風に吹かれて
およそ一週間ぶりの仕事を終えた俺はすっかり疲れきっていて、真っ暗なベッドで、まるで死んだように眠りについた。
気がつくと俺は真っ白な部屋の真ん中に立っていた。その部屋には何もなくて、ただただ冷たい風が流れているだけだ。ひやりと気持ちのよい風じゃなくて、そくりとかすかに背筋が粟立つような不快な風。
俺は直感的に、これは夢だと思った。なぜかはわからない。その場所を知らなかったから、気づいたらそこにいたから、真っ白な空間があまりにも異質だったから、まるで冥界にでも流れているかのような風が吹いていたから。あるいは、それらのどれでもない理由かもしれない。理由を後づけするにはあまりにも簡単なことだったけれど、その瞬間、俺はとにかく直感的に、ここは夢なんだと思った。
「やけに寒いな。」
風はいつの間にかやんでいたが、それがかえってその空間の寒さを際立たせていた。真夏の地下駐車場のような冷たさが体を包む。
「はーい、こんにちはっ。」
突然、いかにも軽そうな若い声が部屋に響いた。驚いてその声を振り向く。そこに立っていたのは中学生くらいの女の子だった。もしかすると、自分より三回りも年が違うかもしれない。
「こんにちは、私イチといいまーす。いっちゃんって呼んでね。」
語尾にハートマークでもつきそうな勢いで、少女はそう言った。
「いっ、ちゃん……。」
少女のパワーに押され、思わず名前を口にしていた。しかし正直、自分とかなり年の離れた女の子をあだ名で呼ぶのにはかなり抵抗がある。
「そう、いっちゃん。おじさんよくできました、ぱふぱふー。」
ぱふぱふって今の若い子も使うのか、と、かつて慣れ親しんだ擬音語に少なからず驚く。少女は畳みかけるように椅子を勧めてくる。椅子があると素早く座ってしまうのは社会人の悲しき定めか、なんて思いながら、ちょうど脚も疲れていたので硬いプラスチックに腰を下ろした。
「君は、ここがどこだか知っているのか。」
素直に浮かんだ疑問を投げかけてから、ここは夢だと先ほど気づいたことを思い出す。
「んー、ここはおじさんの夢の中だよ。」
やっぱり夢なのか、とどこか安心している自分がいた。同時に、部屋の薄気味悪い風がやんでいることに気づく。
「おじさん、なにか悩みがあるんでしょう。イチが聞いてあげます。」
イチは、ふん、とちょっと大人ぶって眼鏡を上げる仕草をし、へへっと照れたように笑った。悩み、イチの言葉を口の中でつぶやいてみる。正直、彼女のこと以外、これといった悩みなんて思いつかなかった。
「うーん、気持ちはありがたいが、そんな大層な悩みなんてないんだよ。ありがとうね。」
そう笑って見せると、イチはあからさまに不満そうな顔を見せた。
「うそ。イチ知ってるよ、おじさんのことなら何でも。」
何でも、という一言に、ぞわりと鳥肌が立った。ほら、おじさん心当たりがあるんじゃない、とイチが無邪気に意地悪く笑う。何も答えられない。
「あるところに、とっても人のいい男の人と、とっても過保護な女の人がいました。」
突然イチが歌うように語りだした。
ある朝、男性は女性を電車の中で見かけます。彼はそれから毎日のように、彼女を見ることを楽しみとしていました。そうして彼女がハンカチを落とした日、彼はチャンスとばかりにそれを届け、女性と話しました。ありがとう、と笑う彼女は、この世で最も清らかなものに、彼の目には映りました。女性が、お礼にと男性をお茶に誘います。男性は、これは行かないわけがありません。女性とお茶を飲んだ時、頬を赤らめたり花のように笑う彼女を見て、彼は、これはいける、と思い、告白しました。これが全ての始まりだったのです。
イチの声は自分が嫌いなほど軽薄なもので、内容だってひどく不快なものだった。それなのになぜだか、イチの声はするりと心地よく耳に入ってきた。止めなければ、と思いつつ、俺はどうしても口を開けずにいた。
彼女はさも嬉しそうにうなずきました。私もあなたのことが前から気になっていたんです、と。彼らは幸せな毎日を過ごしました。何でもやってあげるわ、何でも言ってね。そう事あるごとに言う彼女は、周りからすれば大変かいがいしいものでした。そんなある日、彼は彼女が見たいと言っていた映画のチケットを手に入れます。その帰り道、彼は彼女が他の男と歩いているところを目撃するのです。どういうことだ、と彼は家に帰るなり彼女を問い詰めました。
