある町や食卓を囲む団欒にいるのは楽しいですけど、やっぱりそこに僕はいないんですよね。それでも僕はこうしてお日様を見て、風を浴びて、好きなとこ歩いて、眠くなったら寝て、楽しい日を普段から過ごせていますけど、だからこそ今日は特に最高で素敵な日だなって思えるんです」

 だからですね。そう旅人は一番明るい声で、


「ナナシさん、特別な日にしてくれてありがとうございます!」

 すぐに何も返せなかった。

 本当に何を言っているんだと。お門違いもいいところだと。能天気な奴だと。そんなことで喜べるなんておめでたい奴だと言ってやりたかった。

 だけど、この熱さはなんだ。この目の、喉の、胸のこれはなんだ。

 これだから暑い季節は嫌なんだ。

「なんだよそれ。本当に変な奴だなおまえ」

 半ば震えたような声が出たような気がしたが、このまま押し通した。

「えへへー」

「いや褒めてないし」

 顔がにへらとにやけてそうな声に、何度目かわからないあきれ声を漏らす。この人の前は、別に深い意味を考える必要はなさそうだとうすうす思い始める。少なくとも、悪い奴ではないだろうと直感だが、そう感じ取った。

 しばらくの沈黙が漂う。別に重くはない。気まずくはない。私は私の思慮に耽ることができたのだから。

 近所――まぁ徒歩だと距離はあるが――とはいえ、ここにたどり着けたのは運がよかったのだろう。こんなろくに街灯すらない真っ暗な田んぼ道や畑道じゃどこで落ちるかもわからない。草原が広がる場所もあろうと、こんな時間帯じゃまさに一寸先は闇の様だろう。どこを走っても本当ならどこにもたどり着かず、帰ることもできず、そのまま転がり落ちてたに違いない。


 ただ。

 何を怖がって暗闇の中逃げていた。そして、私は何を求めて暗闇の中を追っていた。

 いや、簡単なことだ。

 どっちも同じものじゃないか。

 夜空を仰ぐ。

「……私もさ、なんかひとりだなぁって思うときがあって。こんなに周りにたくさん人がいるのに。たくさん繋がっているはずなのに。どっか置いてけぼりというか、仲間外れというかそんな気がしてさ。孤独はダメだってわかってんのに、人と繋がればつながるほど疎外感っていうの? それ感じてさ。しかも自分の……なんだろ、ぐちゃぐちゃした醜いものが見えてきて、私ってこんなちっぽけなんだなとか、こんなちっぽけなことで悩んでる私のこの考え方も存在も、周りにとってちっぽけなんだなとかって気づいたら消えてしまってもいいんじゃないかって、ちっぽけらしくどっかの道端に転がったままでいたいって思う反面、それは嫌だって思ったりするからそんな傲慢な自分にも嫌気さしてるんだけどね。まぁ、気にしなくていいことのはずなのにね、自分がかわいくて手放せなくなってる」

 ちょっとだけのはずだったのに。一度出したらぼろぼろとこぼれ出てくる。

 真っ暗の地面へ視線を落とす。指を絡めるように両手を組み、息も一緒に地面に落っことす。


「夢があったんだ、私」

 馬鹿馬鹿しい。人に言うことじゃない。それも見ず知らずの他人に。やめろ。

 でも、この人なら言っても大丈夫かもしれない。あるいは何かを期待している自分がいたのか。

 あるいは、吐き出したかったのかもしれない。


「私でもなにかできるんじゃないかなって。こんな自分でも一つくらいは自信もてる何かがあるんじゃないかって。小さいころの夢みたいなのはあんまり思い出せないけど、夢を探していて、試したりして、これかもっていうのが見つかったからそれを叶えたいなって思ったりして。でも周りのように情熱をそこまでぶつけられるもんじゃなかったし、なんというか、ちょっとできたからそれを心の支えにしてるに過ぎないっていうか」

 サァァ、と草木が夜風の寒さを前に身を寄せ合う音が奏でる。膝を両腕で抱くように、私も一人で身を寄せ合った。

「でも、そこに進もうとするほど自分にはなにもないんだなーって思えてきて、だったら努力すればいいって、それだけのことのはずなのに、胸が苦しいんだ。しかも私バカだからさ、知ってる人みんなに夢を言いふらしてさ、ちょっと褒められたら調子に乗って。そんでちょっと試したらできる気がしなくてぽっきり折れて……で、合わせる顔もなくて怖がって逃げてきたんだよ」

