神である
吾輩は神である。信者はまだいない。
どうして生まれたのかはわからない。ただ、過去のあらゆること。これから起こりゆく流れの全てを記憶している。吾輩はその記憶の中に人間というものをみた。彼らは日常の現実への逸脱、責任の転嫁、持論推薦の捏造を目的として神を崇めるのだ。神は全知全能たるものであり、それゆえに優れた生き物である人間を救い導いてくれるという話である。大した傲慢だが、それ以外の感想は浮かんでこなかった。どちらにしろ彼らの信仰する神は吾輩ではないのである。このことが吾輩が自身を神と考えるに至った経緯であり、信者がいないという本質でもある。神は信じられるがゆえにあり、あるがゆえに信じられる。彼らのいうところによれば、神は全知全能であり、世界を作り上げたのだという。吾輩には自身の手で何かを作り上げた記憶などない。ただ、始まりと終わり、そしてその間のあらゆる空間に働いている支配法則とそれによる相互作用の全ての過程を知る。その意味で吾輩は全知である。また、吾輩は自身に時空間を支配する法則を書き換える力を備えていることをも知る。この意味で全能である。
神は全知全能たる。とすれば吾輩は神であろうというのだ。ただ、世界を作ることはしないし、彼らを導いた覚えもない。そもそもが全く別の事柄であるのに、神を定義するに一緒くたにされたことで、吾輩は信ずるものをいただけなかった。彼らは全知全能たる吾輩にではなく、自ら作り上げた虚像を崇拝し、敬愛した。
吾輩はその事実に困惑する。全ては定められた規則にしたがって流れ、広がり、閉じていく。その広がりと収束の狭間にある一瞬のきらめきとして、非常に低次に縮退した時空間上のごく片隅に生じた彼らが、あまりに矛盾だらけなのは、非常に不可思議であった。彼ら人間はあらゆるものがそうであるように、時空間を支配する法則の影響を受け、それに従って構成された連綿なる集合体として秩序だった存在である。にも関わらず、その行動には多くの不合理、自己矛盾を抱えていた。そして、彼らはその自己矛盾と常に向き合い、疲弊し、鍛えられ、繁栄し、破滅した。
しかし、彼らの誰かがいった「神は全知全能であるからして、存在しないはずがない。存在していないものが知能を持つはずがないからである。ゆえに全知全能の存在は必要十分である」という言葉は彼らの生存する時空間領域の外に置いてもなお存在し続けている。
もしかしたら、その言葉に従って吾輩は生まれ、そのためだけに存在するかもしれない。
果たしてそれでも吾輩は全知全能の神たりえるだろうか。