「あーあ、ばれちゃったか。」
突然、低く耳障りの悪い声が響いた。動いたのは確かにイチの唇だったのに、聞こえたのは老人のしゃがれたような声だった。
体中の汗がさっと引いた。手が細かに震えるのが感じ取れる。どう、とイチが得意げに笑っていた。思わず椅子から立ち上がる。
「どうして……。」
もう二十年近く前のことなのに、誰にも話したことはないのに、どうしてイチがそのことを知っているのか。
「言ったでしょ、おじさんのことならなんでも知ってるよ、って。」
目の前で目を三日月形にしている少女が不意に恐ろしくなる。くもの巣に捕らわれた蝶のような気持ちになった。
「別に、イチはおじさんを傷つけたいわけじゃないの。むしろその逆。おじさんを勇気づけようと思ってこの夢を見せているんだよ。」
一週間前、姉が死んだ。自宅で突然倒れ、救急車が来る頃にはもう息はなかった。あまりにもあっけない死だった。
明るくて公平で、みんなの人気者で、昔から俺は姉のことが好きだった。他人とうまく関われない俺にとって、姉は外と俺の架け橋みたいな存在だったのだ。父さんも母さんもまだ元気なのに、姉だけが一人先に逝ってしまった。旦那と子どもが葬儀のとき涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたのが、くっきりと眼裏に焼きついている。
そんな彼らを見て、不意に彼女のことを思い出し、自分が死ぬときにはこうして泣いてくれる人もいないのだろうと、暗い考えに囚われたのだった。
「おじさん、泣かないでよ。」
イチが不意に慌て始めた。
泣くななんて、俺は泣いてなんか……。
熱い顔に手をやると、指先が濡れた。
「……え。」
一度涙が出てしまえば、後はただ時間に任せるしかなかった。自分で涙を止める術を俺は知らない。
「くそっ、止まれよ、止まれよっ。」
他人の前で涙を流すことも、周りに自分の死を悼んでくれる人がいないことも、全てがみじめに思えた。
「止まれよ……。」
みっともない。
自分で自分自身を抑えられない。
どうして良いか分からぬまま、ただ涙を流し続けた。ふっと落ち着いたときにもれる嗚咽がこの上なく苦しく、その苦しさにまた涙が出る。
「大丈夫。」
イチの手が背中に触れる。ワイシャツから肌へ伝わる人の熱が心地よい。
「吐いて……、吸って……。」
イチの声にあわせて深呼吸すると、だんだん呼吸が落ち着いていく。涙の熱さを思い出すほど泣いたのは久しぶりのことだった。荒い呼吸が和らいでからも背中をさすり続けてくれるその手には覚えがあった。
いや、そんなわけがない。
ここが夢の中ならば、と思っても、すでに二十年も前のこと。今さら彼女と夢の中で会う理由なんて俺にはない。
「私に会いたくなかったの。」
一香が言った。別れる前となんら変わらない声。
「一香?」
驚きに目を見開く。辺りを見回しても、目に映るのはまぶしいほどの白さと、イチの色だけだった。ここにいない者を見ようとするかのように、目の前の少女に焦点が合わない。度の合わない強い眼鏡をかけたように頭が痛んだ。ぺたんとその場にしゃがみこむ。
「一香、一香……。」
指先の見えない手を必死に伸ばす。声を出さなければ何かに押しつぶされてしまいそうで、またひとりになってしまいそうで、必死に、一香、と何度も何度も呼んだ。
「私はここにいるよ。」
ふわりと抱きしめられた。小さくて、やわらかくて、強く握ればこなごなになってしまいそうな腕。やっと、目の前の少女に焦点が合った。
「い、ち……。」
「うん。お久しぶり、彰浩さん。」
えへへ、と彼女が笑う。彰浩さん、と呼ぶのなんて彼女くらいしかいなかったのに。目の前のイチはひどく大人びたほほえみを浮かべていた。寂しさや愛しさなんかをたっぷり含ませた、大人の女にしかできな表情。
「どうして、今さら……。」
震える声で一香に問いかける。
「ごめんなさい。私、あなたにずっと謝りたかったの。あんな別れ方をしたこと。」
