13
昨晩、延々由紀とウサウサしていた憂晴にとって、それは衝撃的だった。
外である。
幼馴染みと、飼っている兎に見られているのである。
今キスしている女の子は、かつて好きだったものの、今は恋愛感情を抱いていないクラスメイトである。
何よりも、守永由紀にとってこのキスはファーストキスである。
もう、何が何やら分からなかった。
「あ、あ……」
かすれた声を発してその光景を見ていた透心は、守永由紀の行為を止めようとでも思ったのか、上半身を乗り出して穴から這い出ていた。
そっと、守永由紀が唇を離す。
その顔は真っ赤だったが、それでも彼女は誰にも聞こえないような小さい声で、「ごめんね」と口ずさんだ。
我に返った憂晴は、即座に最優先事項を再設定し、迷いなくカーテンで隠れているリビングに視線を移した。
床近くに這いつくばってこちらの様子を窺っていた由紀。
その姿は、変わらなかった。
憂晴と守永由紀のキスは確認していたのか、自分の体に変化が起きていないことに焦っているようだった。
(くそ……やっぱり、すぐに効果は現れないか。でもここまでして駄目だったじゃすまされないぞ。守永さんだけじゃない、透心のことまで巻き込んだんだ。それも最悪の形で)
憂晴は守永由紀のファーストキスを奪った。
奪ったというニュアンスは間違っているかもしれないが、この状況を作った根本的な原因は憂晴にある。
おまけに、透心の心を強引にさらけ出してしまった。
状況が複雑になりすぎたのだ。
これでもう、時間を掛けて守永由紀と仲良くなる、なんて悠長なことは言っていられなくなった。
(ミアは俺が抱き締めて撫でてあげただけで元の姿に戻れた。根本的な原因を取り除くっていう方法自体は間違ってないはずなんだ。初恋の相手の手作り弁当に舌鼓を打って、初恋の相手とデートをして、初恋の相手の下着を目に焼き付けて、初恋の相手とキスまでした。キスすらも『過程』とするなら、『過程』はもう充分揃ってる。後は『結果』だ)
ここまで『過程』が揃っていれば、もう一度告白すればイエスであれノーであれ由紀は元の姿に戻れるはず。
そう、告白すれば良い。
この状況でそれができるのなら。
(どう考えてもそんな空気じゃない……!!)
透心に顔を向けている守永由紀に視線を移す。
この場をかき乱しているのは彼女だ。
彼女の行動次第で憂晴の取るべき行動も変わってくる。
タイミングを見誤らないようにしなければ。
「トコちゃん。これでもまだ関係ないなんて言えるの?」
「……」
「自分の心に正直になってよ。トコちゃんは今、何を思ってるの? 何を感じてるの? 何が言いたいの? 何がしたいの!?」
少しずつ守永由紀の語気が強くなる。
ようやく憂晴にも彼女の真意が理解できた。
守永由紀は、透心を放っておくことができない。
素直になれず、いつまで経っても前に進もうとしない友達を奮い立たせるために、ファーストキスを捨ててまで体を張った。
彼女もまた、憂晴の妹の事情を利用していたのだ。
「わ、たし、は」
「頑張って! 絞り出して!」
「ママ、ファイトにゃーのよ!!」
「う、うぐぐ……!!」
いつの間にか、出産間近の妊婦と助産婦さんみたいな流れになっているが、憂晴は心穏やかではいられない。
由紀の問題が全く解決していない中で幼馴染みに想いをぶつけられて、平静を保っていられる自信はなかった。
ところで、穴の中から別の声が聞こえたのは気のせいだろうか。
「トコちゃん!!」
「ママ!!」
「分かってる! 私は、憂晴のことが好き!! これで満足でしょう!?」
透心が涙目で訴えかけた相手は、守永由紀ではなく何故か憂晴だった。
「いや、俺が強制したみたいに言われても……」
「良かった。これでトコちゃんも前に進めるね」
ホッと安堵する守永由紀を見て、憂晴は今が好機だと感じた。
透心に告白された直後に守永由紀に告白する。
一見残酷に聞こえるが、これは透心に対する返事になるし、守永由紀に対しても本気だとアピールできる。
そこまですれば、憂晴が求めていた『結果』が必ず得られる。
ところが、一転して風向きが変わった。
「そうね。じゃあ、次は守永さんの番」
「……えっ?」
「へ?」
「私の知ってる守永さんは、例えどんな理由があっても好きな人以外とキスなんてしない。私のため? ……違うでしょう。答えて。私にここまでさせたんだから、中途半端は許さない」
「っ」