 今すぐにでもここから落ちて頭をぶつけて記憶をすっぽり抜きたい。こんなに頭も胸も締め付けられるなら大怪我して入院でもして、全部投げ出したい。なんだったらもう一度――。

 また冷たい風がちょっかいをかけたようだ。追い打ちをかけるようにくしゃみを促し、私の吐き出そうとしたどろどろの気持ちを散らかした。なんだかちょっとだけ恥ずかしくなって、思いついた限りの言葉を並べ直した。


「私だっていろんなことやってみたよ。学問にスポーツに絵に小説に。手芸とか配信とか資格とか恋愛とか、本当にいろんなことやってきたつもりだよ。でもさ、本当に何もできないってことあるんだなって。仕事だってダメダメでさ。毎日怒られて皆に迷惑ばっかりかけて、ここにいない方がみんな幸せなんじゃないかなって思うくらい。それでぜんぶ逃げてきた。ちょっと頑張ればなんとかなりそうでも私は全部捨てた」

 相性だって、ある程度の時間は必要だ。でもそこに必要なだけの気持ちを捧げることが、私には怖くてできなかったのだ。何かをあきらめるたび、私は自分の可能性と、信じたい気持ちの一部が切り取られ、しょっぱいティッシュの山と一緒にごみ箱に捨てたんだ。

「でもさ、それでも続けられたものはあったんだよ。これが私の生き甲斐かもしれない。もしかしたら私の自信になるかもしれない。私が私でいられるかもしれないって。でもさ、唯一好きでやってることも、現実見れば見るほど、手放さなきゃいけないのかなって思えてきたんだよ。まぁそんな現実通りにうまくいくのかなって思うときもあるけど、なんだろうね、普通の生活すら送る力も自分にはないのかなってまた自己嫌悪に陥いて自分の望んでいない道へまた進み始めるし」


 何度も思ったことある。生きる意味なんてなくてもいい。自身なんかなくたっていい。自分のアイデンティティなんて固着する必要もない。私は私なんだって。何もできない私こそ、私の魅力ある個性なんだって。知らないところで人に尊敬されているかもしれないって。

 そういうのがうざいんだよ。

 私は弱いんだよ。慰みの言葉を素直に聞き入ることができないほどにひん曲がっていて、脆い心なんだ。こんな私が嫌だからひとつでも何か得ようとするんでしょ。私はそんな大層な人間でもないし、なれるともなろうとも思わないし、せめて私が見つけた私の強さを、魅力を、認められるものを取り入れようとするだけで精一杯なんだ。

 なのに、それを自分から捨てようとしている。もう本当に、バカはどっちだよって。背中にいる何も考えていないような旅人の方がよっぽどたくましいじゃないか。

 口にしたことと思ったことの区別がつかなくなったと自覚した時、寂寞の時が流れていた。さすがに引いているのかもしれない。諦めの声で、私はぽつりと言った。


「笑えるでしょ。勝手というか矛盾だらけで幼稚で、しょうもないよね」

 そんなことない。

 すごいよ。

 十分に頑張ってる。

 無理しなくていい。

 休んでもいい。

 逃げてもいい。

 そんな月並みの言葉があふれるように喉奥から出てきては、吐き気を催す。

 そんな言葉を聞きたいわけじゃない。だからといって根性がないだとか努力不足だとかを責められたくない。もっと不幸な奴がいるんだと比較されたくもない。こうすればいいっていう助言だってほしくない。

 ただ全部、誰かに受け止めてほしかった。汚いものぜんぶ吐いている私を、愛してほしかった。そんな一心で、姿も見えない何かに私は縋りついたのかと思うと、途端に滑稽に思えてくる。

