新たな生活の始まり
ルナが水の入ったコップをテーブルに置いた。
ニンはすかさずそれをつかみ、一気にあおる。
騒がしくなったリビングが気になったのか、マニシアが部屋から顔だけを出していた。かわいい。
「……兄さん、そちらの方は?」
「向こうでパーティーを組んでいたヒーラーのニンだ。俺もよく助けてもらっていたんだ」
「外で、聖女がどうたら騒いでいますが、その件は?」
「ニンは、教会の聖女だ。俺が所属していたのは勇者率いるパーティーだったからな。そこで一緒だったんだよ」
「……勇者の。兄さん、そんなところで仕事をしていたんですね」
そういえば、俺のことを話したことはなかったな。
外の話をして、マニシアに興味を持たせるのは意地悪だと思っていたからだ。
「ただ、色々あってそのパーティーとは解約したんだ」
「……そう、ですか。あたしは奥で休んでいます。聖女様、ゆっくりしていってください」
マニシアはニンにだけは柔らかな笑顔を向けた。
お兄ちゃんにもそれを向けてくれ。ニンとの間に割り込みたくなった。
「私も付き添いますね」
ルナとマニシアが部屋に入っていく。
「あっちのマニシアって子が妹さん? もう一人は……まさかあんたの奥さん、とかじゃないでしょうね」
怒っているような悲しんでいるような、そんな顔だ。
「あいつはルナ、ホムンクルスだ。マニシアの面倒を見てもらっている」
「……確かに、体調悪そうだったわね。生まれつき、なんだっけ?」
「まあな。それはもう仕方ない。……それは今はいい。どうしてここにきたんだ? 町じゃあ、聖女様が来ただなんて大騒ぎみたいだぞ」
耳を澄ませば、外の騒ぎがよく聞こえる。
というか、ニンが話題になるほどの有名人だったとは、知らなかったな。
しかし、どうやらその問いは地雷だったようだ。
ニンの表情が一層険しくなる。
「勇者のことよ!」
「……そうか」
少し、予想はしていた。
彼女がここにいるのは、教会から許しが出たからだ。
俺はニンの腕をちらと見る。
骨折だろうか。首からだらりと布がさがり、左腕には添え木がついている。
「あんたがいなくなってからのこと、全部教えてあげるわ」
「……いや別に話さなくても」
「いーや、聞きなさい!」
強引なのは相変わらずか。
「わかったよ。どうしたんだ?」
「あんたがいなくなってすぐに、あたしたちは高難易度と言われる迷宮の攻略を始めたわ」
なぜキグラスが勇者と呼ばれているのか。
勇者の称号は、迷宮を踏破するものに与えられる。
世界に迷宮が初めて出現したとき、臆せずそれを攻略した者に『勇者』という称号が与えられた。
以来、高難易度迷宮を攻略し続ける者を、勇者と呼ぶようになった。
だからキグラスは勇者だ。ちなみに、過去のその『勇者』がアタッカー、ヒーラー、タンクというような役割を決めた。
「まあ、あたしが事前に、失敗したら抜ける、って言っていたからいつもよりは難易度を落としてたみたいだけどね。あいつ、軟弱よ、軟弱」
「そうか……それで結果は失敗だったのか?」
「ええ、そうよ。その迷宮の三十階層でやられたわ」
俺も話をきいただけだから、魔物がどのようにして攻撃を決めているかは知らない。
「勇者の奴は攻撃をかわせばいいだなんだ言って、結局全然かわせてなかったし、そういうダメージが積もるし……とにかくヒーラー一人じゃ回復しきれなかったわ」
疲れたように、彼女は肩をすくめた。
「全員、無事だったのか?」
「ぎりぎりね。あたしは骨折程度で済んでいるけど、他のメンバーはもっとぼろぼろ。前線で無茶な戦いをしていたキグラスは全治三か月。他のメンバーも元気なのは、リリアくらいかしら?」
「……そりゃあ災難だったな」
外皮を失い、生身の肉体を怪我した場合、治療には時間がかかる。
もちろん、秘薬やエリクサーを使えば治せるが、何かしらの傷が残ってしまうことが多い。
「あたしはいいのよ。久しぶりに休暇ももらえたしね。それで、今回の攻略で色々と今までがおかしかったことに気付いたわ。……ねぇ、いままでキグラスや他の仲間が一度も攻撃を食らわなかったのって、よく考えたらおかしいことなんじゃないの?」
「……そうだな」
そのことか。
俺もルナのおかげで、自分のスキルの効果を知ることができた。
「あたしはこう考えたのよ。キグラスは今までにも攻撃を食らっていたわ。けど、ダメージを受けたことがなかったわ。だって、あたしが回復させたのはルードだけだもんね。あんたのスキルが関係しているんじゃない?」
「みたいだな。俺も最近ようやく自分のスキルの効果を知ることができたんだ」
「そうなの? ちょっと、教えてくれない?」
俺は、先日知った自分のスキルについて解説する。
ニンの表情はめまぐるしく変わり、俺が説明を終えたときには、難しい顔になっていた。
おかしいな。
驚いてもらえると思っていたんだが……。
「あんたそれじゃあ、今までパーティーメンバーが受けていたダメージ全部抱えていたってこと……?」
「まあ、そうなるな」
痛みには耐性があるほうだと思う。
タンクとして、俺は痛みになれるための訓練を行ってきた。
俺は外皮を削られた状態で、ひたすら訓練を積んできた。
今更、外皮に受ける痛みなど気にもならない。
ニンはそれが一番気になるようだった。
「……ごめんね、今まで気づかなくって」
「い、いや……それは別に。俺だってわかってなかったんだからな」
