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「移戯君、そろそろ起きて?」
「……ん」
「お、おはよ~」
「おはよう……」
声に反応して目を覚まし、机に突っ伏していた顔を上げる。
変な姿勢のまま寝ていたせいか体の節々が痛い。
「良かった起きてくれ――た!?」
「? どうかした?」
「そ、そのほっぺたどうしたの?」
「やっぱり腫れてる?」
「うん。喧嘩した後みたい」
「鏡、見ないようにして正解だったかも」
渾身のウサパンチを左頬に受けた憂晴は、気にせずにそのまま登校した。そして学校に着くなり爆睡していたのだ。
「あれ……今、何時間目?」
「もう下校の時間だよ」
「え」
教室にある時計を確認すると、時計の針は確かに下校時間を示していた。
帰りのホームルームはおろか、部活動の時間すら過ぎている。
教室に残っているのも憂晴と守永由紀の二人だけだった。
「ご、ごめん! 待たせちゃったのか」
「仕方ないよ。移戯君、凄く眠そうだったもん。ほとんどの先生が『良い度胸だ』って言ってたけど」
「そ、そんなことよりこの後のことを!」
思わず身を乗り出す。
段々と意識がハッキリしてきて、重要なことを思い出した。
憂晴は、未だ作戦について守永由紀と話していないのだ。
「帰りながら話そっか」
「本当、ごめん……」
「気にしない気にしない」
守永由紀の優しさに感謝しつつ、一度も開けることがなかった鞄を手にして二人は校舎を後にした。
帰りながら話す、と言っていたので彼女の方から口火を切ると思っていたのだが、通学路を半分ほど歩いても二人の間に会話はない。
(やっぱり変に思われてるのかもな。そういえば透心の奴はどうしたんだ? 由紀と一緒になって作戦考えたんだし、何処かでまた見てるんだろうか)
それとなく背後に視線を送ってみるが、特に怪しい人物は見当たらない。
もっとも、デート中の尾行を発見したのは由紀であって憂晴ではない。
憂晴がちょっと視線を巡らせた程度では見つけることは難しそうだ。
「どうかしたの?」
「あ、うん。透心はどうしたのかなって。こうなったのも、透心が『俺と守永さんが恋人同士』っていう嘘を吐いたからな訳だし。頼むだけ頼んで後はお任せってのは無責任だなぁ、と」
「そんなことないよ。トコちゃん、休み時間の度に移戯君が起きてるか見に来てたもん」
「そうだったのか……じゃあ、怒って帰っちゃったんだ?」
「きっと移戯君の家の近くにいるよ。もしかしたら妹さんと一緒に居るかも」
「え」
守永由紀の言葉を聞いて、憂晴はギョッとした。
(あれ? 妹(由紀)に恋人同士の振りを見せて、それでも妹が納得しないから次第に恋人同士の振りがエスカレートしていって、最終的にキスできたら良いな……って作戦だったよな。全部知ってる俺が『透心が来てるかも』と思うのは自然でも、守永さんがそう思うのはおかしくないか? ニュアンス的に、確信があって言ってるわけじゃなさそうだし)
透心が由紀と同じ煽り役なら、守永由紀には事前に話がいっているはず。
何かが噛み合っていない。
「ねぇ、移戯君。移戯君にとって、トコちゃんってどんな存在?」
「幼馴染みだけど」
「そうじゃなくて。女の子として」
「……何でそんなこと聞くの?」
「分かってる癖に」
唇をとがらせ、責めるような口調で守永由紀は言う。
守永由紀と憂晴が恋人同士の振りをすることによって、憂晴と透心の仲に亀裂が走るのではないか。
もしもそんな心配をしているのであれば、守永由紀は憂晴と透心がただならない関係だと疑っていることになる。
「うーん……俺の考えてる通りなら、守永さんが心配してるようなことは何もない、としか言えないかな」
「そっか。それが移戯君の気持ちなんだね」
「気持ちって、そんな大げさな」
「でも、トコちゃんの気持ちは……」
「透心の気持ち?」
「う、ううん、何でもない。それよりも恋人同士の振りのこと、どうしよっか」
急に話を変えられたが、憂晴にとってもこの展開は望ましいので応じる。
「それについては俺が決められることじゃないでしょ。守永さんにもギリギリのラインってものがあるだろうし」
「一応、精一杯頑張るつもりだけど?」
「アイツはそう簡単に信じないだろうから、リクエストに応えていく形になると思う」
「リクエストかぁ……例えばどんなことかな」
「それを俺に聞きますか!?」