 だが、相手の返事はなかった。途端に不安になったので声をかける。


「聞いてる?」

「なんか難しい話でしたね。3行以内にまとめてくれると助かるんですけど」

 声が返ってきて安心したのもつかの間、多少ましな返事を期待した私は突き放されたとは別の落胆を覚えた。

「……いや、あの、おまえさ」

「あ、流れ星! ねぇねぇ見ましたいまの! ナナシさん願い事叶えられました?」

「いや、マジでお前さ……泣くよ?」

 がたっと賽銭箱が動いた。今までの中で一番感情を動かされていることは目に見て明らかだ。自分の話ではなく、流れ星の方で。

 肩を落とし、大きく背もたれる。今更になって見上げた夜空には、なにも映っていなかった。

「あーなんかもう、おまえと話すとぜんぶ馬鹿らしくなってくる。事情はありそうだけど悩みなさそうでいいよね」

「へっへへー、いいでしょ」

 またも誇らしげな声。もはや返す言葉が見つからない。

「あ、知ってますこれ。悩みは脱皮する人の特権なんですよ。川を泳ぐ魚のように、ナナシさんが前に進もうとしているから、悩んでるんです。ただ敏感すぎて全部受け止めちゃってる真面目なとこもありますけど」

「マジメ、ね」

 たしかにそうかもしれない。変なとこだけめんどうくさくまじめで、大事なところで怠けてばっかな自分だけど。

「重たくありません? そんなに背負って。ここまで走ってきていろいろ捨ててはきたみたいですけど、正直手ぶらの方が楽ですよ」

「簡単に言ってくれるね」

「背負う方が大変ですからね。腰痛めちゃいますし。あと見てて僕が疲れるので降ろしてくれませんか?」

「いや、今なにも背負ってないけど」

「めちゃくちゃ背負ってますよ。とりま深呼吸でもして何背負ってるか見てみてください」

 わけのわからないことを。

 言われた通り、3回ほど深い呼吸をする。草のかおり混じる新鮮な空気が肺に流れ込んで、体内の鬱憤が一緒に吐き出されたような。それでも無尽蔵に湧いて出てくる煤のような黒いもやが消え去ることはなかったが。

「わかりました?」

「いや……全然」

「あれー? あ、でもすっきりしたでしょ」

「それは……そう、だけど」

「ここの土地の空気はおいしいですね。大体味同じなのでそろそろ飽きてはいますけど」

 今の時間はなんだったのか。意味はなくはないんだろうけど、少なくとも私にはわからない。

 話についていこうとするだけ疲れるなと、私も私で勝手に話題を変えた。


「君はさ、なんで旅してるの?」

 当然の質問だと私は心の中で正当付ける。

 不審な人だからあまり宛にしてなかったというのもあるけど、これの答えを聞くことで、何かしらの道しるべを見出したかった。

 だが、そういうものを少しでも期待した私に返ってきたものは、意外なものだった。

「んーそうですね、特に考えてないですね。目的も理由もないです」

「理由はあるでしょ。じゃなきゃ旅なんてするはずないし」

「えー理由なんてなくても楽しけりゃいいじゃないですか。そんな死ぬわけでもなし」と子どもの駄々のような声色。

「生きる理由だってあるんだから」

「んー、まぁおいしいもの食べたいとかありますもんね」

 望んだ納得の仕方とは違うが、まぁ応える気にはなったようだ。少し考えるような唸り声を出す。

「きっかけはあったんでしょうけど、んー難しいですね。単純に好きだし楽しいし、僕のやりたいことだからそれでいいんじゃないかなって。あ、今考え付いたんですけどね」

「それ本気で理由ないやつじゃん」

 呆れにも似た小言をつぶやくが、旅人は元気な返事を返した。

「ただ、そうですね。何も持てなかったから、全部捨てたかったから旅をしているのかもしれませんね」

「……」

「いろんなとこに旅してますが、ナナシさんみたいな優しくて弱い人は、何かしらの重い鎧を着てる人が多いなぁって。あ、この時代だとパワードスーツとかの方がしっくりくるか。もっと重いものを背負うためにいろいろ纏うんですよ。それが本当の自分だと言いながら」

 比喩表現にしてはちょっと違う気がした。まるでほんとうにそう見えているかのような口ぶりに、やっぱりただの人ではないと心のどこかで思う。背負ったものを下ろせとさっきいったのは、私に見えないものがこいつに見えているのだと、そこでようやく気付いた。

「それで鍛えられて素体が強くなるのは否定しませんが、それでもやっぱりおぼろげな限界はあるんです。越えられないわけでもないけどすごい大変です。中にいるその人そのものは潰れちゃいそうになりますし、ずっと大変なままで、それでも脱ぐよりは怖くないとより一層身を固めるんですね」