今度は守永由紀が怯む番だった。
本音をさらけ出した透心は、もはや怖いものなど何もないといった様子でふんぞり返っており、完全に形勢が逆転している。
「お、おい、今更何言ってるんだ。俺、守永さんにはふられてるんだぞ。透心だって傍にいて見てただろ? あのときの電話で」
「それは一週間以上前の話」
告白した勢いそのままに透心は憂晴の言葉を寸断し、
「お弁当を作ってあげたり、デートしたり、毎日学校で話したり。短い間に色んなことがあった。気持ちに変化があってもおかしくない」
「それは……」
意図していた訳ではないにせよ、たった一週間で二人は急接近した。
距離が縮まったと感じていたのは憂晴も同じだ。
「……分かった。移戯君、聞いて」
再びこちらを向き、憂晴の手を取って見つめてくる守永由紀。
「は、はい」
「本当は私ね。小学校の頃に声を掛けられてから、何度も謝ろうとして思い出してる内に、ちょっと気になり始めてたんだ」
「え? で、でも電話で告白したときは」
「あれはだって、小学校の頃の気持ちになってっていう注文があったから。そこまでハッキリとした恋心じゃなかったし。けど……今は違うよ」
守永由紀の手に込める力が一層強くなる。
その間、全く目を逸らそうとしないので、完全に憂晴は押し負けている格好だ。
「窓は閉まってるし、妹さんには聞こえてないよね?」
「た、多分」
「なら……」
コホン、と咳払いをしてつま先立ちになった守永由紀は、憂晴の耳元で囁いた。
「私、移戯君のこと好きになっちゃった」
「―――」
破壊力が違った。
耳元で囁くという告白方法が、憂晴の脳を激しく揺さぶった。
タイミングだけを見計らっていた憂晴とはレベルの違う告白だった。
これでは、例えノーだったとしても強制的にイエスと答えてしまいそうだ。
「はいっ。トコちゃん、これで良いでしょ!」
「満足。お互い、これからは素直に」
「ミアも憂晴様大好き~!!」
実の主人が丸く収めようとした矢先、軽快な声と共に割って入った者がいた。
透心と一緒に穴に潜んでいたであろう、ミア(人型)だ。
ミアは二人のことなど意に介さず、憂晴に思い切り抱きついてくる。
「え? ……えぇ!? だ、誰? トコちゃん、この子誰なの!」
「え、えっと、ペッ――じゃなくて、友、達で……っ。ちょっとミア、何のつもり!?」
「だって、やっとママが素直ににゃって憂晴様に気持ちを伝えられたーのよ。これでミアは遠慮する必要がにゃくにゃったーのよ!」
「あ、あなたはネコ」
「関係にゃーのよ~。ね、憂晴様?」
これ以上この場をかき乱さないでほしかったが、これだけは聞かなければならない。
「……動物的な愛情じゃなくて、人として好きって言ってるのか?」
「うんっ」
「マジで!?」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……」
喉を鳴らして体を擦りつけてくるミア。
憂晴はミアが猫であることを知っているので、いくら人間の姿になっていても子供がじゃれているようにしか見えない。
見えないが、ついさっき憂晴に告白したばかりの守永由紀の目にはそうは映らなかったようで。
「う、移戯君? その子中学生か……下手したら小学生くらいだよね。な、何で鼻の下伸ばしてるの? ろ、ロリ」
「違うって! というか、ミアと透心って見た目大して変わらないじゃん!」
「き、聞き捨てならないんだけど……?」
「い、いや違」
「憂晴様~」
「移戯君……」
「憂晴」
「……、」
二人と一匹に徐々に追い詰められ、ついに憂晴は庭の端っこまで後ずさった。
状況は理解している。
理解できているはずだ。
幼馴染みに面と向かって告白され、その友達である守永由紀にまで告白され、透心の飼い猫のミアにまで告白された。
そして今、憂晴は三人の乙女によって作り出された修羅場という空間にいる。
特に、告白しようと思っていた初恋の人に逆に告白されるという信じがたい展開は、未だに憂晴を混乱させていた。
(というか……あれ? この場合、『結果』はどうなるんだ?)
憂晴がそう思った瞬間だった。
ボン!! と何処かで音がした。
状況が状況なだけに、一瞬何が起こったのか分からなかった。
それでも、最初に気付いたのはやはり憂晴だった。
カーテンで仕切られているリビングの窓を見る。
床近辺でこちらの様子を窺っていた、由紀。
その姿が、何処にも見当たらなかった。