「あたしが食らった攻撃だって、全部あんたが受けて――だから、この前キグラスたちと攻略したときはまったくうまくいかなかったのね」
「……そうか」
もう一年近くキグラスたちとは組んでいた。
今までの感覚で戦っていたら、色々くるってしまうだろう。
それだけは、悪いことをしてしまったかもしれない。
「それでね。キグラスは今回の失敗で彼の実力に対して少し疑問視されているところよ。だって、そこの迷宮って最高到達が四十階層だったのよ?」
「……そりゃあ、また」
キグラスたちの攻略は三十階層まで。
となれば、勇者? と首を傾げられても仕方ない。
しかし、ニンはここにきて初めて嬉しそうな表情を浮かべた。
少し意地悪、だろうけどな。
「ルードは評価されなくていいの? 今回と前回、何が違うって考えたらルードの存在よ。キグラスは認めてなかったけど」
「俺は別に構わない。下手に目立つと、自由に動けなくなる。マニシアもいるからな」
ニンを見ていて、つくづくそう思う。
ニンやキグラスのように、地位のあるものにはそれだけ責任や義務がのしかかる。
今のようにマニシアのもとに戻ってこられなくなるかもしれない。
それは嫌だ。マニシアの顔が見れないなら死ぬ。
「……まあ、確かにあんたってそういう奴よね」
「まあな。俺はマニシアの体を治すためだけに、迷宮の攻略をしているんだからな。どこかしらのパーティーに所属できればそれでいい」
「……伝説の魔本探し、だったっけ?」
「ああ」
どこかの迷宮の最奥にあるという、どんな病も治す魔法が封印された魔本。
……おとぎ話のようなものだ。
だが、それでもなんでも、マニシアを治せる可能性があるなら、挑戦しない理由はない。
「ニンはいつ頃戻るんだ?」
「怪我が治るまでは。治ってからも、しばらくは休んでていいって言われてるし、ここに住み着こうかしら?」
「この町にか? あまり宿はないし、偶然にも冒険者が滞在しているからとれないかもしれないぞ」
「そうなの? それじゃあ、この家でお世話になってもいい?」
「……あとは俺の部屋しかないんだが、まあ、俺はどこか別の家で世話になればいいか」
「別にいいわよ。その……あんたの部屋で二人、でもね」
そういう顔はやめてくれ。
男というのは惚れやすいのだ。可愛らしい表情を見せられたらすぐコロリ。
俺はマニシアの笑顔を浮かべ、懸命に耐えた。
「俺とおまえの性別は男と女だ。年頃の女性がそういうことを言うものじゃないぞ。いくら俺が相手だからってな」
「あんただから言ってんのよ」
「そんなに信用してくれるのはありがたいがな……」
「そういうのじゃないのよねー。ここに、会いに来た理由とか、考えてみなさいよ」
「会いに来るって言っていたじゃないか。友の家に行くのに、それ以上の理由があるのか?」
意識してはいけない。
俺は、弱い人間だ。そこにある安寧をつかめば、きっとそれに甘んじてしまう。
鈍感に生きるんだ。
「ちょっと会わなくてもあんたってなにも変わらないわね」
「おまえだって、骨折した以外変化はないだろう」
まさか胸が大きくなったわけでもあるまい。
『聖女様は可愛いけど、前任者に比べて胸がない』。
それが、市民の間ではよく言われている。
俺は一度息を吐き、立ち上がる。マニシアの部屋とは逆側の扉をあける。
「ここが俺の部屋だ。別に自由に使ってくれて構わないからな」
「……殺風景ね。何か趣味とかないの?」
「ないな。しいて言うなら、盾磨きくらいだ」
あとはマニシアの似顔絵を描くくらいか。
おかげで、マニシアだけは上手にかける。
……タンスに似顔絵がしまってあったな。あとで隠しておかないと。
「そりゃあまた。かといって、盾のコレクションをしているわけでもないのね。けど、あんたの部屋って感じ。落ち着く匂いだわ」
「……臭うか? 換気しておいてくれ」
「ああ、そういう意味じゃないわよ」
ニンは改めて笑みを浮かべた後、片手を振った。
「それじゃあ、改めて。よろしくね!」
「ああ、よろしく」
これから、こいつと一緒に暮らしていくのか。
……ちょっとまて。結構まずいんじゃないかこれって。
相手は聖女で、公爵家の娘――何かあったら消されるぞ俺。
これからの生活を思い浮かべる。
……家に帰ってきたときに彼女がいるというのは、まあ悪い気はしない。
いやいや。妹だっているんだ。
ダンダンダン! と殴りつけるように玄関を叩かれた。
「な、なにどうしたの!?」
「……わからない。ただ、こういうときは、何か良くないことが起きたときだ」
急いで向かうと、フィールがいた。
慌てた様子の彼女が俺の腕をつかんでくる。
「ち、近くに見たこともない魔物が出現したんだ! いま自警団で戦っているのだが、とても手に負える相手じゃない!」
「了解。すぐに向かう」
「あたしも行くわよ」
「聖女様!? なぜここに!?」
「おまえは腕を怪我しているだろう」
「ど、どうなっているのだ、ルード。なぜ聖女様がこちらに……?」
「大丈夫よ。どうせ後衛で魔法を撃つくらいだし」
「そう、だな。頼む、手を貸してくれ。必ず守る。ルナ、おまえも来られるか!?」
「はい。すぐに向かいます」
「き、聞いているのか? ええい、後で説明はしてくれよ……っ。とにかく、こっちだ!」
ルナを呼ぶと、ニンは首を傾げた。ホムンクルスが戦えないことを、ニンは知っている。
彼女は信頼できる。事情は道中で説明しよう。