 他人事のような口ぶり。それが不思議と、私の耳の中に入った。


「そうでもしないと生きてこれないものだとしたら……?」

「案外ですね、鎧なくても生きていけますよ。それに、案外そっちの自分の方が強いです」

「……それで死んだらどうすんの」

「そんときはそんときです。へっへへ」

「いや、へっへへじゃなくて」

「なにも視えないまま押しつぶされて眠るより、日の光と風を浴びて死んだ方が僕は好きですよ。案外死なないかもしれませんし、案外身軽になって元気になるかもしれないです。……それでも怖いですか?」

「そうに決まってんでしょ。杞憂って言いたいんだろうけど、そんな勇気私にはない」

「え、勇気いるんですか? んー、僕も気が付いたらって感じでしたし、一瞬だったし、もしかしたらもうナナシさんも勇気は出しているかもしれませんね」

「どういうこと」

「こんななにも視えない夜の中、おもしろい顔で走り続けたんですから。それで無事にここに来たんです。ナナシさんがどうしたいかっていう答えは、ここからだと綺麗に視えるかもしれませんね」

 眉を顰め、もう一度聞き返そうとしたとき、ふと夜空が薄らいでいることに気づいた。それは、寒々しかった風が温かく感じたからだ。

 俯いた顔を前へ向ける。


 なにも見えなかったはずの闇夜は溶けだし、感触でしかわからなかった世界が形作られ、彩り始めた。

 よく知る道、よく知る町並み。行ったこともない、どこまでも横に続く稜線。その向こう側はここからだと見えないが、きっと、ここよりもきらきらと光に照らされた場所なんだろう。

 私にまとわりついていたはずの糸や泥、そして闇も、いっしょに流れ落ちたような。曖昧な感覚でしかわからなかった手足も、いまははっきり見えている。

「風も日の光も、案外悪くないですよ」

 透き通った声で、旅人は言う。隣にいたような気がし、右を見た。なにもいない、代わりに風が吹いてくる。撫でられたような優しいそれに、なぜだか目頭が熱くなった。


「今日はこんなに晴れています。もう一回だけ、ナナシさんと向き合ってみてはいかがですか?」

 よくわからない一言が背中から聞こえる。でも、その意味は、今の私にはよくわかった。

 「なんか釈然としないけど」とつぶやきつつも、くすりと笑みがこぼれる。「なんというか、そうだね。今日くらいはそうしてみてもいいかなって気分にはなったかも」

 息を大きく吸って、紅掛けの青空を見上げる。

「もう一回、がんばろっかなって思う。君と話すのは疲れるけど、気持ちが軽くなったよ」

「そりゃよかったです。お礼ならご飯一週間分――」

「いま感謝の気持ちが消えかけたからね。ていうか対価でかすぎな」

「だってよく考えたらひとりの人生を救ったようなもんですよ。ご飯の振る舞いくらいはあってもいいじゃないですか」

「図々しいなお前」と返した私の口角はなぜか上がっていた。

「さっきもいった気がしますけど、僕は慰め方もわかりませんし、励ます言葉も頑張れ! とかすごい! とかしか知らないですし、旅しかしてないので何かを知ってるわけじゃありません」

 だろうね、と笑う。ちゃんとした人だったらあんなに不機嫌になったりしないから。


「ただ、そうですね。こうやって、一緒に日の出を見ることくらいはできますよ」

「誰でもできそうなことだね」

「誰でもできるからいいんです。僕だけしかできないことなんて荷が重すぎますよ」

 確かに、といったところで笑い声が重なった。どんどん世界は明るくなり、鳥の囀りも聞こえ始めた。

「いまのナナシさん、とってもいい顔してますよ」

 顔が熱くなり、思わず周りを見る。しかし人影の一つもなければ気配もない。影が薄いと自称しているだけあって、本当に私の目には見えないのかもしれない。それを少し残念と思った。

「汗かいてすっきりしたんでしょ」と浮きかけた腰を下ろした。

「さっきはおもしろいとか言ってましたけど、大丈夫です。暗いとこじゃ自分の顔なんて見えませんが、ほんのちょっとだけの光さえあれば、ナナシさんがどんな素敵な姿かわかるようになりますから」