「さ、最初に言ってもらった方が、こっちとしても受け入れやすいし」
「……、」
これは好機だ、と憂晴は思った。
ここで『妹が思う恋人同士の最低条件』をある程度提示しておけば、この後の本番が非常にやりやすくなる。
だが、いきなりキスなんて言葉は出せない。
ここは世間一般的な感覚をそれとなく守永由紀自身に思い浮かばせて、少しずつハードルを上げていく。
憂晴は歩きながらさりげなく前方に視線を送った。
遠くになだらかな坂道が見えている。
あそこを上って電信柱を三本通過すれば、そこはもう憂晴の家だ。
もはや一刻の猶予もない。
そう思うと、言葉を紡ぐのも早かった。
「まあその……普通の男女でもあり得るようなことじゃ駄目だろうね。一昨日のデートみたいに。男女二人だけで何処かに行くケースは、別に恋人同士に限ったことじゃないし」
「そっか。妹さん、あの場にいたのに信じてないってことだもんね」
「逆に守永さんはどんなときに思う? あの二人、恋人同士なんだな~って」
模範解答としては、『腕を組んで歩いている』とか『距離感』などが挙げられる。
はてさて、守永由紀の感覚はというと――
「二人で一緒に居るところを見たときかなぁ」
「緩っ! そ、それは何て言うか……恋愛脳過ぎない? 二人でいるだけで恋人同士なら、世の中はもっと幸せで溢れてると思うんだ」
まさか、こうして二人きりで下校してるだけで、恋人同士としてそれなりに説得力があるとでも思っているのだろうか。
「女の子は大抵そっち方面に話を持って行きたがらない?」
「で、でもさ。それが例えば……信じたくない、信じられない、有り得ないみたいな先入観があったとしたら? ぶっちゃけ、妹はそれくらいに思ってるよ。あのアニコンに彼女なんてできる訳ないって」
ちなみにこれは本物の妹が実際に思っていそうなことだ。
こうして自然に口に出すと嘘にも説得力が生まれる。
「アニコン?」
「妹曰く、アニマルコンプレックスの略らしい」
「あれ? 移戯君ってウサギ以外にペット飼ってるの?」
「それは今置いといて! 俺の質問に答えて! もう坂上ったら家だから!」
「わ、分かった。うーんと……流石にその場合は恋人同士とは思わないだろうね。少々過激な演技しないと難しいかも」
憂晴は心の中でガッツポーズをした。
これで守永由紀に、一筋縄ではいかないと認識させることができた。
後は由紀が少しずつ難易度を上げていけば、最終的にキスまで持っていける。
キスをすることに迷いはあるが、ここまで来て後には引けない。
坂道に差し掛かると、次第に緊張も増してくる。
今までは会話で誤魔化していたが、それも限界だ。
隣を歩いている守永由紀に視線を送ってみるも、その表情は硬い。
彼女もまた緊張しているようだった。
男の憂晴が日和るわけにはいかない。
持ち前の中途半端な男気を発揮して、ほんの少しだけ歩幅を広くする。
俯いていた顔を上げて、坂の終点へと思いを馳せる。
見上げた先には人影があった。
微妙に頭の上に二つの突起があって、見覚えのあるTシャツを一枚だけ羽織っているそのシルエットが、近付くにつれて鮮明になっていく。
由紀だ。
「ぬおおおおおおおおおおお!!」
守永由紀を尻目に、憂晴は全力で坂を駆け上がった。
そして以前と全く同じ格好の由紀の手を引いて、これまた全力で家の中に連れ帰る。ウサ耳もたたむ。
「お前は! ウサ耳さらけ出して! そんなはしたない格好で! 坂の上なんて危険な角度で! 何を堂々と立ってるんじゃ!!」
「ご主人が遅いのが悪いのです。予定より大分遅れてるのです」
「遅れたのは俺が悪いけど! そのことと由紀がこの格好で外に出ることは何の因果関係もないだろ!?」
「大丈夫なのです。ちゃんと下着は穿いてるのです」
ピラッとTシャツを捲る由紀。
「うわぁ! そ、そういうことは止めなさい!」
「何を赤くなってるのです。そんなことより、由紀でない方の由紀はどうしたのです?」
「はっ」
完全に置いてきてしまった。
全力で来た道を戻ろうとしたが、既に守永由紀は憂晴の家の前まで来ていた。
その額にはうっすらと汗が滲んでいる。
走って後を追ってきてくれたのだ。
「びっくりしたぁ、突然走り出すんだもん。さっきの、やっぱり妹さんだったんだ。確かに凄い格好……移戯君が焦るのも分かるなぁ」
「いや、まあ、うん」
「さあ、さっさと恋人同士の証明をするのです」
「その前に下を穿いてきなさい!!」