一香が頭を下げた。別れる以前、彼女は謝るときよく、こんな風に頭を下げていたな、なんて思った。しかし、そこに含まれる意味が当時あったのかと思ってしまうほど、彼女は今、真剣に頭を下げていた。
「ごめんなさい。」
顔を上げてそう言ったきり一香はなにも言わず、ただ黙っていた。
「俺は、一香のこと信じていたよ。本当に大好きだったし、必要な存在だった。今でもそれは変わっていない。」
なんと言っていいかわからず、つい口から出た言葉だった。
「必要だなんて、軽々しく言わないで。あなたは一人でも生きていけるもの。」
ねえお願い、期待なんかさせないで。そう一香はつぶやいた。言葉がゆるりと空気中へ溶けていく。
「どうしてあのとき、向こうを選んだの。」
ずっと尋ねてみたかったことだった。別れた後は考えないようにしていたことだったけれど、目の前に一香がいるのなら聞いてみたい。
「だって彼、私のことを必要だって言ってくれたから。」
あなた、何でも一人でできちゃうんだもの、私ずっと寂しかったのよ、一香はふっと息を吐いた。
「それだけのこと……。」
思えば、一香に負担をかけたくなくて、ちゃんと自炊していた。部屋の掃除も毎日していた。服もきちんとして、風邪で寝込んでも自分でなんとかして。一香の言う「必要」とは、そんな小さなことの集まりだったのかもしれない。頼ることが苦手で、一香にさえ頼れなかったのだ。
「きっと、誰も悪くないのよ。パズルのピースが一箇所ゆがんでいた。たぶんそれくらいのものよ。」
誰も悪くない、一香のその言葉だけで胸の仕えが取れた気がした。
「俺のこと、どう思っていたの。」
できることなら、俺の望む答えを。
「最初は、愛なんかじゃなく、ただの庇護欲だったわ。」
群れからはぐれた狼みたいな目をしたあなたに必要とされてみたかったの。水に絵の具を落としていくように、一香はぽとぽとと言葉を落としていく。
「信じなくてもいいわ。でも、あの後あなたと別れて本当に後悔したの。私が思っていた以上に私、彰浩さんのこと大切に思っていたのよ。」
聞きたくなかった、一香が自分のことを愛していたなんて。尋ねなければよかった。
「俺も、一香のこと愛していたよ。」
ずっと愛していた。ずっと忘れられずにいた。一香には、同じ気持ちを味わわず、幸せでいてほしかった。
そう、嬉しいわ、と彼女は静かに、淡白に、満足げに目を細めた。
「でも、それも今日で終わり。お互いにね。」
目を細めたまま彼女が言った。一香の言葉を少しだけ理解できなかった。
「そろそろ空想の私なんかに甘えないで、一人立ちしてよね。」
ふん、とちょっと上から目線でものを言う一香は、イチの姿も相まって、まるで本当の中学生のようだった。そんな姿になぜだか安心する。目を合わせて、二人でくすっと小さく吹き出した。あはは、と初めて二人で含みなく笑った。もうそこに愛なんてものは存在していなかった。
愛やら利用やら、そんなものは自分たちの間にはない。心地よさや安心感さえあれば、人が一緒にいる理由なんて十分だったのかもしれない。
元気になれたでしょ、と一香が小さく首を傾ける。昔と変わらない仕草に、どこかほっとした自分がいた。
「うん。ありがとう、一香。さよなら。」
「ええ、さようなら。」
さあっと風が吹き、彼女の髪がやわらかな風になびいた。
夢から覚めたとき、俺はとても満たされたような気持ちだった。昔、好きだった本に挟んだ映画のペアチケットを引き出す。ずっとページに挟まれたままだったチケットは、今だ新品同然の状態を保っていた。
一週間、開くことのなかったカーテンを滑らせる。太陽の光を受け、部屋の中のほこりが光る。大きく窓を開け放した。さっと初夏の風が吹き込んでくる。さわやかな、しかし夏の暑さを確かに伝えてくるような、そんな風だった。手からチケットがすり抜けていく。あっという間もなく、チケットは風に吹かれてひらりと見えなくなった。
トーストを音を立てて食べていると、小さく鳥の鳴き声が聞こえてきた。耳に心地よいそのさえずりは、静寂の中にいればこそ聞こえる音だった。静かなリビングに一人いるのも、そんなに悪くないのかもしれない。サクリとパンを噛む音が、温かく部屋に響いた。