 純粋な声なのだろう。その透明度は自分のそれとは比べ物にならないほどきれいで、煩わしいことに変わりはない。でも、いまはちょっとだけ、それを心地よいと思える自分がいた。きっと、朝のせいだろうと決めつけて。


「それじゃ、気が変わる前に早いとこ向こうのナナシさんに会いましょう。向こうも向こうでそろそろ起きてくるでしょうから。そして顔を合わせたら言ってやるんです。『今日のあなたは最高だーっ!』って」

 両腕を大きく上げて叫んだような。今までにない大きな声だったので、思わず吹き出した。

「ははっ、なにそれ」

「本当のことを伝えるだけの話ですっ。自分のことを決めるのは自分なんですから、姿かたちも好きなように自分で決めちゃいましょうぜ!」

 おかしな口調で言ってくる旅人の気持ちを表すかのように、目の前に転がる木の葉がくるくると回る。つむじ風でも通ったのだろう。

「そうだね。帰り道も見えたことだし、そろそろ戻るよ」

 立ち上がった私は、賽銭箱に持たれた背中を離し、階段をぴょんとおりる。


 今日はありがとう。くるりと踵を返してお礼を言ったとき、私の目は丸くなったことだろう。

 朝日に輝く神社、そして私がさっきまで座っていた賽銭箱。その前に立っていた、誰か。しかしそれはずっと話していた旅人であると、無意識的にそう受け止めた。

 声の通りといえばその通りだった。自由気ままで、掴めなくて、子どものように無垢で快活で、でも大人のようなやさしさもあって。性別も何もかも、そんな線引きを示すことのない、本当に不思議な人がこの世にいたんだと、そして美しいと感じ取った。

 旅人はくしゃりと、しかし花のように笑う。

「またいつか、どこかで会えるといいですね」


   *


 カーテンの隙間から差し込んでいた一筋の光。それに気づいたかのように起き上がり、布団を蹴飛ばしてはそれに導かれるように手を伸ばす。今日はなぜだか、眩しくもそれを煩わしいとは思わず、温かいとさえ思えた。

 キィ、と窓を開ける。ふわりと舞い、揺蕩うカーテン、そして自分の髪と頬を撫でる。蒸し暑い日が続いていたはずなのに、今日はなんだか気持ちがいい。しかし、ついでに鼻の中も撫でたのか、盛大なくしゃみをひとつする。心地よい思いをしたのに、勝手で気ままな奴だと思ったとき、ふと後ろを振り返る。もちろん、自分の部屋なので誰もいるはずがない。差し込んで少しだけ明るくなった部屋。その先にきらりと光る――もうひとつの世界が対掌的に広がる窓へと目を向ける。

 息を大きく吸う。息苦しさは感じない。日の光が道を示してくれる。柔らかな風が背中を押してくれる。さび付いたと思った足はようやく前に進んだ。

 一歩、一歩と。その時間はとてつもなく長く感じた。


 その額縁にはめ込まれた窓は小さい。それでも、おそろしく感じていた。

 大丈夫。だいじょうぶ。そんな根拠のない励ましをしながら、ようやく目の前までたどり着いた。なんだか、久しぶりな気がする。

 見つめたとき、同じように見つめ返してくるそいつを、今日はじっと見ることができた。

 ああ、なんてことない。そこになにもいないわけじゃない。でも、そこに顔を出したのは怪物でも他の誰でもない。

 ぐちゃぐちゃになって、ごみのように潰れそうになっていたそいつに。

 笑いかける。

 これが、私なんだ。


「今日のおまえは最高だ!」


 風が窓からたくさん風が入り込んだのか、机の上の小物が軽快な音を立てて転がり、紙束が床に散らばる。

 本当に勝手なことをするそれに向けて、振り返っては小さく息をついた。


昨夜、病み上がりのまま外を散歩した時に思いついては深夜に書き上げました。体もいつも以上に気怠く、ぼーっとする頭のままで書いたので支離滅裂かもわかりませんが、ある意味雑念がない状態で思いつくままに書いたような気がします。

今日をもって人生の1/4を迎えましたが(本当はそれ以上の年数を生きていくつもりですが)、人生まだまだこれからですので、いろんなことあきらめず頑張っていきたいと思います。

今後とも何卒、よろしくお願いいたします。

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